オペラの思い出を簡単に書く。
前回「魔笛」を前日で天井桟敷席が取れた話をしたが、日本人、オーストリア人にも奇跡的な
事のようだ。何しろ一緒にいた技術者も喜んでいた。
この理由は後で分かったが、ウィーン電力の会長はグルーバーさんで、この人はハプスブルグ家
の子孫。第二回の会議には、私はこのプロジェクトから外れて現場に転勤したが、上司は2階のロイヤルボックスで「nuts cracker :くるみ割り人形」を観賞した。
オーストリア電力は国の存亡をこのプロジェクトに賭けていたのか、破格な待遇を受けた。
魔笛の話に戻すが、7時ころの開演だと記憶する。夕食は取らないでとのことだったので、
お腹がすく。「幕間」がある。かなり長い。その間に軽食を食べる。歌舞伎には幕の内弁当が
ある。大相撲も升席で食事する。
オペラが終わったのは午前1時ころ。この後、伝統ある郊外のレストランで食事会と車に便乗した。平日にも係わらず、レストランは開業。これは「魔笛」の上演に合わせた特別のことで、
ウィーンはお祭り騒ぎだった。午前4時ころにホテルに帰ったと思うが、次の日は休みでなく
終日会議だった。欧州人はお酒を飲み、食事をして夜遅くても、次の日は仕事を厳格に進める。
昼は昼でウィーンの中心街の事務所近くのレストランに接待された。
このプロジェクトに彼らの生死が我々にある事がじわじわと感じた。業務はstage Ⅰは窒素
酸化物の生成の原理や、発電所への導入の基本から始まった。契約からこのフェースⅠは短縮
された。1年の予定を契約から3か月で書き上げた。
日本語の翻訳は二重手間なので英語で書き上げた。あたかも一人やったような表現だが、実は有能な部下がいた。東京工業大学(現東京科学大学)を卒業した鉄道オタクだが、窒素酸化物の
除去、低減技術を理解していた。かれに英語の文章や図表の作成を依頼したが良くやったくれた。かなり厳しい作業を一緒にした。午前様が毎日続き、帰りはタクシー。タクシーは高速道路
を使えば、1時間。家では母が食事を用意してくれていた。次の日は超満員の通勤帯は避けて
10時ころ出社。一般の会社では許されない、国の会社だから出来きたのか。役職でもない
技術者に誰もが問題視しない。今思うととても不思議な時代を過ごしたと思う。
パソコンがない時代、校閲も大変で、自分がオーストリアの電力会社の技術者に思いを寄せて、駆け引きなく取り組んだ。
今思うと「魔笛」の接待は必至の我々へのおもてなしで、期待をしたアクションと理解している。それに応える使命感があったと思う。
日本で開発した技術がウィーンの森、ドイツの黒い森の枯渇から救う。北欧の湖沼の酸性化を防止する先駆けのプロジェクトで、欧州全体がこのプロジェクトに注視していた。
次回はポストプロジェクトについて
de 非宇宙人