課題 「隣の人」
『陽のあたる場所』
あべせつ
ウィークデーの昼下がり、ミニシアター『名画座』の赤い天鵞絨貼りの客席は、思いのほか大勢の観客によって温められていた。今どきの人たちは、わざわざ映画館まで往年の名画など見に来ないだろうから、貸し切り気分を味わえる。そうした私の思惑は、ものの見事に外れることとなった。
私は階段を上がると、扉に近い最後尾の席を選んで腰をかけた。ここなら誰にも邪魔をされることなく、集中して観ることができる。純粋な映画愛好家ならば、スクリーンを真正面に捉える場所に座りたがるが、今日の私は憧れの大スタアを大画面で観られればそれでいい。案の定、予告編が終わっても、私のいる列に座る人はいなかった。
本編の上映を知らせるブザーが鳴り響き、照明が本格的に落とされると、銀幕に懐かしいモノクロームの風景が映し出された。このオープニング・タイトルからおよそ五分後、主人公の貧しい青年と、美しい令嬢との運命の出逢いの場面となる。かつて何度も何度も繰り返し観た作品ではあるが、私はこの令嬢の登場するシーンがことのほか好きであった。白亜の大邸宅の大きな扉を押し開けて、盛装をした黒髪の美女が、溢れ出る若さを持て余して弾むように姿を現す。艶やかな光沢を放つ絹のドレスやなめらかなミンクのショール、小さなクラッチバックに、華奢なハイヒール、まろやかな大粒の真珠など、そのすべてにおいて白く輝く装飾品の数々が、この可憐なヒロインを見事なまでの美の女神に造り上げていた。今日私がここに来たのも、この場面を観たいがためといっても良いかもしれない。
私は、心を躍らせて初恋の人を待った。
(さあ、いよいよだ)
銀幕の中のドアが開くまさにその瞬間、私の真横の二重扉が開き、そこから溢れ出る光の波に押し流されるかのように、一人の女が私の隣席へと滑り込んできた。突然の乱入者に気を取られた私は、思わずスクリーンから目を離し、大事なシーンを見逃してしまった。
(上映中に入ってくるなんて、非常識な)
その不逞の輩を睨み付けようとしたとき、甘い薔薇の香りが辺り一面に立ち込めた。
(この香りは……。ジャンパドゥのJOYか)
今まさに大写しになっている菫色の瞳の大女優が、好んでつけていたというその香水を私はよく知っていた。この華やかで女性らしい香りは、たちまちの内に怒りを沈め、さらには隣席への好奇心を煽り始めた。
私は不躾にならぬよう首は前に向けたまま、目の端で女の様子を窺った。女は走って来たのだろうか。息はまだ整わず、落ち着かぬ様子である。館内の暖房は彼女には効きすぎているのか、肩にかけたストールを外すと、白いバンブーバッグの中からハンカチーフを取り出し、それで扇のように胸元を仰ぎ始めた。その白いレースの縁取りのある小布が振られるたびに黒い髪が揺れて、薔薇の香りが一層強く振りまかれた。
しばらくすると、ようやく女は落ち着いたのか、背もたれに深く掛け直すと、きちんと揃えていた膝を崩して足を組んだ。純白のワンピースの裾から形のよい袋はぎが現れたかと思うと、白いハイヒールの爪先が私のズボンの折り目に触れた。
「あら、ごめんなさい」
小さく女が囁いた。
そのとたん、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。耳に触れたその響きは、まるでスクリーンの中から囁いたのかと思うほど、ヒロインの声音に似ていたのだ。私はもう映画の進行などは、どうでもよくなっていた。菫色の瞳の姫君は所詮、銀幕の中の人である。しかし今現在、ここにいるこの隣人は、手を伸ばせは届く場所にいるのである。恐らくは、この女性も私と同じ大女優のファンなのであろう。だからこそ、ヒロインの衣装に合わせてドレスアップしてきたのにちがいない。そう考える私の頭の中で、隣席の女性のイメージは、ヒロインのそれと重なっていき、まだ目にしていない乳白色のパールのネックレスやイヤリングまでが鮮明に見えたような気がしていた。
(映画が終わったらお茶にでも誘おうか)
今はもう、エンドロールが待ち遠しいだけの気持ちになっていた。
上映が終わり、館内に明かりが点いた。
「色々とご迷惑をおかけしまして、すみませんでした」
その低くしゃがれた女の声は、先ほどの囁き声とは、まるでちがっていた。さらに彼女は真珠のアクセサリーなどは着けてはおらず、代わりに幾筋もの白いものが、髪の中に混じっているのが見えた。
「あ、いえ、どうも」
私は口の中でもごもごと答えながら、もう一度、初めから映画を見直そうかとぼんやり考えていた。 完