花の色は
あべせつ
--花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに 小野小町
花残り月とは、よくぞ名付けたものでございます。その日、庭の桜はまるですべてを封じ込めるかのように、四月の空を覆い隠して咲き誇っておりました。例年ですと、とうに葉桜になっていようという頃合いですのに、稀有なことに花冷えが長く続き、桜雲を仰ぎ見る中での母の弔い上げとなりましたのでございます。
そういえば三十二年前の葬儀の時も、このような遅桜でございました。時ならぬ狂い咲きも、母の仕業かと思いますと何やら可笑しく、読経の最中というのに不謹慎にもつい忍笑をしてしまうのでした。
夕刻、義理筋の参列者たちが早々に引き上げますと、古い屋敷の中は伽藍堂のようになりました。ひとり残された私は片づけを終えると、喪服のまま庭に降り立ち、老桜を仰ぎ見ました。
月明かりの下、こぼれ散る花びらを見ておりますと、夢見草と異名した古人の気持ちがよくわかります。亡き母も、桜に夢見たひとりでございました。
幼い頃に戦禍でふた親を失いました母は、年老いた祖母に他の弟妹たちと共に育てられました。食うや食わずの戦後の混乱期をなんとか生き抜き、街に活気が戻り始めましたのが二十二歳のとき。母は是非にと請われ、神戸は元町の呉服屋で売り子として勤め始めました。
後帯の頃より〈今小町〉と世間様から持て囃されていた母は、たちまち界隈きっての看板娘となり、一年も経たぬ内に多くの縁談が舞い込むようになったのでございます。
呉服屋の旦那さんのお引合せで、大阪の料亭の若旦那との縁談もほぼまとまり、「これでようやく赤貧の暮らしから、祖母や弟妹達を楽にしてやれる」そう思った矢先、母は結核に罹患したのでございます。当時、死病と忌み嫌われておりましたその病に、婚約は破談、勤め先からもお暇を言い渡され、その後は数年にわたる療養を余儀なくされたのでございました。
僻地の療養所で臥せる、失意の母を慰めましたのは病室の窓に覆い被さるように枝を伸ばした桜の古木でありました。厳しい寒さに凍てつくからこそ、春の桜花爛漫が迎えられる。その凛々しい姿に、母は我が身を重ね合わせ、「いつか、きっと」と、じっとこらえていたそうでございます。
桜の盛りを三度越え、ようやく容体も落ち着いてきました頃、母は療養所を出ますとともに、自分を陰日向なく支えてくれていた若き青年医師、つまりは私の父と結婚をいたしました。
母の達ての希望で、祝言は本家の庭の満開の桜の下で行われました。病を乗り越えた母の美しさには一層磨きがかかりましたとみえ、来賓からは「まるで桜の精のよう」との声が上がりましたそうで、生前母はその話を何度も繰り返して私に聞かせるのでございました。
その後は安楽に暮らしておりました母を、再び悩ませましたのは、忍び寄る老いでありました。母は心底、老いを憎んでおりました。
街で背の曲がった老婆などを見かけますと、さもそれが自分にうつるかのように眉を顰め、ハンケチで口をおおい足早に通り過ぎるのでございます。
「ああは、なりたくない。ああなるぐらいなら死んだ方がましだ」
日頃より、口癖のように申しておりましたが、まさかそれが本気であろうとは知る由もございませんでした。
三十二年前のあの日、夜半に母の姿のないことに気付いた父が、屋敷内を探し求めておりますと、庭の方角から妙に明るい光が差し込んできたのだそうにございます。いぶかしく思った父が、広縁の障子を開けて庭を観ますと、花明かりの下で桜の果実となりし母の姿を見つけたのでございました。
知らせを受けた私は、まさかという思いとともに、どこか心の奥底で「ああ、やっぱり」とも思ったのでございます。
その昨秋、母は還暦を迎えておりました。
それでも冬を耐え、桜花爛漫の日まで待ちましたのが、いかにも母らしいことでございます。
散り急ぐのは潔いのか、愚かであるのか。
母に似ず、美貌に縁のなかった私には、その執念はむしろ滑稽ですらありますが、これもまた人の業のなせる技なのでございましょう。
私も、いよいよ母の歳に近くなって参りました。名残の花を惜しむらく、余生をこの家の桜守をしながら天寿を全うする日まで過ごすつもりでございます。 完
