自分の過ちがみえているか・ブッダの教え  | 私の居場所と今日一日。

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私の人生は死ぬまでのひまつぶし、とかってのブログに書きました。その後に私が見つけた日常の記録です。感情障害や無呼吸症候群、脳脊髄液減少症、アルコール依存症他の病を患っていますが、ブログで健康とヘルスケアを整えたいですね。


私の人生ひまつぶしです。

毎日ブログで仲間のみんなと日課の読み合わせています。

 

 

 

ひなぎくの花と緑の草

 

 

自分の過ちがみえているか


 他人の過ちはみえやすいものです。

しかし、ほんとうにみえているわけではありません。自分の勝手な思いこみでみていることが、よくあります。

自分が同じ過ちやもっとひどい過ちを犯したときには、「大したことはない」とごまかしたり、あらゆる工夫をして正当化しようとします。

自分に対するその態度を、どうして他人に対してもとうとしないのでしょうか。


この問いかけは、12ステップの核心である**「棚卸し(インベントリー)」と、心理学でいう「投影」**の本質を見事に突いています。

鍵山秀三郎氏の謙虚な哲学と、プログラムの霊的な知恵を交えて読み解きます。

1. ポイントと解説:視点のダブルスタンダード

- ポイント: 


他人には厳格な「正義」の定規をあて、自分には寛大な「言い訳」の定規をあてる、という人間の根源的な弱さを指摘しています。


- 解説:


他人の過ちは外側から「結果」だけが見えますが、自分の過ちは内側の「事情(意図)」が見えてしまいます。そのため、自分には「仕方なかった」という免罪符を与えがちです。


しかし、このテキストは、その**「二重基準」こそが人間関係の不和と心の平安を乱す原因である**と説いています。

2. 考察と内省:歪んだレンズ

- 考察: 


「自分の勝手な思いこみでみている」という部分は重要です。私たちは、自分の中にある「認めたくない欠点」を他人に投影し、それを攻撃することで自分を守ろうとします(これを心理学で投影と呼びます)。他人の欠点が鼻につく時、それは自分の内面を映す鏡かもしれません。


- 内省: 


私が今日、誰かを批判したとき、同じような種火が自分の中にも隠れていなかったでしょうか?


自分を正当化するために、誰かを「悪役」に仕立て上げてはいないでしょうか?

3. 問題と解決:正当化の罠

- 問題: 


自分の過ちを「大したことはない」とごまかし、正当化(イレーショナル・ビリーフ)することで、成長の機会を逃し、魂が孤立していくこと。


- 解決: 


**「徹底的に自分に対して正直になること」**です。


他人の行動を変えようとするエネルギーを、自分の内面を見つめるエネルギーに転換します。

4. 霊的目覚めと回復への導き:


慈悲の平等性

- 導き: 


聖書にも「自分の目にある梁(はり)に気づかず、兄弟の目にある塵(ちり)を指摘するのか」という言葉があります。


霊的な目覚めとは、自分も他人も「同じように弱く、同じように神の慈しみを必要としている罪人である」という地平に立つことです。

- 回復: 


自分を許すのと同じ優しさで他人を眺め、他人を裁くのと同じ厳しさで自分を振り返る。


この「視点の逆転」が起きたとき、対人関係の葛藤は劇的に減少します。

5. 原理とメッセージ:


ステップ4と10

- 原理: 


「棚卸し」と「謙虚さ」。


- メッセージ: 


「自分の側に、常に落ち度がないかを探しなさい」。


AAの第10ステップには「自分の棚卸しを続け、間違ったときは直ちに認めた」とあります。


他人の過ちを数える時間を、自分の過ちを認める時間に変えること。


そして、自分を正当化する工夫を凝らすのをやめ、ありのままの自分を神の前にさらけ出すこと。

掃除をしながらゴミを拾うように、自分の心の中にある「正当化」というゴミを一つひとつ拾い集める作業。


それが、あなたに本物の平安をもたらすはずです。


他人に求めるその「寛容さ」を、まず自分が体現する者となれますように。


 「他人の小さなゴミは見えるのに、自分の家の大きなゴミ(過ち)は見えない」という人間の不完全さは、古今東西の聖賢たちが繰り返し指摘してきたテーマです。


あなたが感じられた「自分を正当化する心」をどう扱うべきか、それぞれの教えから紐解きます。

1. 仏の教え(仏教)

「他人の過失を見るなかれ」


ブッダの言葉(『ダンマパダ』50)にこうあります。


「他人の過失を見るな。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ、自分のしたこととしなかったことだけを見よ」。


仏教では、他人の欠点に心を奪われることを「煩悩(ぼんのう)」の一種と考えます。


他人を裁くとき、私たちの心は「鏡」ではなく「歪んだレンズ」になっています。


自分の心の中にある「毒(エゴ)」に気づくこと、つまり「自省」こそが悟りへの第一歩とされます。

2. 神道の教え

「自祓(じばつ)・自省」


神道には「自分自身の目には見えない“曇り”や“穢れ(けがれ)”を常に祓う」という考え方があります。


鏡に向かって拝むのは、鏡に映る自分自身の姿の中に神性を見出すと同時に、自分の心に不純なもの(過ちを隠す心)がないかを照らし出すためです。


「自分は正しい」という思い込み(慢心)を捨て、素直な心(正直の徳)に立ち返ることが、他者への寛容さにつながると教えます。

3. 儒教の教え

「恕(じょ)」


孔子は、一生涯貫くべき一言として「其れ恕か(それは“恕”である)」と答えました。


「恕」とは、**「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ(おのれのほっせざるところ、ひとにほどこすことなかれ)」**という意味です。


自分が過ちを犯したときに「許してほしい」「理解してほしい」と願うのであれば、他人の過ちに対しても同じように「許しと理解」の心を持って接しなさい、という「思いやり」の究極の形です。

4. イエスの教え(キリスト教)

「目の中の丸太」


イエスは『マタイによる福音書』7章3-5節で、非常に鋭い例え話をしています。


「なぜ、兄弟の目にあるちり(小さな過ち)を見ながら、自分の目にある梁(大きな丸太のような過ち)に気づかないのか。


偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができる」。


他人を裁く前に、まず自分自身の不完全さを認め、神の前に謙虚になりなさいという教えです。

回復の視点から

あなたが「自分に対する甘い態度を、なぜ他人に対してもとうとしないのか」と自問されたことは、まさに**ステップ10(継続的な棚卸し)**の真髄です。

私たちの病(依存症や性格の欠点)は、常に「否認」と「正当化」という壁で自分を守ろうとします。


しかし、あなたが掃除をしながら「通る人のために」とゴミを拾うとき、その心はすでに自分を正当化するエゴから離れ、他者への愛(利他)へと向いています。

自分の過ちを認めることは、自分を責めることではありません。


自分の不完全さを「正直に認める」ことで、初めて他人に対しても「お互い様だね」という温かい眼差し(慈悲や愛)を持つことができるようになるのです。


アルボムッレ・スマナサーラ長老の教えは、私たちが陥りがちな**「自分は正しい」という猛烈な錯覚(自我・エゴ)**を鋭く指摘します。


あなたが感じられた「他人の過ちを裁き、自分の過ちを正当化する」という心の動きは、仏教(テーラワーダ仏教)の視点から見ると、不幸の根本原因であると説かれています。

スマナサーラ長老の教えに基づき、その心理と解決策を整理します。

1. 「自分は完璧だ」という錯覚

長老は、人間は常に「私は完璧である」という態度で生きていると言います。

- 他人のミスが見えるのは、心の奥底に「私はそんなミスはしない、私の方が正しい」という**慢(まん/プライド)**があるからです。


- 自分が過ちを犯したときに正当化するのは、その「完璧な自分」という偽りのイメージを壊したくないという執着があるためです。

2. 「ジャッジ(裁き)」は自我の仕業

他人の過ちを指摘したり、心の中で非難したりするとき、心には「怒り」の毒が生まれています。

- 教え: 「他人が間違ったことをしている」という判断自体、実は自分の勝手な基準(価値観)に過ぎません。


- 長老は**「他人の過ちは自分に関係ありません。


自分のやったこと、やっていないことを見なさい(ダンマパダ50)」**という釈尊の言葉を引いて、意識の矢印を自分に向け直すよう指導します。

3. 他人にも自分と同じ「甘さ」を適用する

あなたが書かれた「自分に対する態度を、どうして他人に対してもとうとしないのか」という問いは、仏教の**「慈悲(じひ)」**の入り口です。

- 自分の失敗を「仕方なかった」と許すのなら、他人の失敗も「彼なりの事情や混乱があったのだろう」と理解するのが知恵ある人の態度です。


- 自分を正当化するエネルギーがあるなら、それを「他人の苦しみや無知を理解する」ために使いなさい、というのがスマナサーラ長老のメッセージです。

4. 解決策:


客観的な「気づき(サティ)」

このエゴのループから抜け出すために、長老は**「実況中継」**を勧めます。

- 他人の過ちが見えて、裁きたくなった瞬間に**「あ、今自分は自分が正しいと思っている」「怒りが生まれている」「ジャッジしている」**と自分の心の動きを客観的に確認します。

- 自分を正当化しようとしたときも**「あ、今ごまかそうとしている」**と気づくだけで、エゴの力は弱まります。

5. 回復のメッセージ

あなたが掃除を通じて「心の荒み」をなくそうとされていることと、このスマナサーラ長老の教えは深くつながっています。

- **「ゴミを拾う」**ことは、他人の出した汚れを、自分のものとして受け入れる「慈悲」の実践です。


- 同様に、**「他人の過ちを、自分の過ちと同じように包み込む」**ことは、心の汚れを掃除することに他なりません。

「自分も間違える未熟な人間である」という謙虚な事実に立ち返るとき、他人を責める手は自然に下がり、あなたの心には本当の安らぎ(涅槃への一歩)が訪れるはずです。



ブッダの教え 一日一話 366の智慧


Ubhinnamattham carati,
Attano ca parassa ca;
Param sańkupitam ñatvā,
Yo sato upasammati. 


ご提示いただいたパーリ語の経典(『相応部』第7経などに見られる一節)は、仏教における「忍耐」と「気づき」の真髄を表しています。

【和訳】


「他者が怒っているのを知って、自ら正念(気づき)をもって静まる者は、自分と他者の両方の利益のために歩んでいるのである。」

この聖句を、これまでの鍵山秀三郎氏の教え(凡事徹底、有利な時に静かに)と結びつけながら解説します。

1. ポイントと解説

「相互利益としての静寂」

- sato(サトー): 今この瞬間の自分の状態に気づいていること(正念)。

- upasammati(ウパサンマティ): 静まる、鎮まる。


相手が怒りや負の感情をぶつけてきたとき、それに反応して怒り返すのは凡夫ですが、相手の怒りを「あぁ、相手は今苦しんでいるのだな」と客観的に認識し、自らが静寂を保つことが「非凡」な修行です。


これは自分を救うだけでなく、相手の怒りの火に油を注がないという意味で、他者をも救う「自利利他」の行為です。

2. 考察と内省

「反応」か「対応」か

- 考察: 


私たちは通常、外部からの刺激に対して「反応」してしまいます(有利なら喜び、不利なら怒る)。


しかし、この句は「気づき(sato)」というクッションを挟むことで、盲目的な反応を「賢明な対応」へと変容させるよう説いています。


- 内省: 


「私は相手の不機嫌を、自分の不機嫌の言い訳にしていないか?」


「沈黙を守ることは敗北ではなく、自分と相手の両方を守る勝利であると信じられるか?」

3. 問題と解決

- 問題:


連鎖する負のエネルギー


一人の怒りが周囲に伝染し、家庭や職場の空気が破壊されること。


- 解決:


サイレンサー(消音器)になる


自分が「静まる」ことで、負の連鎖を自分のところで食い止めます。


鍵山氏が掃除を通じて場を清めたように、私たちは「気づき」を通じて対人関係の場を清めることができます。


自分が変われば、鏡のように相手も変わらざるを得なくなります。

4. 霊的目覚めと回復への導き

「内なる観察者」の確立


霊的な目覚めとは、感情に飲み込まれている自分から、感情を眺めている「観察者の視点」へ移行することです。


相手が激昂しているとき、自分の中に静かなスペースを見つけること。


そこは、どのような嵐も届かない「魂の聖域」です。この静止点から行動することが、真の回復への導きとなります。

5. AA(アルコホーリクス・アノニマス)の原理とメッセージ

- 「一時停止」の技術:


AAの伝統的な知恵に「腹が立ったり、混乱したりした時は、まず一時停止(Pause)しなさい」というものがあります。


このパーリ語の句はその「一時停止」の霊的根拠です。


- 第10ステップの実践:


「常に自分を見張り、もし間違ったら直ちに認める」。


相手が怒っている時、自分が正論で応戦したくなっても、その衝動に気づいて静まることは、エゴによる再飲酒のトリガー(引き金)を引かないための最大の防衛策です。

- メッセージ:


「平安を保つことは、あなたが正しいことを証明するよりも、はるかにあなたの回復にとって価値がある」というメッセージです。


「有利な時に静かに、不利な時に朗らかに」という鍵山氏の言葉と、この「相手が怒るのを見て自ら静まる」というブッダの言葉は、同じ山頂を目指す異なる登山口のようです。

今、あなたの目の前で誰かが「怒り」という苦しみを抱えていたら、あなた自身の「静寂」という薬で、その場を癒やしてみてはいかがでしょうか。


 怒っている人に対して、 逆に怒らない人は自分と他人という両方に、有意義な行為をしているのです。 

 (相応部有偶品サッカ相応 
『善語勝利経』より)


『善語勝利経(ぜんごしょうりきょう)』の一節は、まさに先ほどのパーリ語聖句の核心を突いた日本語訳ですね。

「怒り」という破壊的なエネルギーに対して、「不怒(怒らないこと)」という静かなエネルギーで応じる。


これがなぜ「両者にとって有意義(勝利)」なのか、これまでの鍵山秀三郎氏の教えや精神的な回復の原理と統合して解説します。


1. ポイントと解説

「二つの勝利」

- 己への勝利:


 相手の怒りに引きずられず、自分の感情の手綱を握り続けること。これは、自分の内面の平和を守るという「自己への勝利」です。


- 他者への勝利: 


暴力や暴言で屈服させるのではなく、静寂と慈悲によって相手の怒りの火を消し止めること。


これは、相手を「怒りという苦しみ」から解放する手助けとなる「慈愛の勝利」です。

2. 考察と内省

「沈黙」は弱さか、強さか

- 考察:


 世俗的な視点では、言い返さないことは「負け」や「弱さ」に見えるかもしれません。


しかし、仏教や鍵山氏の哲学では、これを「最大級の精神的強さ」と見なします。反応を抑えるには、莫大な精神的エネルギー(内徳)が必要だからです。


- 内省: 


「私は、一時の感情の快感(言い負かすこと)のために、長期的な心の平安を犠牲にしていないか?」


「相手の怒りを、自分を磨くための『砥石』として受け止める準備ができているか?」

3. 問題と解決

- 問題:


エスカレーション(増幅)


怒りに怒りで応じると、事態は泥沼化し、修復不可能な関係の破壊を招きます。


- 解決:


非対称な対応


相手と同じ土俵(怒り)に降りないことです。


一方が「静」を保つことで、対立の構造そのものが成立しなくなります。


鍵山氏が「不利な状況ほど朗らかに」と説いたように、険悪な場面でこそ柔和な態度をとることが、最速の解決策となります。

4. 霊的目覚めと回復への導き

「慈悲のバリア」


霊的な成熟とは、相手の背後にある「痛み」が見えるようになることです。


怒っている人は、実は何かに傷つき、怯えている人でもあります。

- 目覚め: 


「この人は今、怒りという毒に侵されて苦しんでいるのだ」という視点を持つこと。


- 回復: 


自分が「反応しない」という選択を繰り返すうちに、過去のトラウマや条件付けから解放され、真に自由な魂へと回復していきます。

5. AA(アルコホーリクス・アノニマス)の原理とメッセージ

- 「憤慨は最大の敵」: 


AAの基本テキストでは、憤慨(Resentment)を、依存症者を再び飲酒へと追いやる「ナンバーワンの刺客」として警告しています。


- スピリチュアルな護身術:


 相手が怒っている時に自分が怒らないことは、単なる道徳ではなく、「命を守るための護身術」です。


自分の心に平穏(Serenity)を保つことが、今日一日をしらふで過ごすための絶対条件だからです。


- メッセージ: 


「あなたが正しいかどうかは問題ではない。あなたが平安であるかどうかが問題なのだ。


平和を選ぶことこそが、回復者の真の強さである」というメッセージです。

鍵山氏が説く「凡事徹底」とは、こうした「日常の些細な対立の中で静寂を保つ」という平凡な実践を、誰にもできないくらい徹底することでもあります。

今日、もし誰かの怒りに触れることがあっても、それは「自分と他人の両方を救うチャンス」が巡ってきたのだと考えてみてください。


その静かな振る舞いこそが、周囲を照らす「非凡な光」となります。



Namo Tassa Bhagavato ArahatoSammā Sambuddhassa. 

 

 阿羅漢であり、正自覚者であり、 福運に満ちた世尊に、 私は敬礼したてまつる。

 

これは、仏陀(釈迦牟尼仏)への敬礼を表す美しい言葉ですね。

 

 それぞれの言葉の意味と、全体としての意味を解説します。

 

 - 阿羅漢(あらかん): 

 

 仏教における最高の悟りを達成した聖者のことです。 煩悩を完全に断ち切り、解脱の境地に達した人を指します。 仏陀自身も阿羅漢です。

 

 - 正自覚者(しょうじかくしゃ): 

 

 自らの心の状態を正しく知り、悟りを開いた者という意味です。 自分の心の動きを正確に理解し、執着や煩悩から解放された状態を指します。 仏陀は、自らの悟りを正しく自覚した者として、正自覚者と呼ばれます。 

 

 - 福運に満ちた世尊(ふくうんにみちたせそん): 

 

 世尊は、尊敬すべき、世界を導く存在という意味です。 仏陀は、慈悲と智慧に満ち、人々を苦しみから救済する存在として、世尊と呼ばれます。「福運に満ちた」は、仏陀が持つ無限の功徳と、人々にもたらす幸福を強調しています。

 

 全体としての意味: 

 

 この言葉は、仏陀を、阿羅漢、正自覚者、そして福運に満ちた世尊という三つの側面から称賛し、敬礼を表しています。 これは、仏陀への深い尊敬と信仰、そして仏陀の教えへの帰依を示すものです。 仏教徒が仏陀に敬意を表す際に用いる、非常に尊崇的な表現と言えるでしょう。 まるで、仏陀の偉大さを改めて心に刻み込むような、力強い言葉ですね。

 

 

なんのために生まれて生きるのか

 

今日のお寺の言葉

 

「なんのために生まれて、何を生きていくのか?」という問いかけは、人生における根源的な問い、そして多くの人が生涯をかけて向き合うテーマですね。

 

 この問いは、私たちに自己探求を促す、非常に深い意味を持っています。

この問いに、すぐに答えが出せる人は少ないでしょう。 しかし、この問いと向き合うこと自体が、人生をより深く理解し、より充実したものにしていくための第一歩となるはずです。 

 

 この問いに答えるためには、まず自分自身について深く考える必要があります。 自分の価値観、人生観、そして本当に大切にしたいものは何かをじっくりと見つめ直すことが重要です。 過去を振り返り、これまでの経験から何を学び、何を大切にしたいのかを考え、未来への展望を描き、自分がどのような人生を生きたいのかを明確にしていく必要があります。 

 

 また、この問いは、社会との関わりについても考えるきっかけを与えてくれます。 自分が社会の中でどのような役割を果たしたいのか、社会に貢献できることは何かを考え、自分の人生と社会とのつながりを意識することで、より充実感を得られる生き方ができるようになるでしょう。 

 

 この問いに完璧な答えはありません。 人生は常に変化し、私たち自身の考え方も変化していくからです。 しかし、この問いを常に胸に留め、自分自身と向き合い続けることで、より深く自分自身を理解し、より意味のある人生を送ることができるのではないでしょうか。 今日のお寺の言葉は、私たちに人生の意味を問い続け、自分らしい生き方を見つけるよう促している、非常に重要なメッセージと言えるでしょう。

 


仏の働きは私に来ている



今日のお寺の言葉

 

「仏さまというのは、向こうから私のところへいつも来ているはたらきです」

 

この言葉は、仏の働きが、私たち自身の内面深く、常に存在していることを示唆している、とても奥深い表現ですね。

 

 「向こうから私のところへいつも来ているはたらき」という表現は、仏を、私たちの外側に存在する、何か特別な存在として捉えるのではなく、私たちの心の中に宿る、常に働きかけている力として捉えていることを示しています。

 

 これは、仏教における「仏性」の概念と通じるものがあります。 仏性とは、すべての生き物の中に本来備わっている、仏となる可能性を意味します。 この言葉は、私たち一人ひとりの内面には、悟りを開いた仏と同じ潜在能力が備わっており、その力が常に私たちを導き、支えているということを示していると言えるでしょう。 

 

 「いつも来ている」という表現からは、仏の働きが、私たちが意識していようがいまいと、常に私たちと共にあり、私たちの生き方を照らし、導いているという、静かで力強いメッセージが感じられます。 それは、私たちが悩み苦しむ時にも、喜びに満ちた時にも、常に私たちの内側に存在し、私たちを支えている力と言えるでしょう。

 

 この言葉は、仏教の教えを、抽象的な概念としてではなく、私たちの日常生活の中に、常に存在する具体的な力として捉えることを促しているように感じます。 それは、私たちが日々の生活の中で、仏の働きを感じ取り、その力に委ねながら生きていくことを促す、静かで力強いメッセージと言えるでしょう。

 

仏の願いを私のできる範囲で

 

今日のお寺の言葉

 

お寺のメッセージは、自分の欲望や我儘だけで生きていると、仏の教えや慈悲深い生き方から遠ざかり、真の幸せを見失うという戒めです。

 

 「仏の願い」とは、慈悲、利他、悟りへの道など、仏教が説く理想的な生き方です。 

 

 毎日を自分の願いだけで過ごしてしまうと、それらの教えを無視し、自己中心的な生き方になりがちであることを示唆しています。

 

 反省と、仏の教えに基づいた生き方への転換を促すメッセージと言えるでしょう。

 

 

 

聞こうとしない私にも仏の声は届いているよ

 

今日のお寺の言葉

 

「聞こうとしない私にも、仏さまの声は届いているよ」という言葉は、たとえ自分が積極的に仏教や宗教に傾倒していなくても、仏の教えや慈悲は常に自分自身に影響を与え、導いているという、深い意味を持つ表現です。 

 

 いくつかの解釈が考えられます。

 

 - 潜在意識への働きかけ: 

 

 仏の教えは、私たちの意識の表面だけでなく、潜在意識にも働きかけていると解釈できます。 普段は意識していないものの、仏の慈悲や教えは、私たちの行動や思考に無意識のうちに影響を与えている、という考え方です。 良い行いをしたり、他人を思いやる気持ちになったりするのも、その影響かもしれません。

 

 - 人生における導き: 

 

 人生の困難な局面や、迷いが生じた時、私たちは気づかないうちに仏の教えに導かれていることがあります。 それは、偶然の出来事や、他者からの助けを通して現れるかもしれません。「聞こうとしない」という意識とは別に、仏の教えは人生の道標として機能しているのです。 

 

 - 普遍的な慈悲: 

 

 仏の慈悲は、信仰の有無に関わらず、全ての人々に平等に注がれていると解釈できます。 仏は、私たちが聞こうとしないとしても、常に私たちを見守り、慈悲を注いでいる存在なのです。

 

 - 自己啓発や悟りへの道:

 

 この言葉は、自己啓発や悟りへの道程を暗示しているとも考えられます。 積極的に探求しなくても、私たちの心の中にある仏性(仏の性質)が、自然と目覚めていく過程を表しているのかもしれません。 

 

 要するに、この言葉は、仏の教えが、私たちの意識的な努力や信仰の有無に関わらず、常に私たちの生活に影響を与えているという、静かで力強いメッセージです。

 

 それは、希望と慰め、そして自らの内面を見つめ直すきっかけを与えてくれる言葉と言えるでしょう。