課題「標識」
駅名標識 あべせつ
電車がホームに乗り入れると耐えかねたように大勢の人間を吐き出し始めた。いつものように最後尾のドアを凝視したが、お目当ての人は降りて来ない。
――また遅刻か。
このところ千夏が約束の時間に現れたことがない。前回は小一時間も待たされた。
「遅れるなら遅れるで連絡ぐらいしてこいよ」
「うるさいわね。来たんだからいいでしょ」
その日は一日ギクシャクして全然楽しくなかった。
――またあんな風なデートになるのはごめんだ。もうしばらくおとなしく待ってみるか。
俺は手にした携帯電話をジャケットのポケットに突っ込むと空いたベンチに腰を掛けた。
――以前の千夏は可愛かったよな。
一目で新調したとわかるワンピースを着て不安げにひとりホームにたたずむ健気な姿、お待たせと近づく俺を見たときのぱっと上気した笑顔。そんなことを思い出しながら、ぼんやりと目の前の壁面に光る駅名標識を見ていた。
――んん?なんだろう。
突然、理由のわからない違和感が込み上げてきた。
――何か変だぞ。
穴の開くほど、その標識を見つめてみる。
――ああ、そうか。あははは・・・・・・。
合点がいくと、とたんに笑いが込み上げてきた。
「気持ち悪い。なに笑ってんのよ」
背中に不機嫌な声が突き刺さった。
「あ、いや」
あわてて振り向くと声以上に仏頂面をした千夏が仁王立ちしている。
「あ、あれが」
俺は駅名標識を指差した。
「あれが何よ」
「ほら北千住の文字。千の字が干すになってるだろ。あれじゃキタセンジュじゃなくて、キタカンジュだなと思って」
千夏は苛立たしげに長い髪を片手で後ろに振り払った。
「そういうとこが、いやなのよね」
「えっ、なに?」
「あなたのそういうとこがイヤなのよ。重箱のすみをつつくって言うの? だいたいさあ、千だろうが干だろうが何か問題ある? そんな細かいこと誰も気にしてないわよ。いつもそう。この前だってさあ・・・・・・」
急に千夏の声量がはね上がると、今度は息も継がずにまくしたて始めた。降り注ぐ矢に耐えかねて思わずうなだれた俺の目に、洗い晒しのジーンズのすそからニョッキリ生えたサンダル履きの千夏の素足が映った。ペディキュアが剥げて所々に血しぶき色の残骸を残している。
「俺たち、もうダメなのかもしれないね」
ふいに、そんな言葉が口をついてでた。
話の腰を折られたせいか、千夏はきっと俺をにらみ唇を噛んだ。
「さよなら」
そして次の瞬間それだけを吐き捨てると、きびすを返して人ごみの中に消えていった。
素知らぬ顔をしながらも全身を耳にして聞いていたらしいホームの乗客たちが、ちらちらとこちらを見ている。その視線にいたたまれず、俺は先頭車両側へとホームを移動していった。
「あら、吉岡さん?」
呼び止める声に目をやるとそこに総務課の加波順子がいた。俺は軽く会釈して通り過ぎようとしたが、順子はいそいそと近寄ってくるなり俺の行く手をさりげなく阻んだ。課がちがうとはいえ会社の同僚を邪険にするわけにもいかず仕方なく俺は立ち止った。
「吉岡さん、こちらにお住まいですの?」
「あ、いえ知人が北千住にいるものですから」
「そうですの。じゃあ今からそちらに?」
「あ、いえ。今日はもう」
俺はどう答えるべきかと口ごもった。
「あのもし、おひまでしたらこれから一緒に映画にいきません? チケットが一枚余っちゃって」
いや今日はそんな気分ではと断りかけたとき電車がホームに入ってきた。とりあえずと一緒に乗り込んだ二人のちょうど目の前の車窓に、あの駅名標識が見えた。
「ねえねえ吉岡さん、これ見てくださいよ。これじゃあ、キタカンジュですよね」
「えっ?」
面白そうに俺を見上げる順子の顏が、いつになく可愛く見えた。
「映画、お供しますよ。今日は特に予定もないですし」
「えっ、ほんとですか? うれしい」
電車は何事もなかったかのように快調に走り始めた。 完