高野水道工事の野望(つくば市政展望-269) | 安部南牛 | 朝鮮文化資料室

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谷田部町内でも島名の内々の感情の流れには疎かった。表向きは、「この門無しが」とやっつける文章を作ったのは真瀬の農委とされている。むろん、真瀬の農委は自身で俺が書いたと言っていた。だが、ぐさりと撃ち込めたのは、真瀬の農委と同じ渡辺派の高野がやった、と木村操候補が感じたからである。あの野郎、面野井の名家というか、長屋門の家から嫁を貰ったと言って俺を一段低く見ている。それで木村操候補二度目の町長選出馬では用心をする。

渡辺安重県議急死後、渡辺派は分裂する。石浜和夫代貸と高野水道工事のグループは別れる。渡辺安重県議が亡くなると、高野水道工事は島名の水のみ百所の小せがれ奴、と石浜代貸を低く見る。そこに木村操候補は手を入れる。木村操候補の当選には石浜代貸が支援に回ったことが大きい。横田美農夫候補を落とすことに主眼を置いた高野水道工事の作戦は敗退する。

当選した木村操新町長は役場内の野村文雄候補支持グループへ圧力を掛ける。次に石浜代貸と組んで高野水道工事一派への工事発注を停止する。町の工事から高野水道工事は生活を脅かされる事態になる。その怒り、こんちくしょうと言う意識、今に見て入り島名の門無し野郎とむき出しのアンチ木村操新町長となる。

そこから生み出された戦略が桜村との合併で木村操新町長を町長職から外す作戦であった。87年8月1日開催の「筑波研究学園都市六町村の合併問題を考えるシンポジウム」の背後に高野水道工事のアンチ木村操新町長の目が光っていた。