きゅっ、と俺に腕を絡ませる。腕と言っても手首に近いほうであり、背が小さいからこの位置になるのは仕方がない。身長はひなより少し大きいというくらいである。ほんの数センチだが。そういえば以前に身長のことで、ひなと実梨が言い争いをしていたのを思い出した。結局どんぐりの背比べということわざを仁太が二人に教え、矛先は仁太に向かい、その場は収まることができた。
「というかお前、急に腕を絡めるなよ。恥ずかしいだろうが」
「あはは。恥ずかしいっていうことは嫌じゃないんですね?」
 この天真爛漫な女の子は男子に人気があるのを俺は今思い出し、そしてその人気の理由を体感していたのだった。
「おやおや、朝から熱い光景を見せつけてくださいますね」
 後ろから声がする方へ向く。そこには黒縁眼鏡をかけた男が立っていた。紳士服が似合いそうな雰囲気とその顔はこちらを見ながら、微笑を浮かべていた。黒い髪を揺らしながらこちらに近づいてくる。
「やはー。海斗じゃん。おはよう」
実梨が俺の腕を掴んでいない方の手を海斗に向けて振っている。
「おはようございます。実梨さん。それと透先輩も」
「おお、おはよう」
 誰に対しても敬語を使い、何を考えているか掴みきれない色男こそ神無月海斗その人である。
「しかし、この様子だと雪も解けるのではないですかね。気温は確実に上がっていると思いますよ」
「……雪は降ってないけどな」
「確かに、そうですね。そう言ったほうが風情があると思って」
「風情のために勝手な設定つくるなっ!」
「雪が降ってないのは……本当に残念ですね」
 少しも残念に思っていない顔で言われる。口元が緩んでいるのが分かる。この状況を楽しんでいるとしか思えない。
「まあ、朝から眼福ですよ」
「いいでしょうっ! 朝から私も先輩と登校できて……体福だよっ!」
 体福って何だ? と聞いたらめんどくさい返しがくると思ったのでスルー。
「とりあえず実梨離してくれないか? 何だかさっきから周りの視線が」
 ……痛い。登校している生徒からは噂話にはもってこいの状況である。餌も付けていない竿にかかった魚を釣り上げ、驚きとにやけがとまらない釣人のような顔をしている女子はネタをゲットしたと言わんばかりに携帯でメールを打って楽しんでいる。男からは……殺気に満ちた視線と『リア充がっ!』というお決まりのセリフを浴びる。
俺は涙目になりながら腹を押さえていた。もう少し下の方向を熱い抱擁でタックルされていたら、この世の男子しかわからない痛みを味わっていたであろう。あの痛さというか、苦しいというか、辛さは本当に体感したくないものである。そいつの腕を俺はほどき、
「あ……ありがとよ。お前は朝から元気だな。だけどな、抱きつくならもっと優しくだな……」
「あははっ! 先輩は何言ってるんですか? そんなの面白くないじゃないですか!?」
そんなにこにこした表情で言うなよな。
「面白いってお前な……」
 
「それに、先輩ってやっぱり優しいですよね」
今もなお離さない、その腕が少しだけ強くなった気がした。
「急になんだよ?」
 さらに上目づかいのその瞳で、
「だって、先輩は避けずにいてくれましたから。避けるという選択肢もあったはずですよ?」
「……」
自分にとってはそれが普通のことだと思っていた。だから、そんなことを突然言われると、どういう顔をしたらいいか分からずにいた。唐突な襲撃には誰もがパニックを起こすようでそれは俺も例外ではなく、視線を明後日の方向に向けるのが精一杯だった。
「あのまま、避けたら私が転ぶと思ってくれたんですよね? しかも無意識に。やっぱり透先輩は優しいですよ」
 俺と会ってから笑顔を絶やさないでいる、この女の子の名前は長月実梨。俺の後輩にあたる。実梨も聖奈や仁太と一緒のバンドのメンバーである。ショートカットが似合う天真爛漫な明るいキャラが実梨のイメージだ。ちなみに、この実梨も『ひな様親衛隊』の会員の一人である。理由は、たしか『親友だから』だそうだ。
「そんなことよりお前何か急ぎの用事があって走ってたんじゃないのか?」
「ああ、いいです。先輩と登校できる方が大事ですから」
「……なら、いいけど」
 素直に喜べずにいる俺は本当に子供だ。ここで『ありがとう』の一言を余裕の笑みで言えたらと思う。
「じゃあ行こう! せーんぱい」
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その事象は俺の横をものすごい速さで通り過ぎて行った。一瞬、香水のような、シャンプーの匂いなのか分からない香りが漂った。良い香りだった。その事象は俺の横を通り過ぎた後に、走りながら横目でこちらを見ると急に止まった。そして、またこちらに向かって走ってくる。どうやら横目で見た時に俺に気付いたらしい。俺だというと分かるとそうなるのか、満面の笑みで朝からフラット七秒台を叩き出すぐらいの速さで走ってくる。まだ加速していく。なあ、それ以上そのスピードで俺の前に止まれるのか? 言っておくがここは坂だぞ? その事象はどうやら、俺の前だとブレーキという止まれを知らないらしい。一時停止の看板でも持っていれば良かったかな。
「せーんぱい!」
「んぐおっ!」
 俺の腹にものすごい勢いでタックルし、そのまま抱きつきながら笑顔をこちらに向けてきた。その上目づかいのまま、
「おはようございます!」
「お……お……はよ……う」
 ……悶絶。
 その一言が今の俺の腰の曲がり角度で誰もがわかるだろう。登校中の朝から後輩の女の子に勢いよく抱きつかれる喜びとはいえ、痛みを代償にしなければならないとは。抱擁というか快楽には犠牲が付き物……なのか……。
 「先輩? 大丈夫ですか? 私、背が小さいから抱きついてもお腹にしか抱きつけないんですよね。それよりも、先輩と朝会うなんて久しぶりですね! いつも部室でしか会わないから、何だか嬉しくて! つい抱きついちゃいました!」
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玄関を出ると十二月の寒さに頬が冷える。十二月だというのにこの寒さとはどういうことだと誰かに問いかけたい。なぜならそれは地球温暖化という現象を俺は知っているからだ。なぜ温暖化という文字があるはずなのに、この十二月の季節にこんな寒さなのかと思う。この思いつきの問いに答えてくれる心優しい人を俺は絶賛募集中である。ネットで調べるのも面倒だと思うところは秘密にしておきたいところだ。
二月の寒さだろと思わせるような白い溜息を吐きながら、学校に足を向ける。白い息が頬をかすめ後ろに流れ消えていく。ポケットに冷えた手を入れ、上を向くとただの青空が広がっていた。雲一つない一面の青空だった。


 そういえば今日は数学のテストがあったな、と気づいたのは学校に向かう坂の途中で見かけた俺と同じ高校の制服姿が目に入った時だった。一年生だろうか、参考書やノートを真剣に見ている姿が少し幼く見えた。あれだけ仁太の家で勉強していたのだから大丈夫だろう……と思うことにする。一時間も勉強に費やしたのだから充分だろう。
ズズッ……、しばらく歩いていると、先程からまた鼻水が俺のティッシュを欲しがっている。ティッシュのストックなんてあまりないし、風薬も持ち合わせていない。昨日、窓を半分開けたまま寝ていたのだから仕方ないことではある。

……だが待てよ? 俺は昨日窓なんて開けた記憶がない。そして、この寒い時期に窓を開ける行為なんて俺がテスト勉強を二週間前からするぐらいの確率の低さだと思う。もしかして俺は夢遊病患者なのか? 知らない間に窓を開けて、よし明日は鼻水を垂らすために窓を開けるぞ! と意気込んで窓を半開きにしたのか? それならなぜ半開きなのか……? いや待て、そういうことではない。
 
その時だった。
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「何じろじろ見て?牛乳欲しいの?」
「いや、これ以上背は伸ばす予定はな……」 
 と言いかけて、妹がホワイトタイガーが柵から出てきて獲物を一直線に狙っているような目で見ているのに気づき、
「そ、そういえば今日は部室にくるのか!?」
背中にこの季節にはありえない冷や汗を垂らしながら狼狽していた。
「ふん。まあ行くと思うけど?どうせ暇だしね。あとお菓子も持っていっても大丈夫だよね?」
「ああ、たぶん大丈夫だと思う」
 とある女子の一人は喜び、とあるもう一人の女子は不機嫌になるであろう光景を想像した。また、フォローするのは俺なのだろう。もう慣れたものだが。
「なら行くよ。教室だと食べれなからね。実梨にも会ったら言っておいてくれる?」
「分かった。会ったら言っておくよ」
 自分で言えよ、とも言えずに時計を見るともうすぐ行かなければ遅刻する時間になり、玄関に歩を進めていると後ろから、
「ありがとうお兄ちゃん」
 と声を掛けられたので振り向くと、ああ天使様と言いたくなるような慈悲深き笑顔が向けられていた。恥ずかしながら顔を背けて、行ってきます、と言いながら玄関のノブを回した。その笑顔を焼き付ければ学校の授業の暇な時間なんてその笑顔を思い出せば、教師のつまらない話をシャットダウンし、自分の脳に録画した笑顔を再生し有意義な時間を使おうではないか。
 まあ、あの笑顔が心からの笑顔からならの話だけどな。
 もう――騙されないからな。