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あべせつの投稿記録

投稿小説・エッセイなどの作品記録用ブログです

〈十六夜 朝・辰の刻 洋子宅〉


「洋子さん、ちょっと」

 朝食の盆を持って部屋に入ると、待っていたかのように幸代が話しかけてきた。珍しく顔に剣がなく柔和とまではいかないが、少なくともいつものような渋面ではない。相変わらず窓もカーテンも閉め切ったままで、部屋は薄暗かったが、ただそこに昨夜のろうそくの残り香が居残り、据えた空気をすがすがしく変えていたのがいつもと違っていた。


「お義母さん、おはようございます。昨夜はよくお休みになれましたか」

「それなのよ。やっぱり火が気になってなかなか寝付けなかったわ」

 洋子はろうそくを下げろと言われるのかと、ひやりとした。

「でもお義母さん、わたしちゃんと見に来ましたけど」

「そうね。でも忘れられたらと思うと心配になってね」

「お義母さん、アロマの効き目はなかったですか。わたしが消しに来ましたときにはぐっすり眠られていたようでしたが」


今、下げられたら困るという思いで、洋子は必死になだめた。

「まあ、そう言われればねえ」

 

 そのとき、幸代の枕元の電話が鳴った。幸代専用の固定電話で、洋子が出ることは禁じられていた。

(母さん、会社には電話してくるなと言っただろう)

 受話器を取るなり、怒鳴りつけるような武史の声が漏れ聞こえてきた。


「だって、あなた、携帯にかけたって、ちっとも出ないじゃないの」

 しわがれた魔女のような陰気な声で幸代が答えている。

(俺が忙しいことぐらい、わかっているだろうが)

「武史、今度はいつ帰ってきてくれるの」


どうせまた仕事が忙しいから当分帰れないと言っているのだろう。いつも同じ言い訳だ。馬鹿の一つ覚えみたいに。

(急用じゃないんなら、もう会社にかけてくるなよ)

捨て台詞とともに電話が切られた。一方的に切られて不機嫌になった幸代は洋子がいたことに気づくと、いつもの鬼面にもどってにらみつけた。


洋子さん、武史、まだ帰らないんだそうよ。あなたがいる限り帰って来ないつもりなんじゃないの。前は優しいいい子だったのに親不孝になって顔も見せやしない。武史がこうなったのは、あなたのせいよ。あなたが、図々しくこの家に居座るから、武史は帰って来られないのよ」

 自分の言葉に激高したのか、幸代はいきなり枕もとの銀の燭台をつかむとドアに向かって叩きつけた。カーンと音がして、ろうそくは真っ二つに折れ、燭台が床に転がった。


「あっ、お義母さん、なんてことを」

「こんなろうそくが何よ。こんなもんで、わたしの機嫌を取ろうと言うの。あなたの買ってきたものなんて見たくもないわ。もう出て行って。早く出て行ってちょうだい」

 そうヒステリックに叫ぶと頭まで布団をかぶり、背を向けて引きこもってしまった。あまりの剣幕に洋子はどうしていいかわからず、無意識にろうそくを拾い上げるとそのまま家を飛び出した。


つづく

〈十五夜 夜半過ぎ 洋子宅〉


自宅に着くとそっと玄関のドアを開けた。

「洋子さん、洋子さんなの」

 姑の幸代のいらだつ声がした。

「はい、お義母さん、ただ今」


奥の間へ急ぐと、姑の幸代はベッドの上に起き上がって、こちらを険しい顔で見ていた。

「洋子さん、遅いじゃないの。私が待っていること、わかってるんでしょ」

「はい、お義母さん、これでも急いで」

「嘘おっしゃい。たかだか駅前のコンビニに行くぐらいで、こんなに遅くなるはずないじゃないの。ここぞとばかり、羽目を外してきたんでしょ」

「いえ、お義母さん、そんなことは」

「だいたい私がミルクを飲まないと眠れないことは知ってるでしょ。どうしてそれを切らすのよ。私のことを思いやってくれていたら、買い忘れるなんてことないはずだわ」

「でもお義母さん、今日はお義母さんが家にいなさいとおっしゃったので買い物には行けなくて」

「まあ、私のせいだと言うの。今日は私も具合が悪かったから、家にいてくれと頼んだんじゃないの。常日頃から余分に買い置きをしていれば済む話でしょ。そんなふうに気がきかないから、武史だって」

「お義母さん」

「まあ、いいわ。眠れないのよ。そのミルクを温めてちょうだい。買ってきたばかりの冷たいままじゃいやよ。それから少し蜂蜜もいれてちょうだい」

「はい、お義母さん」

 

 洋子は台所へ行くと小鍋を取出し、ミルクに少量の蜂蜜を落として弱火にかけた。そうしておいてから、先ほど渡されたろうそくを手に取り改めて見た。錨型の白い和ろうそくに美しい銀華の模様が描かれている。鼻を近づけるとかすかに甘いハーブのような香りがするが、これが毒なのだろうか。それとも何かの呪術なのか。あの輝夜という男は何も教えてはくれなかったが、適当なごまかしを言っているようには思えなかった。これを次の満月の夜まで灯し続ければ、お義母さんはきっと。

 

 温め過ぎたミルクが小鍋からあふれだし、洋子は我に返った。

急いで引出をかき回してライターと燭台を探すと、それらを銀盆に乗せて幸代の元に戻った。

「お義母さん、はいミルクです」

幸代は無言で受け取ると、口をつけギャッとうめいた。

「まあ、洋子さん、熱いじゃないの。沸かし過ぎなのよ。あなたはミルク一つまともに温めることも出来ないのね。いったいご両親はどんなしつけをされたのかしら」

「すみません」


(また、いやみのオンパレードだわ。でも、それももう少しの辛抱)

内心の嫌悪感を顔に出さぬよう気を付けながら、洋子はベッドのサイドテーブルの上に燭台を置き、ろうそくに火を点けた。

「あら、何をしているの」

「お義母さんが眠れないとおっしゃるので、これを買ってきました。よく眠れる薬効入りのアロマキャンドルなんですよ」

「枕もとで、そんなろうそくを立てるなんて危ないじゃないの。私が寝込んでいる間に火事にでもなったらどうするつもりなの。それとも、それがお望みなのかしらね」

「まあ、お義母さん」

 

 本音を見抜かれたかとそれ以上答えることが出来ず、洋子はろうそくを引き上げるべきか悩んだ。

その時、ろうそくが大きく揺らぎ、心地よい香りをあたりに放った。

「ふうん、でもまあ、たしかに良い香りだわ。洋子さん、私が眠ったら必ずそれを消してちょうだいよ」

「はい、必ず見に来ます」

 洋子は幸代の部屋から出ると、体の力がいっぺんに抜けたようになり廊下にへたり込みそうになった。


十五夜 同刻・鬼灯堂〉


「洋子さん、だいぶ混乱してはるわ。言うてはることが支離滅裂やんか。そうとう頭にきてはるんやね。でもさあ、ひどい話と思わへん?」

 洋子を見送ると、憤慨した青炎こと青井加代が作業場の前に仁王立ちになりながら輝夜にまくし立てはじめた。

「嫁を奴隷か何かだと思ってるんやろか。自分が寝たきりになったからって、洋子さんまで家にしばり付けるのっておかしくない? 買い物以外の外出はダメで、あとは一日中、お姑さんの世話をしろだなんて、そりゃ酷な話やわ」

 

 輝夜は黙って、絵付けをしながら加代の話に耳を傾けている。

「それに旦那も旦那だよね。洋子さんに厄介ごとを全部押しつけといて、自分は他に女つくって家に帰れへんなんて有りえへんわ。でもさあ、洋子さんはご亭主のことが本当に好きなんだね。お義母さんさえいなくなればって言う気持ち、なんかわかるわ。そやけど輝さん、あのろうそくで、ほんまにお姑さんはコロッと?」

 

 なかなかおしゃべりの止まない加代をちらりと輝夜は見上げた。

「加代さん、もうとっくに零時も過ぎた。祐太が目を覚ましでもしたら寂しがるぞ。早く帰ってあげなさい」

「いやあ、ほんまや。はよ帰らな。明日も祐太のお弁当作ったらなあかんねん。ほんなら輝さん。今日はありがとう。またねえ」

加代はそそくさと、自宅へ急いだ。


つづく

〈十五夜 子の刻・鬼灯堂〉


まるで人目を避けるかのようにその店はあった。裏路地は暗く静まりかえり、突き当りのその店の灯りだけが道に漏れている。軒先に掲げられた大きな看板に《和蝋燭 鬼灯堂》と金文字で刻印されているのが、月明かりに照らし出されて見えた。


「こんな夜中に営業されているのですか」

「ほら、これ見てみ」

不安げに問う女に、青炎は入口の立て板を指さした。そこには《営業時間 逢魔が時より丑三つ時まで》と墨痕鮮やかにしたためられていた。


「輝さん、いてはる?」

表から声をかけ、青炎がその店の格子戸をガラリと開けると、輝さんこと輝夜は入り口を入ってすぐの作業場でろうそくの絵付けをしているところだった。

「あ、いるいる、さあ入って」

青炎は女を中に招き入れた。


「なあ輝さん、この人の話、聞いたってえなあ」

輝夜は手にした筆を静かに置いて立ち上がると、奥座敷へ二人を手招いた。ふすまを開けると床の間のある広い和室に照明器具はなく、時代物の燭台に立てられた錨型のろうそくの灯りが四隅にゆらぎ、外界とは切り離された特異な空間となっていた。


「大丈夫やから、はよ入りい」

 先に座卓についた青炎が手招きをすると、女はおずおずととなりに座った。

「こちらは鬼灯輝夜さん。このろうそく屋さんのご主人ね。色々と悩み相談にのってくれはるんよ。それからこちらは、わたしのお客さんで、ええっと」

「白河洋子と申します」

「そうそう、洋子さんやったね。でね、輝さん、洋子さんは、ある人を呪い殺したいんやて」

「せ、青炎さん、そんないきなり」

「大丈夫よ、輝さんはそんな相談には慣れてはるから」

 

輝夜はにこりともせず、まっすぐに洋子を見つめている。

「あなたは、だれを、どうしたいのですか」

 今宵初めて発された輝夜の声は、低くおだやかで聞く人を心底安心させる温かさがあった。

「夫の心を」

ろうそくの炎がじじじっと音を立て、大きくゆらいだかと思うと一筋の煙が上がった。

 洋子は深く息を吸うと一息に吐き出した。

「お義母さんを殺して、夫の心を取り戻したいのです」

 


〈十五夜 夜半・月夜道〉

 帰る道すがら、洋子は先ほどのことを思い出していた。

「あんな話を初対面の人にして、わたしったら」

 

鬼灯堂の暗い奥座敷の中、温かいオレンジ色のろうそくの揺らぎを見つめていると、不思議なことに固く凍りついていた自分の心が解け始め、それが濁流となってあふれ出てくるのを感じた。


「殺したいやなんて、また物騒なことを言いはるわ。そやけど旦那さんの気持ちを取り戻すのに、なんでお姑さんを殺さなあかんの」

「武史さんは気の優しい人で、とても母親思いの人なんです。でもお義母さんが一年前、突然倒れて寝たきりになられてからは、人が変わったようになってしまって。近頃では外に女の人を作って家には帰って来なくなってしまいました」

「そんなん、全然優しくないわ。母親の面倒を洋子さん一人に押し付けて、自分は逃げるなんてありえへんわ」


「ええ、でも夫の気持ち、少しわかるんです。お義母さんはお元気なときにはとても毅然とした方でした。なんでもご親戚が大学教授や弁護士やお医者様というエリートのご一族だそうで、お義母さんご自身もとてもプライドが高かったのです。だからこそお義父さんが早くに亡くなられて片親となった武史さんに、よその子にひけは取らすまいと小さい頃からとても厳しくしつけられたようで。武史さんは、『同級生たちのように両親に甘えられなくて寂しかった。人に甘えられたのは洋子が初めてだ』と言っていました。でもその反面、学校や地域の活動にも精力的に参加されて、社会貢献をされているお義母さんの姿に憧れもしていたようです。ところが」


「ところが、そのプライド高いお母さんが寝たきりになったということやね」

「はい。お義母さんがお元気な時には、わたしたちは勘当されていましたので、別々に暮らしていました。でも、寝たきりになってしまって、そんなことを言っている場合ではなくなったのでしょう。一人息子の武史さんが呼び戻されたのですが、わたしは連れて来るなと。でも武史さんがわたしも一緒でないと帰らないと条件を出されたので、お義母さんもしぶしぶ同居をお許しになったのです」


「勘当って、また、なんでやの?」

「わたしは再婚で武史さんは初婚なんです。歳も武史さんより5つも上で。家柄も資産も学歴も何にもありません。前の主人とは死別してからは身寄りもありません。武史さんと出逢ったのが、スナックでアルバイトしていたときで、武史さんはお客さんだったんです。それをわたしが正直に話したことが、お義母さんの逆鱗に触れまして。『そんな人はうちの大事な跡取り息子の嫁にふさわしくない。結婚は絶対に許さない』と大反対なさいました。それを武史さんが強引に押し切ったので、世間体を気にするお義母さんから勘当されてしまったんです」


「それはなんかお姑さんの都合のいい話やんね。気に入らないから勘当。寝たきりになったから戻ってこいなんてさあ。そんなん、ほっといたらええのに」
「ええ、でも、やはり武史さんにとっては実のお母様ですし、わたしとのことがなければ勘当になんかならなかっただろうし。わたしのせいで武史さんまで天涯孤独にしてはいけないと思っていたところでしたから、今回の同居はむしろチャンスだ。少しでもお互いの溝が埋められたらと思ったんです。でも結局それは甘かったんです」


「嫁いびりが始まったんと違うの」

「はい、でも嫌味を言われることぐらいは覚悟の上でした。問題は、あれほど活動的で毅然としていらしたお母様が自室に引きこもられたままで、一歩も外には出ないのです。部屋の窓もカーテンも閉め切られたきりで、空気も入れ替えさせてくれません。それに何日もお風呂に入らず、着替えもせず、ただただベッドで一日ぼうっと過ごしておられるだけなんです。動かないせいか食事も少ししか召し上がりませんし、何よりお休みになれないようで、昼夜の区別なく何度も何度もつまらぬことでわたしたちを呼ぶのです。わたしも武史さんも、いつ呼ばれるかと思うと気が張って一日中神経が休まらないんです。そのせいで、わたしたちまで眠れなくなってしまって。


武史さんも初めのころは、『病のせいだから回復してくれば元の気丈な母親に戻るだろう』と、お義母さんを元気づけるために考えられる限りのことをしてあげていたのですが、顔を見れば『もう死にたい』とか『殺してくれ』とかばかりおっしゃって。武史さんも、そんなお義母さんにほとほと疲れられたようで。だんだん家に帰らなくなってしまいました」


「どれぐらい帰ってきてはらへんの」

「もう三か月になりますか。わたしが電話しても出てくれなくて。たぶん、女の人がいるからなんでしょうけど。そうなりますとお義母さんの矛先がわたしだけに向くようになりました。『あなたに嫌気がさしたから、武史は帰って来ないのよ』とか、『さっさと別れてくれたら、もっといい嫁をもらえるのに』とか、もっとひどいことも言われます。そのくせ最近ではわたしが買い物をしにほんの一時間ほどの外出に出ることも嫌がられて、まるで軟禁状態なんです。今夜はたまたまミルクの買い置きがなかったので買ってくるように言われて。ああ、だからまたすぐに戻らなきゃ」


「そんな資産家でお金があるんだったら、ヘルパーさんとかお手伝いの人を雇えば洋子さんは解放されるんじゃないの」

「お義母さんがカーテンを開けないのは、今の自分を他人に見られたくないからだそうです。だからヘルパーさんなんてとても」

「なにそれ、洋子さんを単なるお手伝いさんとしか思ってないんとちゃうん。そんなん、なにも我慢することないやん。その鬼婆の言うとおりに離婚して、慰謝料がっぽりもらって家をでてやればいいのよ」


「それが、わたしがスナックでバイトしていましたのは、亡くなりました前の主人の借金があったからなんです。昼間はパートで働いていたんですけど、それだけでは足りなくて。 でもそのスナックで武史さんと出逢ったんです。武史さんは最初、上司の方に連れて来られたんですけど、次からはお一人でわたしに会いに来てくださるようになって。出逢って半年で求婚して下さったんです。わたし、とてもうれしかった。でもバツイチだし借金はあるしで、初めはお断りしていたんです。そしたら武史さんは心配いらないからと全額返済をしてくれて。わたし武史さんには恩義があるんです。何もかも放り出して逃げるようなことできません」


「でも、それじゃあ、恩人のお義母さんを殺すなんて、矛盾してるやないの」

「お義母さんがいる限り、武史さんは戻らない。でも、そうこうしている間に、むこうの

女に子供ができたら」

 そう言ったとたんに洋子は自分の中の迷いが消え、代わりに鬼が現れたのを感じた。


「お義母さんが、そう言ったんです。向こうの女がどんなかは知らないけれど、あなたよりはマシだろう。向こうに子供ができたら、その女を嫁に迎える。そうなったらお役御免だから出ていけって。どのみち五年も経つのにあなたには子供ができない。昔は三年子無きは去れと言われたものだ。歳も歳だからこの先も期待はできないだろうからって。子供が出来たら、もう武史さんの心は向こうに完全に移ってしまう。わたしはもう武史さんを取り返せなくなってしまうんです。早くしなきゃ、早くお義母さんを何とかしなきゃ。そればっかり考えて苦しいんです。だから」

 

涙ながらに語られる身の上話に、時々青炎が同情や非難の合いの手を入れるのに対し、輝夜は洋子の心の奥底に堆積していたモノをすべて吐ききるまで、ただ静かに聞いていてくれていた。そして聞き終わると座敷を出て行き、一本の大きなろうそくを手に戻ってきた。


「このろうそくを次の満月の夜まで、お姑さんの寝室で毎晩かかさず灯しなさい」

「次の満月まで? そんなに長い間ですか。それで本当に願いは叶うのでしょうか」

それには答えず、輝夜はもう話は済んだとばかりに作業場に戻ると絵付けをし始めた。先程とは打って変わった輝夜の人を寄せ付けない雰囲気に気圧され、それ以上尋ねることもできず半信半疑にそのろうそくを手に店を出た。


つづく

第一夜 呪月の巻

《十五夜 亥の刻・高架下》


満ちた月の光が初夏の夜気に媚薬を含ませ始めた。愛憎、物欲、殺意など人が日頃封じ込めている本能を解き放つその太古の力は、花金の繁華街を行き交う人々の理性をかすかに狂わせ、酔わせ始めていた。何がおかしいのか笑いさざめき、嬌声をあげながら通り過ぎていく若い女たちや、獲物を狙うような目つきで何かを物色しながら彷徨う男たち。そのある種のエネルギーが渦巻く雑踏の中を、人にぶつからないよう大荷物を持って歩くのにもだいぶ慣れてきていた。


「月光狂いか。今夜は繁盛しそうやな」 

そうした人の群れを横目に、青炎は雑踏とは反対方向の静かな高架下のトンネルへと入っていった。駅前や繁華街は客も多いが、その分、厄介ごとも多い。気に入らない卦が出たと酔客ともめたり、露店の取締りにあったり、上がりをせびられたりは、もうこりごりだった。その点、街外れにいれば、そうしたいやな目には合わないし、それでいて結構日銭は稼げる。昼間のパートでは足らない分の収入さえ上がれば、それでいい。トンネルならば雨の日も濡れないし、良いことずくめだ。そこで連日九時から十一時までの二時間をこの薄暗い場所に腰を据えるのが日課であった。


「よっこらしょっと」

トンネルを入ってすぐの照明と照明の間の薄暗い壁際に荷物を下ろした。あまり奥では人目につかないが、商売柄明るすぎても困る。ここが一番といういつもの場所に陣取ると持ってきた荷物をほどき始めた。折り畳みの脚長の小机に《ろうそく恋占い・青炎》の文字が浮かび上がる黒い布をかけ、その上に燭台を二つ置いた。あとは自分と客用の小さな椅子を据え、ろうそくに火を灯せば用意は万端だ。


「あっ、あんなところに占いがある。優子、和也さんとのこと見てもらえばぁ?」

少しほろ酔い加減の舌足らずな女の声がトンネル内に響き渡った。

(早速、一番客のお出ましやわ)

青炎は黒いベールをきちんとかぶり直し、居住まいを正して女たちを待った。


二人の女の内、優子と呼ばれたほうが前の椅子に腰掛けた。もう一人の女が興味津々にその背後から覗き込んでいる。

「あの、恋占いをお願いしたいんですけど」

 青炎は無言でうなずき水盤を取り出すと、水差しの清水をなみなみと張った。そこに数滴のラム酒と香油をたらし、新しいろうそくを立て火をつけた。女たちはどんなご神託が下るかと興味津々に見ている。


(さて、ここからが見せ場やで)

青炎はオレンジ色に燃え上がる炎の形をしばらくじっと見ていたかと思うと、おもむろにろうそくを傾け、水盤の清水の中に溶けたろうを落とし込んだ。ろうは、みるみるうちに冷やされ固まり、ご神託を告げる形へと変貌していった。


「ふむ、炎の色、蝋の形、すべてに相思相愛の卦がでておる。今のその恋、必ずや成就するであろう」

「わあ、いいなあ優子。相思相愛だってぇ」

「結婚は、いつごろになりますか」

「半年後に婚約、一年後にはめでたくご成婚やね。はい、鑑定料3千円。ここから先の占いは別料金になるけど、しはる?」

「いえ、もうこれだけで」

「そう、お友達のほうは、ええの?」

「わたしは今のところ好きな人がいないから、また今度」

キャラキャラと笑いながら立ち去る若い後ろ姿が見えなくなると、地下道はいっぺんに静寂に包まれた。



続いて来た客を二人ほど見たが、その後はパタリと客足が途絶えた。

「ああ、もう十一時やんか。そろそろ店じまいしようかな。今日は九千円。まずまずやね」

青炎がそうつぶやいた時、一人の女が急ぎ足にトンネルに入ってくるのが見えた。女は一直線に青炎の元に来ると、机の前に立ちはだかった。何も言わず、能面のような顔をして、ろうそくの炎を凝視している。なにか只事ではない雰囲気に緊張が走った。

(気持ちわるっ。なんやこの女)

不信に思って声をかけようとしたとき、女が声を出した。

「あの、・・・・・・は可能でしょうか」

「えっ、何?」


低くくぐもるような客の声に青炎は聞き違えたかと問い返した。女はしばらくためらっていたが、意を決したかのように青炎に詰め寄った。

「占いで人を呪い殺すことはできますでしょうか」


つづく



課題「余韻のある結末」2作目


ウィンドウチャイム

あべせつ



ドアベル代わりに吊るしたウィンドウチャイムの音が閉店後の静寂の中にきらめいた。音楽家が調律したというその銀の細い筒の触れあう音色に、瑠璃子はいつも天からキラキラと降り注ぐ金色の星くずをイメージした。瑠璃子に幸福を運んでくる魔法の星のかけらたち。


しかし、来訪者は待ち人ではなかった。

「まあ、長谷川さん、こんな時間にどうなさいましたの」

「ラピスラズリ開店一周年おめでとう」

そう言って渡されたのは一抱えもあるローズギャラリーの深紅の薔薇の花束だった。長谷川はいつも上質なものを選んでくれる。

「まあ、綺麗。ありがとうございます。でも、一周年記念は来週ですのよ」

「ええ、わかっています。でもその時にはもう日本にはいないかもしれませんので」

「あらまた欧州ですの。今度はいつお帰りになりますの」

「それは瑠璃子さん、貴女次第です」

「えっ」

「瑠璃子さん。急かすようで申し訳ないのですが、今夜は先日のプロポーズの返事をいただきにあがりました」

 

 沈黙が流れた。瑠璃子は何か言わなければと思うのだが言葉が見つからない。口火を切ったのは長谷川のほうだった。


「すぐにお断りにならないところを見ると、僕にもまだ望みはあるのですね。では週明けまで返事をお待ちしましょう。イエスでしたら招待状を寄越してください。僕は何を置いてもお祝いに駆けつけます。でももしノーでしたら、僕は潔く諦めてそのまま日本を発ちます」

 

 長谷川は困惑して立ち尽くす瑠璃子の左手を取るとその甲に乾いた口づけをした。

「これで最後ということになりませんように、僕は祈ります」

 そう言い残すと長谷川は店を出て行った。


瑠璃子はひとつ溜息をつくと、薔薇をバカラのクリスタルの花瓶に挿して飾った。

開店当初からの常連客であった長谷川は、事あるごとに魅力的な品々を瑠璃子への貢物として持参してくれていた。  


もちろん、それが下心なしに行われた行為でないことは瑠璃子にもわかっていた。長谷川の好意を断ることなく受け入れていたのは女の打算だった。潤沢な資産だけでなく、長谷川の深い教養や抜群のセンスは、その容貌の冴えなさを差し引いても有り余るほど魅力的であった。三十路も半ば過ぎた自分には、過ぎた相手だ。以前の瑠璃子であれば、そのプロポーズを一も二もなく受けたはずであった。

でも今は。



再び銀筒の音がして来訪者を知らせた。

「遅くなってすみません」

息せき切って飛び込んで来た青年の姿に、自分の顔がパッと輝くのを瑠璃子は感じていた。青年は持参した画材道具を取り出すと描き掛けのカンバスをイーゼルに据え筆を構えた。


「綺麗な薔薇ですね。これを背景に入れましょうか」

「い、いえ、これはいいの」

瑠璃子はあわてて首を振った。彼の絵の中に他の男の痕跡など残したくはなかった。

カンバスには夢見るように甘やかな瑠璃子の顔が描かれてあった。この貧しい画学生・達也にしか見せたことのない表情だった。

先週、閉店間際に来店した長谷川がこの絵と達也を見たのだ。長谷川はその時は何も言わずに帰って行ったが翌日、唐突にプロポーズをし、そして今日その返事を急いだ。

 

「この絵は自分で言うのも何ですが、本当に美しい。僕の最高傑作になりました。正直手放すのが惜しいくらいです」

「まあ、お上手ね。もっと若くて綺麗な女性をいくらでも描いているでしょう」

 瑠璃子は一回り年下の青年のお世辞に舞い上がるまいと、自嘲気味に答えた。


「この絵を仕上げたら、僕はもう貴女には必要なくなるのでしょうか」

「あら、どうして。お店にはいつでも遊びに来てくださればいいのよ」

「そうではなくて」

 そういって瑠璃子を見つめる青年の顔に、いつものあどけなさは無かった。一人の男の挑むような視線に真っ向から射抜かれて瑠璃子は体の芯がカッと熱くなるのを感じていた。


その後はお互いほとんど口を訊かぬまま、筆を走らす音だけが室内に響いていた。小一時間ほど滞在したあと、青年は帰って行った。

ドアが閉じられ星くずの余韻が残った。


来週のこの時間、わたしは誰とどうしているのだろう。


瑠璃子はかすかに残る銀筒の音色に想いを馳せた。               完