死んだ人のために生きることを、
自分で決めている人もいる。
死んだ人が、
自分を見ているかどうかもわからないのに。
鬱なのと、景気が悪かったのもあり、
就職の内定が決まらなかったとき、
「障害者採用って手もあるわよっ♪」
と、上機嫌で言われたことがある。
しかし一方で、
その何年か前に「このまま実家にいたら本当に自殺してしまう」と言うことでわざと自殺未遂をして入院をしたことがあるのですが、
そこで何も癒えなかったり「問題無い」的に診断され
「ちょっとあなたはそういうところとは違うのよねっ♪」
「体験入院出来て、良かったわねっ♪」
とまた笑って言っていた。
大枠として、
自分より下でいて欲しいという軸はあるようだが、
それよりも何よりも、
本当にどうでもいいことが伝わる。
このように、
敬意ゼロで笑って来るのがこの三次元の人間という偏見からは、
残念ながら現在も抜け切れていない。
先ほど、
7歳から希死念慮があるのにそこまで生きられてすごいとある男性に言われたのですが、
これは、私が「何のために死ぬか」を見つけられなかったからです。
しかし、
男性は「何のために死ぬか」と言うことを考えるのはいいと思うのですが、
女性にはこの発想は向いていないんですね。
お母さんのために死ぬ娘はわりといますけれど、
私はそれでは無いですし。
ただ、
死んでないだけで生きられてもいないです。
ちっとも。
愛せないからね。
人を。
だから、愛も受け取れないし。
呼吸も上手く出来なくて、
すぐ疲れてしまう。
全然違うものと、
一緒にされたり、
一緒に出来ないから除外されたり。
哀しかったです。
哀しいと言うか、
本来この世に存在しちゃいけない感覚だと思ってるよ。
原子力みたいなものだね。
誰かが見つけちゃったから、
変な兵器に発展しちゃった。
死ぬ勇気はない、
と八歳で悟ったが、
愛する勇気もない。