第20回課題『鍋』
割れ鍋 あべせつ
風体を一言でいえば貧乏神。その男は渡鍋といったが、この小さな会計事務所でその名が呼ばれているところを美月は見たことがなかった。
「おい、割れ鍋。金島さんとこの決算、もうできてるんやろな」
所長代理の竹内がいら立ちを隠せぬ声で問いかけた。上司とはいえ自分より年下の男に割れ鍋などと呼ばれても、渡鍋は特に気にする風でもなくヘラヘラと薄ら笑いを浮かべている。
「提出期限は明日なんやで。まだ仕上げてへんとは、いったいどういうことやねん」
渡鍋は竹内の剣幕にちょいと肩をすくめると、となりのコンピュータールームへスリッパをズッタラベ、ズッタラベと引きずりながら消えて行った。すり切れた靴下のかかとから妙に生白い肌が見えている。
「割れ鍋さん、いつもあんな風で困ったもんですよね」
美月と同じ新人の川原が眉をひそめて竹内にささやいた。
「川原くん、ほんま君が頼りやで。はよ一人前になってくれな。そしたら割れ鍋なんざ、さっさとクビにしてやるんやさかい」
美月はトイレに立つふりをして部屋を出ると隣室へ急いだ。扉を開けると、あろうことか渡鍋はパソコンでゲームをしている。
「わ、渡鍋さん、何してはるんですか。早よう仕上げんかったら大変なことに」
「大丈夫、大丈夫」
「大丈夫なことないですよ。こんなとこ竹内さんに見つかったら速攻クビになりますよ」
「ええねん。ほんま言うたら俺、あんまり働きたくないねん」
誰とも口をきかない渡鍋も、なぜか美月とだけはふつうに話した。
「何アホなこと言うてはるんですか。私も手伝いますから早く仕上げてしまいましょ」
となりの席のパソコンに打ち込み始めた美月をまるで他人事のように一瞥すると、渡鍋は再びゲームの続きをし始めた。
翌日、渡鍋は出社して来なかった。無断欠勤七日目の朝、割れ鍋は所詮割れ鍋に過ぎんかったなと竹内が忌々しげに吐き捨てた。
それから半年が過ぎた。仕事を終えて帰宅した美月はアパートの玄関前でへたり込んでいる割れ鍋を見つけた。
「えっ、渡鍋さん?」
「ああ、美月ちゃん」
白髪混じりの無精ひげが伸び、割れ鍋の貧相さに一段と拍車がかかっている。
「まあ、どうぞ入ってください」
鍵を開け迎え入れると見知らぬ侵入者に驚いた小動物が数匹、部屋の奥へと逃げ込んでいった。
「渡鍋さん、猫は大丈夫ですか? 五匹ほど居てるんですけど」
「へえ、五匹も」
「捨て猫見たらつい可哀想になってしもて。それはともかく、いったいどないしはったんですか」
聞けば渡鍋はあれから職も探さず実家でぷらぷらしていたらしい。年金暮らしの母親から連日やいのやいのと攻め立てられながらもどこ吹く風で居座っていたのであるが、実姉が離婚し子連れで戻って来るととうとう居場所もなくなって家を追い出されてしまったという。
「渡鍋さん、これからどうしはるんですか」
「さあてなあ」
「とりあえず今夜は泊まってもらってもいいですけど、明日には」
「おかわり」
美月にみなまで言わせず渡鍋はにっと笑って飯茶碗を突き出した。
翌日、美月が帰宅すると割れ鍋はまだそこにいた。次の日もその次の日も。そしてそのまま居ついてしまった。
(まあいっか、六匹目の猫だと思えば)
そう気楽に考えていたものの、ひょんな事から割れ鍋との同棲を竹内に知られ、顔さえ見ればこんこんと説教される羽目になってしまった。美月は事務所を辞めた。
ある日のこと。美月が夜の仕事を終えて帰宅すると割れ鍋の姿が消えていた。
「やっぱり、ね」
昨日妊娠を告げると、渡鍋は良いとも悪いとも言わずただヘラヘラと笑っていた。その薄ら笑いを見たとき美月は〈ああ、こら、あかんな〉と思った。
「そやけど、ほんまにおらんようになるとはビックリやわ。わたしら結構割れ鍋に綴じ蓋でいけてると思ってたけど、なんのことはない割れ鍋二つやったんやね」
美月の言葉に鏡の中の濃い化粧の女が、あはははと声を立てて笑った。 完