こんにちは。

 

エリーゼ音楽祭予選の講評が届きました。


演奏曲は、

ベートーヴェンの悲愴第楽章。

 

このような項目へのチェックと、

(年によって、

項目が少しづつ変わっていたことに、

今、気付きました。)

文章による講評を

3名の審査員からいただきました。

 

常にわたくしは、

改善に向けての

厳しめ講評をいただきたいと

期待しているのですが、


お褒めが大部分の

優しい講評ばかりでした。

 

今回は、

①わたくしが最も重要視していることと、

②演奏で最も意図したことが、

 

講評の内容に見事に反映されていたので、

大変手ごたえを感じました。

 

①について。

 

これらの項目で、


わたくしが絶対に譲れない、

一番大切だと最重要視しているのが、

何と言っても

”構成力”。

 

これなくして、

自分が演奏している意味はない

と思っています。

 

曲を理解し、

自分ならどのように表現するのか、


理解と意思が宿るところ。

 

ピアノ演奏のみならず、

 

セミナーや学会での発表も、

大切なのは講師の外見でも声質でもなく、

話の流暢さでもなく、

講演内容の”構成”です。

 

構成が組み立てられたら、

セミナーの講演準備の8~9割方はできたと、

わたくしは考えています。

 

今回、

審査員3名全員から、

”構成力”に〇をいただけて、

よし!

 

構成力にこれほどまでに、

こだわって、

力を入れるのは、

過去の悔しい思いのため。

 

3年前、

まだ練習開始したての

悲愴第楽章(今回演奏した2ではなく1)を

帰省先の予選で出した時、

 

3名中2名から、

”構成力”に❌をつけられ、

さらには、

 

”もっと作者の事情を追求しましょう”

”ハ短調という調性の意味を考えましょう”

”曲の背景を考え、音に苦悩を表現してください”

”何を言いたいのか方向性を意識してください”

 

それはそれは、

屈辱的なことをたくさん書かれました。

 

要約すると、


”あんたは、

曲と作曲者と時代背景の

勉強と理解が足りない上に、

意思表示もはっきりしない、

ただの〇ホだね”

 

これでも、

当時は予選を通過できたのですが、

(今なら無理でしょう)

 

この3年前の屈辱的講評によって、

わたくしは目が覚めました。

 

単に”かっこいい曲だから”と

雰囲気で演奏するものでないことを。


本当に甘ちゃんでした。

中身のないスカスカの演奏でした。

 

とにかく悔しくてたまらなくて、

 

アマゾンや書店や

神保町の古本屋で、

ベートーヴェンソナタの本を入手して

読みあさりました。

 

国会図書館に行って、

コピーさせていただいた本もあります。

 

もちろん、

先生や

特別レッスンをうけたピアニスト先生と、

曲について沢山お話させていただきました。

 

屈辱的な予選を経験したことから、

この年を境に、

曲へのアプローチ方法が変わりましたが、

 

”構成力”とは、

何も特別なことではないのですよね。


当たりすぎるほど大切な、

演奏の中身そのものなのですよね。

 

ピアノ演奏も、

仕事(講演だけでなく臨床の場でも)と

同じなのだと、

ようやく初めて気付きました。


ピアノを再開して3年目でした。

 

その後迎えた全国大会で、

”構成力”に花丸をいただいた時に、

 

ちょっとした達成感とともに、

この曲は、

あともう1年は勉強しようと、

決めました。


ところが、

その翌年は、

 

当時は最終だった取手予選にて、

暗譜落ち+弾き直し3回+

復帰不能のため途中とばしで、


悲愴第楽章は

予選落ちという

オチに終わったのですが。

 

悲愴第楽章は、

結局3年連続、

エリーゼに出しました。


昨年で第楽章は、

エリーゼを一旦卒業しましたが、

しつこいわたくしからは

まだ卒業していません。

現役で細々ながら練習中です。


そして今年、

楽章がエリーゼに入学しました。

 

長くなりました。

講評の

もう一つのことは後日書きます。

 

素敵な皆様、

良き日となりますよう。