東北岩手県の北部に野田村がある。小さな漁港がある。
この村は東日本大震災時、役所まで津波に襲われた。1階部分までの浸水が
幸い。役所機能が残った。
三陸の主要道路は険しいリアス式海岸で平地が少ない。国道45号線は
仙台から十和田まで。復興道路と呼ばれている。この道路の被害は部分的
であるので、復興に大きく貢献した。その道路を使って、震災から2か月目
5月の連休に震災の実態を調査するために、八戸を起点に仙台まで朝一で
出かけ、夜遅く八戸に戻った。ガスリンは予備を用意して、支援物質は
生卵を持参して、最初に野田村を訪れた。ここは野田の塩が有名で、松林
は名所で知られたところ。その松林は面影もない。自然は公平である。どこも同じ被害。
野田村も市街地は全滅、漁港も全滅。途方に暮れた状況であったが、生卵を
支援品と提供した。復興担当の「明るい」人が対応。生卵を沢山貰っても
どうしようとの顔をした。朝どれの卵は日持ちもするし、滋養によい。
個人ができること地の利を利用すること。八戸の養鶏場は辛うじて被災しなかった。
これが縁となり野田村の応援隊となった。
その時の愚痴は応援のエールは嬉しいが、人手がない。お金と人を連れてきてと。
何故か、支援金、義援金、支援物質の受け入れ、配分、実態調査など事務処理が
山ほどある。緊急の案件でも予算がない。ほとんど家に帰れず疲労困憊と本音を
語ってくれた。国道沿いの駐車場に折れた小さな桜が咲いていた。
私は震災桜として震災の記憶を薄くしたくなかったので、その桜をモチーフに
88センチの長方形の飾り皿を益子焼の長谷川陶芸家に依頼した。
大きな皿だったので、焼きあがったときに亀裂が生じる懸念があったので、2枚
制作した。この皿を見るたびに自然災害の恐ろしさを思い出す。
陶芸に震災を忘れないことを託した作品である。個人が支援することは大事であるが
個人としても災害への緊張を忘れない記憶の「印」を持つことを進めたい。
久慈市は野田村の北に位置している。朝ドラで有名となったが、野田村は
知られていない街。三十数名の死者をだした小さな村。あの明るい人
は今でも役所仕事をしていると思う。村長のおだゆうじ氏と共に。
東日本大震災の被災地は知られていない小さな漁港、漁村がある。
三陸鉄道の復興に当時の社長望月さんがプロジェクトXに出ていた。
この映像を見た時、安心した。市町村三セクとして利害関係が複雑な環境下で
復旧・復興を成し遂げた。批判的なことは彼の言葉にはなっかたが・・・・
結果が全て、しかし13年が過ぎた。プロジェクトXの裏には復興に寝ずに
頑張った役所職員が多くいることを忘れないで貰いたい。彼らこそが
地上の星だと思う。「明るひと」元気で野田村の村おこしを今でも記念している。
能登大震災にも被災された仲間がいる。支援は物を送らない。定期的に電話を継続
してエールを送っている。継続的な支援が必要。
災害は忘れた頃にやって来る。災難はいつも間にか忘れ去る。
de 非自然人