公務員を辞める(つくば市政展望-372) | 安部南牛 | 朝鮮文化資料室

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40歳をそこそこに公務員を辞める。それは大変な決意だ。地盤があれば別だが、実家は親が公務員として谷田部町に就職して来た。鉄道の通っていない町は、徳川300年の城下町である。町政は門を構えている旦那衆が仕切っている。渡辺派領袖の渡辺安重県議は右翼農民運動家であった。門は構えていない自作農の橘孝三郎門下生でもあった。木村派領袖の木村操新町長は自作農出身であったが、渡辺安重県議の右翼風に馴染めない農民層を集めていた。木村操新町長の弱みは門を持っていない、門構えがないという点であったろうか。

野村文雄氏はどの派にも所属していなかった。ただ谷田部町役場の職員組合、いわゆる自治労で影響力を持っていた。メーデーなどを通して自治労は学研労協と提携していく。更に85年の科学万博では町の文化行政に関わっていた野村文雄氏は日本科学者会議と連携を深めて行く。そして沼尻民平町長の辞職に伴う町長選挙で候補者として浮上する。後に高野水道工事が役場職員を辞めさせて町長選挙へ担ぎ出した「責任は俺にある」と述懐する。

高野水道工事は旧渡辺派から沼尻民平町長派に鞍替えして、85年の町長選挙を三井不動産の江戸英雄会長の縁戚の高野候補を担いだ渡辺派の石浜代貸を撃破して自信を持っていた。そこに石浜代貸の訴えで沼尻民平町長の逮捕となり、やり直しの町長選挙では旧沼尻町長派を纏める意味で町長候補を探していた。本来なら島名の長屋門の繋がりで横田美農夫候補を担ぐべきだったのだが、石浜代貸が横田美農夫候補を推していると誤判断したのであった。石浜代貸に対する感情が野村文雄候補を担ぎ出すこととなる。

高野水道工事は、石浜代貸の動きの後ろを読み損じたのであった。竹内藤男県知事、その後ろに後藤田官房長官そして江戸英雄会長という旧制水戸高校トリオの動きを見損なっていたのだった。