〇オーラを見る目が養われてくると、人に会ったとき、この人はこのようなプラス面とあのようなマイナス面を持っている、ということがわずかながらわかるようになってくる。しかし、そのためにはオーラの色がわかるようにならなくてはダメ、オーラの色にこそ気持ちが現れるからである。また黒い病気の部分のオーラもあるのでそのことによって気持ちに変化が起きていることもある。そのようなことを人を批判するために使わないこと。
 オーラの色が見える人どうして、あの人はこういう色に見えるとか話あうのならいいが、ほかの人には色のことは言わない方がいい。オーラを見るということは真実を見極めるための一つの道具であると軽く考えておいた方がいいかもしれない。
 また、写真を通して人のオーラを見ることもできる。よく聖人の写真のオーラは素晴らしく輝いているといわれるが、それは写真からではなく、写真を通して見ているのではないかと思われる。この場合、撮影された時間と現在の時間の隔たりは左右されない、であるから、坂本龍馬の写真を見て、当時の彼のオーラを知ることも可能なわけである。
 写真や神から発せられるオーラは本人が感情的に軽い興奮状態にあるときには輝きが増したり、より大きく見えたりするものである。図形にオーラが見えたのは、その図形が視覚から脳に何らかの作用をするためのオーラとなって感じられたのである。もちろんそのようにオーラとして感じるくらいであるから、ちゃんと現実に良い働きが出ていることは確かである。やはりオーラは楽観的に見た方がいい。
 オーラは興味のあるものほどよく見える。好きな歌手がいたらその歌手がステージに立っているときに、オーラを見に行くと良い。きっと広く濃いオーラが見えるはずである。興味のあるものは何でも構わない。植物を育てることに興味があれば、水をあげた後、植物に声をかけたときなど、オーラはいろいろ変わるので練習には好都合である。話しかけると植物はたいてい答えてくれる。
 また、職場などはオーラの練習に最適といえる。いろいろな人と会うのであるから、オーラの練習には飽きない。家に帰ってくつろいであるとき、あの人はどんな色だろうかと思うことも練習になる。

 


 

〇もし私たちが、怒りや正義感、あるいは犠牲者意識などによって動機づけられた行動に出たとしたら、それは、決して妥当なことではない。それらの考えは、私たちが自分と他人を比較して行う裁きの結果に他ならない。その裁きを通じて、私たちは自分を他人よりも優れた人間として見たがっている。もしもそれらの考えに従って行動してしまったとしたら、私たちは、自分の魂のカルマ的負債を増やすのみならず、それらの考えを通じて学ぶことを、し損なうことにもなってしまう。

〇人を殺すこと、あるいは他の生き物を殺すことを通じて放出される凶暴性は、怒りに満ちた言葉を言う事で放出される凶暴性よりも遥かに規模が大きい、殺すことで生み出されるカルマ的負債、エネルギーのアンバランスの解消は、それらと同じぐらいに残酷な体験によってのみ可能となる。しかし、「畏敬の念」を持つ人は、それを持たない人には避けがたい極端に厳しいカルマ的体験を、自動的に回避できる。

 

〇内側から2番目の色のついた色彩オーラを見る方法
 このオーラを見るために覚えておいていただきたいのはオーラはハッキリした色としてではなくて、「そこにそういう色があるようだ」という感触によって見えるということである。そして相手のオーラの中だけではなく、自分の体内や頭の中には、相手のオーラが見えてくるこということである。
①人と会っているとき、まずこの人のオーラは何色だろうかと思います。そして、頭の中にパっと出てくる色を覚えておく。これは自分の内部に湧き起こる色に対して敏感になる練習である。
②次はかなり高度な練習。手を見つめて手の中や周囲の色を透視する。組織の色としてではなくて、感じる色である。空想でも構わない。
③日常生活で自分の内部に注意を向け、時々自身の体内に沸き起こる色に注意する。胸の中・へそ下の腹の中等々、神経の集中しているところ、いわゆるヨガのチャクラと呼ばれている場所である。ただ無理をせずに見えてきたらそれでよいのである。
④人のオーラを見てみる。まず1番外側のオーラを見る練習をする。見えなければこうだろうと思い描く。そのためには普段からオーラについて興味をもっておく必要がある。
⑤次に区間ごとに色を見ていく。まず、首の両側、肩の上、それから頭の真上、体側、足。どこか2ヶ所でも色を感じればそれをノートに書き留めておく。また、色が見えてこないときはに、見方がよくないのかもしれない。じっと見てはいないか。遠くを見るような見方とか、いろいろ試してみる。それでも見えてこないときには、自分からここはこういう色のハズだと思って見るようすると良い。

 

〇冬の寒空の下、段ボールにくるまって眠り込んでいる人を見ても、その魂がそれで何を完結させようとしているのか、私たちにはわからない。その魂はもしかしたら、別の人生の中で何らかの残虐な行為に及んでいて、そのために、同じ返済を全く別の立場から「例えば浮浪者としての立場から」体験することを選択しているのかもしれない。しかし私たちには、その真意はわよからない。わたくしたちがその人の境遇に同情することは、妥当なことである。しかしながら、それを不公平なこととして認識することは、妥当ではない。実際それは不公平なことではないからだ。

〇私たちは裁いたとき、ネガティブなカルマを創造する。裁きは意思の持つ機能である。他の魂について、「彼女は価値がある」あるいは「彼は価値がない」などといったとしたら、その時私たちはネガティブなカルマを創造することになる。また、何らかの行動について、「これは正しい」「あれは間違っている」などといったときにも、私たちはネガティブなカルマを創造する。

 

〇身体の周囲、1番外側にある外周オーラを見る方法
①目を閉じて西の空にオレンジ色になって沈む夕日を思う。これはほんの数秒でよい。思い描けたら、その太陽の直径をどんどん広げていき、自分の身体よりも広げてしまう。その時に両手を水平にして手のひらでイメージを大きく広げていくようにする。
②目を開けて深呼吸(腹式呼吸)をゆっくりと行う。
③目を閉じて、冷たく気持ちのいい青い水でできた球を思う。大きさは自由。
④目を開けて③と同じ呼吸。
⑤いよいよ人間ののオーラを見てみる。手のオーラはもう見ないように、まず、「誰でもオーラはあるのだ」ということを自分自身に言い聞かせる。そして、だいたいこの辺りにオーラはあるのだろうという位置に心の中でオーラを思い描く。
 このイメージが本物のオーラと混同してしまわないのかと思われるかもしれないが、それは大丈夫。このイメージを描くことによって自分の目から脳、そして身体の間にオーラを見るための経路を作ることになる。
⑥心を落ち着けて相手を見る。そして「自分の中にある生命力が目という窓を通して相手のオーラを見ているのだ」と何度も心に言い聞かせる。これはオーラを客観的に見るためである。つまり、自分と相手との間に距離をとるのである。距離をとったことによって、自分の映像空間が相手の周囲に出来上がる。
⑦相手の方から上の大気中に、薄い大気の筋のようなものを探す。この薄い筋を見る連休は、オーラを見る上で大切である。これが、オーラ同士の境界線となる。つまり1番外側のオーラなのである。
 よく見えないときは、目を大きく開く、目を細める、顎をやや上げてみる、などいろいろと試みてみるといい。ただ眼はキョロキョロとしないように。そういう時はゆっくりと腹式呼吸をして見えてくるのを待つこと。
⑧自分の目がキョロキョロとしているかどうかを確認するには、30秒ほど目の前の机においてあるものの一点または文字をぼーっと目を垂らす気持ちで見ていく。30秒見られれば良い。出来ないときはリラックスして、ゆったりとした呼吸の後、再び行う。
⑨大気の筋は頭の上・身体の両側・脚・背中いろいろある。
⑩できるだけ多くの人を見て、その微妙な違いに気付くようになれば上達している証拠、花の咲いている植物のオーラも見えてくる。オーラはだれでも見ることができる。空想でもいいからノートに記録して置くと最高。空想だと思って描いたオーラが実は本当のオーラだったということはよくあることである。数人で集まって行うとその結果は想像以上のものがある。なぜなら空想だと思って見過ごしていたものが、オーラだったということに気付き、より良くオーラが見えるようになるからである。

 


 

〇ある過去生で他人を騙したとしたら、その時その人生では、「他人に騙されることで正される必要のある、エネルギーのアンバランス」を創ってしまった。そしてその人生の生涯が終わるまでに正されなかったとしたら、同じ魂の別の人生が、他人に騙されることを体験することになる。「他人に騙されることは過去に創られた原因の結果であるということ、および、その体験によって、魂全体のプロセスが完結することになる。」ということを理解していなかったとしたら、その時その人生は、自分の魂全体の観点からではなく、個人的な観点からまた反応してしまう。

 怒り狂い、復讐心をたぎらせるかもしれない。あるいは、ひどく落胆するかもしれない。殴りかかるかもしれないし、世をすねるかもしれないし、悲しみに沈むかもしれない。そういった反応のすべてが、バランスを取られる必要のある別のエネルギー・アンバランス、すなわちカルマをまた創造することになる。このようにして、いわゆるカルマ的負債が支払われるのと同時に、新しいカルマ的負債が次々と創り出されていくのである。

 

〇生命力という言葉は大切である。この言葉を思うようになってまず、自分の生命力を思うようになる。そして、相手の生命力と精神的に同調し始める。すると不思議なことにオーラが感じられるようになってくる。暗いところで黒い紙を背景にして指先を見ると、指先から白い霧のようなオーラが見える。それと同じ方法でラピスラズリというパワーストーンを見ると、やはり同じような霧状のオーラが見える。もしも、ラピスラズリに他の石が混じっているときは、青いラピスラズリのところからはオーラが激しく出るが、他の石のところからはそれが見えないのがわかる。しかし、ラピスにはこの放射状のオーラのほかに、その周囲に素晴らしく青白い色のオーラがある。
 石によってオーラの形も異なり、また、そのオーラは原石の表面の色とは無関係であることがわかる。ラピスなどは、石本体から少し離れたところに雲のようにポッカリと出ているオーラもある。しかし、原石のオーラは人間のオーラに比べて薄いので見るには努力を要する。また、人が肌身離さずに持っているものだと、その石のオーラが白く薄くなったりすることもあるし、反対に汗などで汚れてくるとオーラの出が弱くなることもある。だから、どんなに良いと言われる石でも、前にその石を所有していた人が、破壊的な感情を持っているなら石はその感情を吸い込んで、次の所有者にそれを放つことになるのである。

 


 

〇カルマは道徳的な力学ではない。道徳は人間が創造したものである。宇宙は、決して裁かない。カルマの法則は、私たちの道徳システム内のエネルギー・バランスを含む、あらゆるエネルギー・バランスを支配している。それは、責任に関する非個人的、宇宙的な教師とてして、人類に奉仕している。

〇結果をまだ生み出していない原因のすべてが、まだ完結していない出来事である。それはアンバランスなエネルギー状態にあり、バランスがとれた状態に向かう過程にある。そしてそのバランスは、必ずしも一つの生涯の中でとられるとは限らない。あなたの魂のカルマは、体験する人生の活動によって創造されもすれば、解消されもする。

〇一般に人生は、自身の魂の数ある輪廻転生の内の別の人生が作り出した結果を、頻繁に体験する。と同時に、それとは裏腹に、自身の生涯の中では解消しきれないエネルギーのアンバランスを創り出したりもする。よって、魂、輪廻転生、およびカルマに関する知識を持たなければ、今生では、人生内で発生する様々な出来事の重要性や意義、あるいは今の生涯に対する自分の反応の結果を、必ずしも理解できるとは限らない。

 

〇ラピスラズリの原石のオーラを見る方法。
①白いB4くらいの大きさの紙を目の前60センチくらいのところに置く、距離は自分で見やすい位置にする。
②簡単な光でできた図形を思う。それから白い紙を見つめ、今思い描いた図形を自分の目を映写機として投影する。もちろん映写機ではないがそのように思うのである。
③自分でその投映像を見ている気持になる。10秒ほど行って目を休める。深呼吸をしてゆっくりする。これを毎日行うと、オーラを見るための神経回路が出来てくる。
④人差し指又はラピスラズリの周囲1・2ミリの空間を見る。背景が薄暗いところで見るように、黒い紙を置いておくのもよい。ただし光らないような紙が良い、光る紙ではオーラと光の区別がつけにくくなる。
⑤対象物の周囲1・2ミリのところを見ながら、目をリラックスさせておいて、ゆっくりと深呼吸を2回する。吸うときは骨盤の開くような気持ちで、はじめは薄い放射状のオーラしか見えないが、毎日行っていると、多く出ているところと少ないところがわかるようになってくる。
⑥これが本当のオーラかどうか確かめるには、粘土にラピスをはめ込み薄暗いところへ持っていき、オーラの出ている所を指で押さえる。それがラピスなら間違いなく見えていることになる。
⑦また、人差し指がこちらから見て隠れるギリギリのところに紙をあてがい、指を動かしてしてみるのもよい、オーラも一緒に動くのがわかるバズである。
⑧この練習の時に絶対やってはならないのが、指と指を動かして同じ方向に動かすというものである。両方のオーラがくっついて一緒に動くように見えるが空想も交じってしまう。薄暗いところで指先を長く見つめていると、指先からいろい靄のようなものが細長く出ているのが見えるが、それはオーラと目の働きによるもので正しくオーラを見ているとは言えない。オーラがよく見えるようになってからこれらの練習は行うこと。1・2ミリのオーラを見る段階ではこのようなことは必要ない。
 そうして植物の芽や他の人の指、猫の手などいろいろと興味を持ってみること。得られる情報が増えれば増えるほどオーラは良く見えるようになってくる。

 


 

〇私たちのほとんどは、「自分の行動のいくつかには責任があるが、そのすべてに責任があるというわけではない」というアイデアになれ親しんでいる。例えば、自分が何かをして周囲の人たちと仲が良くなったときには、それを自分の手柄だと考えるが、結果的に彼らと議論になるような場合には、それは自分のせいではないと考える。
 例えば、まともな仕事で生計を立てているときには、それを自分の功績にする一方で、空き巣狙いで生計を立てているときには、それを恵まれない生い立ちのせいにしたりしてしまう。
 私たちの多くにとって、責任を負わせられるということは、捕らわれることにも等しい。そこで私たちは、可能な限り責任を回避しようとする。しかし責任からは永遠に逃れられない。
 あらゆる行動、思考、フィーリングが、きっかけによって動機づけられている。きっかけは、何らかの結果と一体となって存在する原因である。もし私たちが何らかの原因にかかわったとしたら、私たちがその結果とかかわらないことは不可能である。このようなきわめて深いレベルで、私たちは、自分のすべての行動、思考、フィーリングに関する責任を負わせられている。

 私たちは、自分の原因の果実のすべてを、自ら食べなくてはならないのである。よって、自分の様々な意図を認識するとともに、どの意図がどんな結果を創り出すかを整理し、自分が作り出したい結果からつながる意図を選択することは、賢いことである。

 



〇カルマの法則は、作用反作用のエネルギー力学である。それに従って発生する結果は、個別化されたとき、つまりその人の人生の観点から体験されたとき、原因である意図のエネルギーが、方向が反転して戻ってきたものとして体験される。

〇他人を嫌悪する人間は、他人からの嫌悪を体験することになる。他人を愛する人間は、他人からの愛を体験することにる。キリストが「山上の垂訓」の中で言った、「人にしてもらいたいと思う事を、人にしてあげなさい」という教えは、カルマの力学に基づいた行動指針である。個別化されたカルマの法則は、「自分が世界に与えたものを、世界から受け取ることになる」といったところだろう。