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10月某日、ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃「ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」@アーティゾン美術館に行きました。

 

 

石橋財団コレクションと現代作家が共演する年1企画「ジャム・セッション」。

4回目の今回は、山口晃さんがセザンヌ雪舟を中心にコラボ。(大人気セザンヌ、今回も選ばれていた!)

 

ポール・セザンヌ《鉢と牛乳入れ》c.1873-77《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》c.1904-06《帽子をかぶった自画像》c.1890-94/雪舟《四季山水図》15世紀・室町時代


山口晃《テイル オブ トーキョー》2023
 

 

伝統的な日本絵画と西洋の油彩技法を用い、時空が混在した画面を細密に描く作風で知られる山口晃。

画家の近作初公開に加え、セザンヌについての自由研究雪舟に基づくインスタレーション感覚を揺さぶる面白い仕掛けも用意され、とても楽しかったです。

 

 

のに!!書き途中の記事が消えたあああ!!!

ただでさえ思うことが収拾つかない展示だったのに…!

掻い摘んで書き直します(血涙

 

 

ワンフロアに様々なアプローチの展示が交差し、2Dと3Dが入り混じるような、自分が伸び縮みして絵の中にいるような、面白い空間になっていた😃

 

 

タイトルのサンサシオンとは「感覚」を表すフランス語で、山口さんが大好きなセザンヌが制作について語る際によく用いた言葉だという。

画家が世界を見た時の、身の内から湧き上がるような「感情に至る前の感覚的な衝動」のこと。*1

 

 

山口さんやセザンヌの言う「サンサシオン」と同じかわからないけど、自分はよく空耳や空目をしがちなのもあって、何かを見て「これは何々だ」と認識する前の「何か」との遭遇の瞬間に惹かれます。

 

なんだこれ!とハッとして、すぐにああ何々か、となるのだけど、そのハッとした刹那、現実がうっかり別の顔を見せてしまったような、不思議な感じがするからです。そのように偶然の遭遇もあれば、凝視することで立ち現れてくる場合もある。

 

 

逆に言えば、それは「ああ何々か」と概念で理解してしまった途端、見えなくなってしまう。現実を名付けているものから離脱した、感覚と世界。

 

本展では、他人のそういう感覚を追体験するような、ああきっと山口さんには世界がこんなふうに見えているんだなと、画家の視覚の一片が垣間見えるような空間で、楽しかったです。

 

「絵を見ることは意味を読み解く脳髄のほんの一部の行為ではなく、全身体験」*1


 

 

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最初の部屋でまず、無自覚に凝り固まった感覚をグルングルンにかき回されるのも面白かった!めっちゃ酔ったけど。あそこにずっといる監視員さんすごい…😵‍💫

★ネタバレ画像→《汝、経験に依りて過つ》

 

 

 

 

 

それからテキストも多い展示で、自分は山口さんのお話も好きなのですが、その軽妙な語りを聞いているようで面白かったです。

 

感覚的というのか、より身体に近い言葉を多用することもあってか、こちらにも体感的にイメージが伝わってくる。

と同時に、それがあくまで自分の解像度内での伝わりでしかなく、見えない世界の奥深さにも圧倒される。

雲が晴れて、これぞという光が差すと同時に、その雲の向こうに広がっていたのは広大すぎる空で、ますます途方に暮れるようなくもり

 

セザンヌも雪舟も、絵を学んでいくにつれて良さがわかるようになったという山口さん。画家でもそうなのか!とはいえそもそもの「わかる」の深度が異次元だけど。

 

 

やっぱり作る人の話は、どんなジャンルでも面白いな。ムズムズと触発されてじっとしていられなくなります🫨

 

山口さんの人気著書『ヘンな日本美術史』、私も愛読ムズムズ書!
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セザンヌの自由研究では特に、ムズムズするお話が色々あった(けど、キリも他愛もとりとめもないので、もいメモに追記。*2)

山口晃《セザンヌへの小径》2023

アーティゾン美術館の休館日に通って続けた模写をもとに制作。

 

模写の様子。事細かに分析が書かれている。ちょっと写真のプリント指示みたい。

 

 

 

パラリンピック公式ポスターのために描かれた作品。

山口晃《馬からやヲ射る》2019

山口晃《馬からやヲ射る》2019

 

馬上から、口や足を使って矢を射る人物。

背景には福島第一原発や、5cmの段差を越えられない車椅子の人など、多くのモチーフが描き込まれている。

「作品は本来プラカードではないが、今回はメッセージをできるだけ盛り込んだ」という。

 

 

オリ・パラの依頼を受けて悶々と悩む様子。ご本人の苦悩をよそにクスッと笑えてしまう😂

山口晃《当世壁の落書き 五輪パラ輪》2021

山口晃《当世壁の落書き 五輪パラ輪》(部分)2021

 

 

 

山口晃《東京圖1・0・4輪之段》2018-2023
 


六本木ヒルズや浅草十二階など、時代やスケールが異なるモチーフ同士が画面内に同居する。防衛省は㊙️


 

 

かと思えば、何もない真っ白な空間が登場。

なんと目の中に入っていけるコーナーだった!ポーン

 

 

 

書き割りのような山水画インスタレーションの設計図。

解説や設計を見ていると、画家の目にはこんなふうに画が動いたり立体的に見えているんだと感じられ面白い。

 

 


最後の部屋には、近代日本洋画と山口さんの言葉が並ぶ。*3

黒田清輝《鉄砲百合》1909/浅井忠《縫い物》《グレーの橋》1902

 

 

 

 

画家が世界を見た時に感覚器官が震え上がるような衝動、サンサシオン。

セザンヌは、その身の内に湧き上がる感覚こそを作品に実現させたかったのだという。


個人から内発されるものは切り捨てられて歴史の中に位置付けられ、個人を活かすために存在するはずの制度がいつの間にか個人を圧する。

そのような中で、内から湧き上がるサンサシオンの重要性を問う展覧会。

 

まとまりませんが、よい体験ができました。

感覚を持ち続け、進むこと晴れもいもい
 

 

 

山口晃《来迎圖》2015

 

感覚に集中して対象と同化して描くというのが古今東西の制作の基本だと思いますが、感覚に集中することは正に生きているということであり、制作は生の全肯定なのです——山口晃

 
 

ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃
ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン

会場:アーティゾン美術館6階

会期:2023年9月9日(土) 〜 11月19日(日)

料金:一般1500円(WEB予約 1200円)
 


日本は近代を接続し損なっている、いわんや近代絵画をや。 写実絵画やアカデミズム絵画に対する反動としての、あるいはその本来性を取り戻すためのものが西欧の〈近代絵画〉であろう。が、写実絵画やアカデミズム絵画の歴史を持たぬ本邦に移入された近代絵画とはなんであろう。 西欧の近代絵画と日本の近代絵画を蔵する石橋財団コレクションを前にして、改めて、山口晃(1969- )はそう述べます。 今回のジャム・セッションでは、「近代」、「日本的コード」、「日本の本来性」とは何かを問い、歴史や美術といった個人を圧する制度のただ中にあっても、それらに先立つ欲動を貫かんとする山口晃をご覧いただきます。

 

【もいメモ】

*1:サンサシオンについて:

「個人に根差したもの、内から湧き上がるものが本当というクサイことをいかに陳腐化せずに最前線で言い表せるか。表層的な時代が変わってきたときにその変わらない古くからあるものへのアプローチへの方法論は変わってくる。本来的なものから派生した業界や歴史などの「制度」による重しによって本末転倒になってしまっては死んでしまうyoutube

・参考:美術展ナビTOKYO ART BEATアートアジェンダMONOCLE

——過去記事から:先入観・既成概念について(装いの力―異性装の日本史)/自然と人間とアートは統合されるべきである。(深澤直人)/「都市化」「同じにする」という話と制度化もつながる?(言語について)/みんなで寄ってたかって意味があるフリしてませんか(ヨコトリ

*2: 「構成的に見える絵でも写実性が宿っている」:

サント=ヴィクトワール山を現地で見た時に、色彩の写実性に驚いたという話。自分も似たような体験。

セザンヌと逆で、写実的なルネサンス絵画なのになんで草木はこんなケバい色で描くんだろうと思ってたんだけど、実際に行ってみたら本当にそういう色をしていて驚いた。日本の緑と全然違った。画家はただ、見たまま描いていただけだった!写真を撮っていてもよく感じるけど、その土地で空気の色も全然違って面白い。抽象的や空想的に見える表現も、現地に行ってみると、けっこうそのまんまであったりするのだと知った出来事だった。で、「その写実性が何によってもたらされ、何に向けて使われるのか」。

*2-1:セザンヌの多視線から
某巨匠のストーリーや画も「今とここ」だ。一見、整合性が取れないように見えるのは「今」と「ここ」の集積だからではないか。そのように極端に空間も重力も歪ませる一方、むしろリアリティを重視している。感覚の域に直接触れてくるからこそのリアルの強度。図学的にではなく人間の生理的なリアル。

*3:古さと新しさ。新しい時代の作品を作るということは。後日やまと絵展に行き、日本絵画の古と最前線を相互に見られたのもちょうど良い経験だった。日本の絵というものがなんとなく、ああこういうところに受け継がれているのかと感じられたようで、そもそも日本の絵とはなんであるかと考えなくてはいけなかった。

「古典の構造をしっかりとらまえたからこそ、そこにまったく新しいものが立ち上がってくる」「先達に憧れ、それを自分流に誤読をし、憧れと未生の部分を実現していく。それがあるべき姿」

その他:「ものを見せてはいけない、でも存在を描かなければいけない」「誤読こそが創作の淵叢」