ふぞろいどら焼き7個 | 人間でいたい

人間でいたい

愛と平和



アカシックの横浜ベイホールがさ、
もう、最高でしたよね。
どしゃぶりの雨なのも良かった。
人間の愛って究極、
こういう風に昇華されていくのか、と。
理姫ちゃんという人間は希望だと思った。

それで、その日の日記帳に「自分が、いかなる時も自分であり続けること」について綴り、胸に秘め日常を生きている訳だけれど、
まあ、自分であり続けるっていうのが1番難しいですよね。そういう風に生きるということが。
いつでも最高!って思える自分であればハナマルだけれど、そうじゃないことのほうが圧倒的に多いし。

というか最高!な自分というのにまだ出会ったことないのかもしれないな、とも思う。
人から褒められて嬉しい、とか実績出せて嬉しい、と思う瞬間はあるものの、その瞬間というのは幸せというよりも(花がぱっ!と咲いた瞬間、みたいな、明るい気持ちになることも勿論あるけれど)寸分の悲しさみたいなものを感じて、それはきっと自己と他者という関係上、拭えぬものだと思う。それでいい。それがあるおかげで他者を美しいと思えることも、自分が間違っていないと思える余白もあるはずだから。
つまり、最高!な自分に自分が出会うために必要なことはきっとまだまだあるのだろうなーと。理想を思い描いて、追いかけようと思えば思うほど悔しさばかりが先にくる。そりゃそうだ。器用じゃないんだもん。

でも最期は、
最期の最期は間違っていなかったと。
愛おしい人生だったと心から思いたい。

死にたい訳ではないけれど、毎日あっ今日死なないかなぁと思う瞬間があって、もうそれは仕方がないことで、だからやっぱり最期は愛おしい人生だった、と思いたいよ。自分を愛せなくても他人を愛せなくてもズレちゃってても苦しくても、見続けてきた目の前は、悲しくないって思いたい。

アンチ偶像崇拝であるのは、
やっぱり、人は人のまま繋がりたいから。馬鹿みたい、神様なんていないんだよ。私たち、血と肉と骨なんだよ。神様がいなくても幸せになれるんだよ。君の最高は、神様のものじゃないんだよ。

昔から人に心配されるのがなんか、苦手。悲しまれるのも。気にかけてくれるのはすごく嬉しいけれど、そんな暇あるならこちらのことは気にせず勝手にどこかで楽しい気持ちでいてくれと思う。
誰かに管理されてるみたいに感じるのがすごく苦手なんだと思う。結局みんな自己愛で、私もそうだし、それに応えることによって歪められていく何かへの恐怖というか。でも多分歪んでいるのは自分のほう。気にかける、それはきっと、ちゃんとその人の愛だ。でも嫌だ。私は葬式にエレクトリカルパレードを流してほしい夢があると付き合っていた人へ話したら引きつり笑いしてた。君の愛はきっと悲しさや寂しさよりもずっと尊い、悲しさや寂しさで証明されるものでもない、それは悲しさではないですよと思っているのですが。
まあ私はもっと人に優しくしたほうがいいですよね。優しさは人を苦しめることもある、なんて分かりきったことですよ。でもそれを感じないとき、きっと相手も優しいんです。優しさで生まれるハッピー、ソー・ハッピー。

なんかいい感じに生きれていけるかも。できないことばかりではありますが。楽しみなこともたくさんあるし。照り焼きチキン、つくるぞーー