2月・私の祈りと歩み・デポーション | 私の居場所と今日一日。

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私の人生は死ぬまでのひまつぶし、とかってのブログに書きました。その後に私が見つけた日常の記録です。感情障害や無呼吸症候群、脳脊髄液減少症、アルコール依存症他の病を患っていますが、ブログで健康とヘルスケアを整えたいですね。

 

私の人生ひまつぶしです。

毎日ブログで仲間のみんなと日課の読み合わせています。




神にゆだねて





2月2日 

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

ローマの信徒への手紙 一二章一節


ポイント 


 1. 勧めの根拠:神の憐れみに基づいて信徒に勧めがなされる。


 2. 核心的な指示:自分の体を「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」として献げること。 


3. 礼拝の位置づけ:この「体を献げること」こそが、信徒がなすべき本質的な礼拝である。


 4. 出典:聖書・ローマの信徒への手紙12章1節。


 解説 


 この一節は、キリスト教の教えの中でも重要な箇所で、「礼拝」を単なる儀式的なものではなく、「自分自身の全てを神に捧げる生き方そのもの」と位置づけています。


「生けるいけにえ」とは、昔の動物や穀物などの供え物とは異なり、生きたまま神に捧げ続けることを意味し、体を通して行う全ての言動を神に喜ばれるようにすることが求められます。


また、「神の憐れみによって」とあるように、この勧めは神の恵みを受けた者としての帰報であり、義務感だけでなく感謝の気持ちに基づくものです。 


 考察 


 この一節は、「信仰を生活に実践すること」の重要性を説いており、A.A.などの自助組織の理念とも通じる部分があります。


例えば、「自分自身を超越的な力に委ね、その意志に従って生きる」という点は、A.A.のスピリチュアルな成長の考え方と一致します。


また、「体を聖なるものとして扱う」という指示は、アルコールによって体や心を傷つけることを戒める意味でも解釈でき、健康的な生き方を促すメッセージとしても意義があります。


現代社会では「自己実現」を重視する傾向がありますが、この一節は「自分をより大きな存在や目的に捧げることで、真の充実感を得られる」という視点を提供してくれます。 


 内省のヒント 


 - 自分が「自分自身を捧げる」ということを、どのような意味で理解しているか?


 - 日常の言動の中で、「何か大切なものに合致するように生きている」と感じる場面はあるか?


 - 「体を大切にし、それを通して良いことを行う」という点について、自分はどの程度実践しているか?


 この一節の教えを、自分の生活に少しでも取り入れるとしたら、どんなことから始めてみたいですか?


 H・G・ウェルはかつて言いました。 

 「神を見い出すまでは私たちには始まりがありません。そして終わりのない働きをするのです」

 これは嗜癖からの回復や解放のためのモットーです。神を見い出すまでは、私たちの回復は始まらないし、どこにも行き着かないのです。私たちの発見や神への祈りは嗜癖の病のためにある特別でユニークな治療ではありません。神はすべての人に必要です。神は空気や水や食べ物と同じように、命にとって必要なのです。

 人間は本能的に礼拝します。私たちは拝み、エネルギーや忠誠心を何かに捧げます。これは選択ではありません。私たちは何か重要な目的、グループ、活動、人を信じているにちがいありません。悲劇は偽りの頼るに値しない神々を選んだということです。十戒の最初の戒めは「私以外の他の神を持ってはならない」のです。アブラハム、イサク、ヤコブの神、唯一の神、 主なるイエス・キリストの父だけが、礼拝に値するのです。神のみが私たちを癒すことができます。富、名声、喜び、力、知識はキリストにある神の代わりとなることはできません。これらのものは私たちに起こるかもしれませんが、それらを崇拝することによってではありません。イエスは言いました。


ポイント


 1. 核心的モットー:H・G・ウェルズの言葉「神を見い出すまで始まりがなく、終わりのない働きをする」を、嗜癖からの回復・解放のための指針と位置づける。 


2. 神の必要性:回復のためだけでなく、全人類にとって神は空気や水のように命に不可欠なものである。 


3. 人間の礼拝本能:人は本能的に何かに捧げ、礼拝する性質を持ち、これは選択ではない。 


4. 偽りの神の問題:悲劇は富や名声など「偽りの神々」を選ぶことで起こり、唯一の神こそが礼拝に値し、癒してくれる。


 解説 


 この文章は、キリスト教の視点から嗜癖の回復とスピリチュアリティの関係を述べています。


まずH・G・ウェルズの言葉を引用し、「神を見い出すこと」が回復の出発点であり、持続的な成長の基盤であることを強調します。


次に、神の必要性を「生命維持に不可欠なもの」に例え、回復者だけでなく全ての人にとって重要であることを説明します。


さらに、人間が本能的に何かを崇拝する性質を指摘し、富や名声などを代替の神として選ぶことの危険性を戒め、唯一の神こそが真の癒しをもたらすと主張しています。


 考察


 この考えは、A.A.などの自助組織で重視される「ハイヤーパワーとのつながり」と共通する部分がありますが、より明確にキリスト教の唯一神を提示している点が特徴です。


人が何かに心を捧げる本能についての指摘は、嗜癖が「何かを求めて満たされずに続く状態」であることと関連し、「偽りの対象に捧げることで問題が深刻化する」という視点は、嗜癖の背景にある心理的な要因を説明する一助となります。


また、「神は癒しの主体であり、富や名声などは代替にならない」という主張は、物質的なものや一時的な快楽に頼ることの限界を示唆しています。


 内省のヒント 


 - 自分は現在、何か特定のものや存在に「エネルギーや忠誠心を捧げている」か?


それが自分にとって良い影響を与えているか? 


- 「富や名声などが代替の神になり得る」という指摘に、自分自身や周囲の例が当てはまる部分はあるか?


 - 「命に必要なもの」としてのスピリチュアリティについて、自分なりに考えたことはあるか? 


 この文章を読んで、「何かに捧げること」の意味について、考えを改めてみたいと思う点はありますか?


 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、 これらのものはみな加えて与えられる」
(マタイ六・三三) 


ポイント 


 1. 核心的教え:「何よりもまず神の国と神の義を求める」ことが最優先であり、そうすれば生活に必要なものはみな加えて与えられる。


 2. 出典:聖書・マタイによる福音書6章33節。


 3. 意味の対比:物質的なものや眼前の欲求を先に追うのではなく、スピリチュアルなものを優先することが重要。 


 解説 


 この一節は、キリスト教の核心的な教えの一つで、「人生の優先順位」について示しています。


「神の国」とは神の支配が行き届く状態や共同体、「神の義」とは神のご意志に従って正しく生きることを指します。


文中では、食べ物や衣服といった生活必需品を追い求める前に、まず神の国と義を求めることを説き、そうすることで必要なものは自然に備わると約束しています。


これは「スピリチュアルなものを優先することで、物質的な不安も解消される」というメッセージです。


 考察 


 この教えは、嗜癖からの回復にも深く関わります。


依存症の方が物質や嗜癖行動を最優先にすることで生活が崩壊するのに対し、「神の国と義」を求めることは、自己中心的な考え方を超え、より大きな目的意識を持って生きることにつながります。


また、「必要なものは加えて与えられる」という部分は、過度な不安や欲求に駆られることなく、信頼しながら生きることの重要性を教えてくれます。


現代社会では「豊かさ=物質の多さ」と誤解されがちですが、この一節は「真の豊かさはスピリチュアルな充足にある」という視点を提供します。 


 内省のヒント 


 - 自分の人生の優先順位は、スピリチュアルなものと物質的なもののどちらに傾いているか? 


- 「必要なものは与えられる」と信じることができるか?


それとも不安から過剰に物を追い求めているか? 


- 「神の義に従って生きる」とは、自分にとって具体的にどんな生き方か? 


 この一節の教えを実践するため、自分の生活で優先順位を少し変えてみるとしたら、どこから始めますか?


 わたしがあなたの前に何も置かないように助けてください。 


神様。アーメン 


ポイント 


 1. 祈りの内容:「神様の前に何も置かないように助けてください」という単純かつ核心的な願いで、最後に「アーメン」で締めくくる。 


2. 意味の核心:神よりも優先するものや、神とのつながりを妨げるものを一切置かないように求めている。 


 解説 


 この短い祈りは、「神を最も高い位置に置き、他のどんなものもそれに代わるものや妨げるものにしない」という純粋な想いが込められています。


「何も置かない」とは、富や名声、自分の欲望、人間関係など、神よりも前に優先してしまいがちなものを排除し、神との関係を最優先にすることを意味します。


また、「助けてください」と祈ることで、自分一人の力では難しいことを認め、神の力に委ねる姿勢が表れています。


 考察 


 この祈りは、先に見た「マタイ6章33節」の教えを端的に表したものと言えます。


現代人は多くのものに囲まれ、様々な目標や欲求に駆られがちですが、この祈りは「本当に大切なものは一つだけであり、それ以外を前に置くことで心が混乱する」という洞察を含んでいます。


嗜癖からの回復においても、「依存対象を神の前に置くことが問題の根源であり、それを取り除くことで真の回復が始まる」という考えと一致します。


また、この祈りの単純さこそが、深い信仰と内面の清らかさを表しています。 


 内省のヒント


 - 自分の心の中で、神よりも前に置いてしまっているものはあるか? 


- 「何もかもを神に委ね、他に優先するものを持たない」ということは、自分にとってどんな意味があるか? 


- このようなシンプルな祈りを通して、心が落ち着くと感じるか? 


 この祈りを心に留めることで、今日から自分の生活や心の在り方を少し変えてみようと思いますか?



Arguments 

 議論 


 原則に関しては同意すると言う人は、例外なくあなたと言い争う用意があることに気づきました。議論は通例はあまり生産的ではありませんが、討議は生産的です。議論は基本的には二人の人が自分が正しいと主張する戦いです。それは勝負です。誰も負けることを望みません。勝つことが目的です。残念ながら私たちは他方の側が見えず、自分たちの値しか見えません。このことは宗教的な議論でもよくあります。スポルジョンは次のように言いました。


 「聖霊が示すことを多く語る人は他の人に聖霊が示したことをほとんど考えない」

冗談に次のように言った人もいます。


 「いかなる議論も二つの側があり、それらは互いに密接に結びついている」私たちは二つの傷があることを忘れていることが多いのです。 


 二つの側があり、両方とも勝つべきであるということを忘れないようにすることによって、議論は討論に変えることができます。Win-win の関係は南側にとって学びをもたらし、 それぞれにとってその話し合いは有益です。聞いて学ぶことは示して話すことと同じように重要です。


 質問をすること、他の人の意見や考えに好奇心を持つことは討議されている事柄の向上させ、聖化させます。理解が目的であり、勝ち点ではないのです。


個人的な意見として前置きしたり、私の意見は間違っているかもしれないと前置きして、

議論を避けることができることがわかりました。そのように考えるのがあなた一人だとすれば、正しいかどうかはそれほど重要ではありません。ある考えや感情を他の人のせいにする前に、「私の考えは間違っているかもしれないが、あなたは今日、あまり元気でないように見える。その通りですか、それとも私が想像しているだけでしょうか」ということを忘れないようにしている。 


このようにして、私への攻撃や推測をされずに、賛同されたり正されたりする活路を開きます。


ポイント


 - 議論と討議の違い:議論は「自分が正しいと主張する戦い・勝負」で生産的でないが、討議は「理解を目的とし、Win-winの関係を築く」もので有益。


 - 議論の問題点:当事者は自分の側しか見えず、他者の意見や「聖霊が示すこと」なども相手のものは考えない傾向がある。


 - 討議への転換法:「両方が勝つべき」と考え、聞くことや質問、好奇心を持つことで話し合いを高める。


 - 議論回避のコツ:「個人的意見です」「間違っているかもしれません」と前置きし、他者の状況を配慮した表現を使うことで、攻撃感を避けて活路を開ける。


 解説


 - 「議論は戦い」とは、勝敗を競うことで対立が深まり、相互理解が進まないことを指す。特に宗教的な議論では、自分の信念を絶対視して相手の意見を無視しがちな点が指摘されている。


 - スポルジョンの言葉や冗談は、「自分が持つものばかりを重視し、相手の視点を軽視する傾向」を皮肉たっぷりに表している。


「二つの傷がある」とは、両者ともに課題や未熟な部分を持っていることを暗に示している。


 - 「Win-winの関係」とは、一方が勝つのではなく、お互いに学びを得られる状態を指す。


聞くことや質問することで、話し合いが「聖化(より良いものにする)」されるとしている。 


- 前置きをつけたり相手の状況を配慮した表現を使うことで、相手に攻撃されたり推測されたりする感覚を与えず、意見の交換や修正をスムーズにすることができる。


 考察 


 - 現代社会では意見の多様化に伴い、議論が増える一方で対立が深まるケースも多い。


この文章が提唱する「討議への転換」は、多様な意見を尊重しつつ問題を解決する上で重要な視点だ。


 - 「自分の意見が間違っているかもしれない」と前置きすることは、謙虚な姿勢を示すだけでなく、相手にも柔軟に意見を述べやすい雰囲気を作る効果がある。


 - 「理解が目的で勝ち点ではない」という考えは、人間関係の構築や問題解決において、短期的な勝利よりも長期的な信頼関係を重視する姿勢を反映している。


 内省のヒント 


 - 自分は意見が合わない時、「議論」になりがちか「討議」として進められるか?


その違いは何だと思うか? 


- 「自分の意見だけを正しいと思い、相手の意見を聞かない」ことはないか?


その結果どんなことが起こったか? 


- 他者と意見を交わす時、「前置きをつける」「相手の状況を配慮する」といった工夫はしているか?


していない場合は、どう改善できるか?


 あなたは、意見が合わずに対立しそうになった時、「議論を討議に変える」ために何か工夫した経験はありますか?



序文 


 「神にゆだねて」はこれから長い間多くの人々に読まれるでしょう。本書は日々の祈祷書といわれる本に欠けているものを満たす本です。


最近の(アルコール依存症の会の信条に基づいて)十ニステッププログラムから突然生まれたこの本は、いままでと違うスピリチュアルなアプローチで多くのクリスチャンに嗜癖や依存症からの回復をもたらしています。このような回復した人々はとても神に感謝しています。


 十ニステップにかかわる多くの日々の祈祷書はイエス・キリストや具体的な聖書の個所に言及することをずっと避けています。このことは回復の明らかな問題について、キリストによって教え育てられることがないことを意味しています。


 しかし「神にゆだねて」の中で作者のフィリップ・パーハムは回復の明らかな問題について、キリストによで癒され、育てられると書いています。慎重によく準備された良いキリスト教の日々の祈祷書です。十二ステッブにかかわる困難なスピリチュアルな問題を具体的に、時には心に強く訴えるように書いています。


 本書は回復中のクリスチャンに役に立ちますし、イエス・キリストに顕されている高い力を受け入れる十二ステップに属するノンクリスチャンにも助けになります。個人的にもフィルが本書を書いてくれたことに感謝しています。そして本書を神の意志を一日に一度見いだし、実践しようとしている他の人々にも推薦します。 


 キース・ミラー 

 テキサス州オースティン



この序文のポイントと解説は以下の通りです。


 主なポイント


 1. 本書「神にゆだねて」の意義


 今後長く多くの人に読まれ、既存の日々の祈祷書の「欠けているもの」を満たす価値のある本で、アルコール依存症の会の十二ステッププログラムを基に生まれ、嗜癖・依存症からの回復に新しい霊的アプローチを提供している。


 2. 既存の十二ステップ関連祈祷書の課題 


イエス・キリストや具体的な聖書の個所への言及を避ける傾向があり、回復の問題についてキリストによる教えや育てが得られない点。


 3. 本書の特徴 


作者フィリップ・パーハムが「キリストによって癒され、育てられる」という視点から回復の問題に取り組み、慎重に準備された良質なキリスト教の日々の祈祷書。


十二ステップの困難な霊的問題を具体的かつ心に訴えるように書かれている。 


4. 対象読者


 回復中のクリスチャンだけでなく、イエスによる「高い力」を受け入れる十二ステップのノンクリスチャンにも助けとなり、「一日に一度神の意志を見つけ実践する」人々に推薦される。


 解説 


 - 「欠けているもの」とは:


既存の祈祷書が「高い力」を抽象的に扱うのに対し、本書が「イエス・キリスト」や「聖書」という具体的なキリスト教の根拠に基づいて回復を語る点で、クリスチャンにとって必要だった「具体性と霊的な根拠」を補っていると考えられます。


 - 十二ステップとキリスト教の融合:


十二ステッププログラムは当初から「高い力」への依存を提唱していますが、本書はその「高い力」を明確にイエス・キリストと結びつけることで、クリスチャンの回復者に親和的で、かつノンクリスチャンにも「高い力」の具体的な姿を示すというバランスを取っています。


 - 序文の立場:


執筆者キース・ミラーは個人の感謝の意を込めて推薦しており、本書が「日常的な神の意志の実践」にも役立つことを強調することで、依存症回復だけでなく広く霊的な成長を目指す人々への訴求力も示しています。


 この本の「キリストによる癒し」と十二ステップが融合された内容に、今後の回復や霊的な成長のために興味を持たれますか?