千秋楽の芳雄ルドルフについて。
この日の芳雄ルドルフは「私という人間」がこれまで聴いたことのないような密度の濃さだった。マリーからの「あなたが望むような皇太子になればいい」という言葉。それに突き動かされて、よろめきながら歌いだす。最初は声も切れ切れで、いまにもへたりこみそうな様子。それがだんだんと力が増していき、最後には「新しい世界 この手で築こう それこそ私が 生きた証 示そう私の 目指す道を」と強く、はっきりと宣言する。続く「明日への階段」も素晴らしく。この短い間の劇的な感情の流れは、前楽でも見られなかったもの。芳雄君は楽の挨拶で「千秋楽の今日になってはじめて感じることもあった」と言っていたけれど、まさにここの部分のことだったんじゃないかしら。なんというか、これを観られただけでも、ファン冥利に尽きるというもの。
あとね、芳雄ルドルフで聴いていていつも心痛むのが、ローマ法王へ離婚の許可を得る手紙を送ったことに対してフランツと言い争うシーン。ここのフランツの「どうしてお前は私が育てられたように生きられないのだ」という言葉にも胸が痛むし、それに対する「仰せのとおりお行儀よくすればよいのですか」という言葉にも、胸が痛む。すれ違う二人が悲しい。さらに続くルドルフの歌の「できるならば このまま消えたい 人を傷つけて生きるよりも」というここでもっとも胸が痛むのです。千秋楽のこの日も、ここの歌が悲鳴みたいになっていて、胸がえぐられる思いだった。ルドルフのこと、正しい、とは思わないのです。誰も傷つけたくない、というのは、ルドルフの甘さ。だけど、その悲しみ、絶望が深くて、胸が痛んだ。ああ、今思い出してみれば、もうここからずっと芳雄ルドルフの芝居が深かったんだね。だからこそ、娼館のシーンを経て、「私という人間」「明日への階段」が劇的で素晴らしかったのだな。
ただ、これだけ「私という人間」「明日への階段」が素晴らしいと、この希望はちょっとやそっとの挫折では消えない気がして、そうなってくると後半へのつなぎが弱くなっちゃうかもー。ここって、やっぱり脚本の甘さですよね。ルドルフの希望が費えるところを、もっともっと説得力をもって語って欲しかったな、と。やっぱりそれを思います。千秋楽だから、あんまり細かいことは考えずに芝居を追うようにはしてたけどさ。
もうひとつ印象深かったこと。停車場でマリーが戻ってきたシーン。「こうして毎日少しずつ死ぬくらいなら、いっそ一思いに死んだほうがいいんだわ」というマリーの言葉に対するルドルフの「マリー!」という呼びかけ。千秋楽の日は、まるでルドルフが喜んでいるように聞こえた。それまではここでの「マリー」という呼びかけは、驚きの感情がこめられているように思えて、それはマリーの偶然のつぶやきからはじめて心中という道に気づいたことによる驚きだと思っていた。だけど、それが千秋楽は喜びに聞こえて。つまり、「こうして…」っていう台詞ですでにマリーが死を決意し、一緒に死のうと言っているように聞こえ、それに対しての同意と喜びの声に聞こえたのです。そんなの初めてだったので、最後の日にして、物語がまた違って見え、なんというか、奥深いなぁとしみじみ思ったのです。
うん、この舞台、大絶賛ではないけれど、何度も通うことに飽きなかったのは、役者さんたちの試行錯誤で物語が深まっていく過程をずっと見守ることができたからかもしれないです(本当は、脚本の足りない部分を役者が苦しみながら埋めるのってどうなのよ、とも思うけれど)。舞台は生ものであり、日々進化していくものであることを、目の当たりにした作品でした。カーテンコールでの芳雄くんの表情、晴れ晴れとしたいい笑顔だった。それを観ることができ、またこれもファンの喜びです。再演は、うーん、脚本をもうちょっと直してくれたら、また観たいな。悩む芳雄好きには楽しい演目だ。あと、ターフェさまも素敵だしね。