2つ前の記事でルクセンブルクのジャン公子とコンスタンティン公子の親子二代で続いた結婚前の妊娠・出産について紹介しました。


特にジャン公子の結婚前の妊娠・出産、大公継承権の放棄、離婚という流れはルイ大公子(アンリ大公の三男)とテシー元妃と重なります。
テシー元妃は元軍人、ヨーロッパの王室では元軍人のお妃は珍しいですね。今回はロイヤルファミリーとしては異色の元夫婦にスポットを当ててみました。



●ルイ大公子

1986年8月3日にルクセンブルク市のシャルロット女大公産科病院(Grand Duchess Charlotte Maternity Hospital)でアンリ大公とマリア=テレサ大公妃の三男として誕生しました。


父アンリ大公と兄ギヨーム大公世子、フェリックス大公子とバイクに跨がるルイ大公子

ルイ大公子はルクセンブルクのアメリカンスクールで中等教育を受けた後、スイスのアルペン・インターナショナル・ボーソレイユ校に通いました。

スイス滞在中には社会的および人道的活動に特別な関心を抱き、 インドのムンバイにある学校と協力して、NGOが主催するミッションに参加し、 市内の最も貧しい地域の子供たちとストリートチルドレンに英語を教えました。 ヨーロッパに戻った後、ジュネーブの赤十字本部で1年間のインターンシップに参加されました。 また、学校の休暇中に子供たちのグループの世話をしたり、高齢者を支援したりするためのプログラムにも参加されるなどボランティア活動に熱心な方のようです。


●テシー・アンソニー
1985年10月28日、屋根葺き職人のフランソワ・アンソニーと妻レジーヌ・アンソニーの間に男女の双子として誕生しました。 テシーと双子の兄弟ロニーは実際にはアントニー家に生まれた2組目の双子でした。 テシーには姉パティ、マイクとジェリーという双子の兄がいましたが、ジュリーは生後間もなく亡くなっています。



双子のロニーとテシー

テシーはルクセンブルク北部と南部の両方で育ちました。 北部で過ごした幼少時代は自然に囲まれて暮らし、 家族は鶏を所有、テシーは自分の牛を飼っていました。




テシーと双子の兄弟ロニーは、ルクセンブルク市の南にあるペタンジュ工業高校に通い、17歳で双子のロニーと一緒に軍隊に入隊する事を決心しました。
父親はその決定に対して、既に入隊していたテシーの姉パティの足跡をたどるように彼女を激励しました。
   
2003年6月に双子の兄弟のロニーと入隊すると、テシーは2004年3月から7月まで、ユーゴスラビアでのミッションにSdt 1cl Chauffeur C2として、コソボの平和維持活動に従事していました。この期間に、テシーは連隊で唯一の女性として配属されましたが、性的暴行未遂と運命を大きく変える出会いという2つの出来事があったようです。




18歳のテシー・アンソニー(右)

「4ヶ月のブートキャンプを終え、すべての身体的耐久性と学術試験に合格すると、 グループ全体で唯一の女性であり、ドラフトの唯一の女性としてコソボのミッションに参加したいというのは私に与えられたものです。 私は、他の女性にも同じことをするように促すために、特に男性主導の環境で現状に挑戦するのが好きです。 これにより、労働力に多様性、機会、平等が生まれます」と、コソボのミッションに志願した理由について2018年のインタビューで語っています。





2020年1月に公開されたポッドキャストのインタビューで、同僚の兵士から性的暴行を受けそうになり、その危機に対して、相手の鼻を強打して撃退したという過去を明かしています。

7:50から性的暴行未遂について語っています


「私は教育を受けていましたから、(自分を守るために)何をすれば良いか知っていました」と語るテシー元妃。姉のパティが既に軍に入隊していたこともあり、姉から軍隊内での性的暴行の危険性等も教えられていたのかもしれません。





テシーはユーゴスラビアに駐留するルクセンブルク軍の視察に訪れた将来の夫、ルイ大公子と出会いました。ルイ大公子17歳、テシー18歳の時でした。テシーは入隊後約1年でルイ大公子と出会ったことになります。この2004年の出会いの後、すぐに2人は恋におちたそうです。

 
出会いから約1年後の2005年9月、「アンリ大公とマリア=テレサ大公妃が彼らの最初の孫を迎えることを楽しみにしている」と公式に発表をしました。この時、ルイ大公子とテシー・アントニーの関係は初めて公表され、 大きなメディアの旋風が起こり、報道が加熱しました。
ルイ大公子は当時は19歳で二人の兄も結婚していませんでした。突然の発表に国民はさぞかし驚いたことでしょう…



テシーは、2006年3月12日、スイスのジュネーブにある私立病院クリニック・デ・グランゲットで、長男ガブリエルを出産しました。 婚前妊娠と第一子誕生時のルイ大公子の年齢が19歳と若すぎたことも問題となり、ルイ公子と(将来誕生する子供を含めた)夫婦の子孫の大公継承権放棄しました。 ルイ公子はprinceの称号と「殿下」の敬称を保持し続けましたが、ガブリエルには称号のないナッソーという姓のみが与えられました。



誕生から約1ヶ月後、ガブリエルの洗礼式が行われました。ルイ大公子とマリア=テレサ大公妃の愛だの男性はテシーの双子の兄弟ロニーです。テシーはオフショルだーの衣裳を着用しています。イギリス王室ならば批判されそうですが、ルクセンブルクでは良いのでしょうか?

今年誕生したシャルル公子の洗礼式でもステファニー大公世子妃はノースリーブ、アマリア公女はサンダルでした。イギリス王室よりもドレスコードが緩いようです。





宗教的な結婚式の前に行われた民事結婚式により、法律上の夫婦となりました。



ガブリエルの誕生から約6か月後の2006年9月26日、ルイ大公子とテシーは約1,000人の住民が住む小さな町ギルスドルフのギルスドルフ教会で宗教的な結婚式を挙げました。大公子の妻となり、ルクセンブルク大公家の一員になったテシーですが、長男ガブリエルと同じく称号は与えられず、ナッソーという姓のみが与えられました。(Tessy de Nassau)



princessの称号が無いためかティアラは無し。ロイヤルウェディングには珍しいベアトップのウェディングドレス。




テシーのウェディングドレスは既製品でした。
PRONOVIAS(プロノビアス)はスペインのカタルーニャを拠点とするブランドで世界105ヶ国、日本でも青山店と大阪店が展開されています。



結婚式にはアンリ大公、マリア=テレサ大公妃、ジャン前大公(ルイ大公子の祖父)、ルイ大公子の兄弟等ルクセンブルクのロイヤルファミリーも参列されました。

テシーは20歳という若さで母親、妻、大公家の一員(称号は無し)になりました。
princessの称号はないものの、ルイ大公子(prince)の妻として、アンリ大公の初孫であるガブリエルの母として世間から注目を集める存在になりました。


 

ルイ大公子の兄であるギヨーム大公世子の結婚が2012年、フェリックス大公子の結婚が2013年ですからまだまだ先の話です。ギヨーム大公世子とステファニー大公世子妃の婚約までは、ルイ大公子一家への注目が想像できます。



2007年7月23日、称号はありませんが他のルクセンブルク公室メンバーとNational Day(建国記念日)を祝う式典や礼拝に出席しました。この時テシー妃は第二子を妊娠中でした。


ルイ大公子とテシーの結婚1周年の5日前である2007年9月21日、シャルロット女大公産科病院(Grand Duchess Charlotte Maternity Hospital)で次男のノアが誕生しました。第一子の出産ではスイスの病院での出産でしたが、第二子はルクセンブルク公室御用達の病院で出産されたようです。マリア=テレサ大公妃もルイ大公子を含む5人の子供達をこの病院で出産されました。
最近ではステファニー大公世子妃がシャルル公子を出産されたのもシャルロット女大公産科病院でした。
2007年10月27日、ノアの洗礼式が行われました。
今回は肌の露出も控えめにジャケットも羽織っています。ガブリエルとノアの洗礼式は両親の結婚式と同じギルスドルフ教会で行われました。


次男ノアの誕生後しばらくして、テシーは3回目の妊娠をしましたが、流産してしまった事を公表しています。 それを「私が今まで直面した中で最も困難な状況の1つ」と語りました。




2009年6月23日(ルクセンブルグの建国記念日)に、テシーは「Princess of Luxembourg 」と「Princess of Bourbon-Parma」の称号と「Royal Highness(殿下)」の敬称を与えられました。また、 ガブリエルとノアおよび今後誕生する子供に「Prince of Nassau」という称号と「Royal Highness(殿下)」の敬称が与えられました。




第一子出産と結婚式から約3年後、ついに正式にprincessとなり、晴れやかな表情のテシー妃です。


ルイ大公子と家族はアメリカに移り、ルイ大公子は2年間航空学と航空管理を学びました。 その後、 イギリスに移住すると2人は揃ってリッチモンド大学に入学しました。

2012年には長兄ギヨーム大公世子がベルギー貴族の出身のステファニー妃と結婚されました。テシー妃とステファニー大公世子妃は比較されることも多かったのではないでしょうか。
左からテシー妃、ルイ大公子、妹のアレクサンドラ大公女、ステファニー大公世子妃



兄フェリックス大公子とクレア妃の民事結婚式の日に撮影された家族写真です。左からガブリエル公子とノア公子です。




2014年5月15日、ルイ大公子とテシー妃はリッチモンド大学の学士号を取得。卒業式にはアンリ大公、マリアテレサ大公妃、テシー妃の母親レジーヌ・アンソニーが駆け付けました。




(ルイ大公子はコミュニケーションの芸術の学士号を取得しました。 人道的広告に関する学位論文を書き、ロンドンのバークベックカレッジで研究を続け、心理社会的研究の修士号も取得しました。
テシー妃は国際関係を学び、学士号を取得しました。修士号を取得するために、ロンドン大学に切り替えて外交研究を続けました。 )

  



2015年5月に公開された家族写真


2015年6月の建国記念日公式写真

 2016年1月30日にルクセンブルグで開催された学習障害に関する国際フォーラムで、ルイ王子は10歳で診断された失読症との闘いについて初めて公の場で証言しました。

学習障害について「何が起こっているのか理解できませんでした。私は常に他の人と同じレベルを達成しようとすることを余儀なくされました。それは時間がかかり、あなたを苛立たせます。 あなたはそれをすることはできません。」 王子はまた、彼のストレスの捌け口としてスポーツ、特にラグビーに打ち込んだそうです。 
スウェーデン王室のヴィクトリア王女、イギリス王室のベアトリス王女も失読症に苦しんだ過去を公表しています。


2016年1月のInstagramでは「私たちの子供たちが学校から戻ってくる前に、私たちは街を少しロマンチックに散歩しています❤️❤️🙏🏻🙏🏻🙏🏻皆さんに幸せな週末を。」と夫婦仲は良さそうに見えます。



2016年、テシー妃は国際的な教育活動を専門とするNGOであるProfessors Without Bordersを共同設立し、現在はロジスティクスのディレクターを務めています。また、教育と女性のエンパワーメントにおける企業の社会的責任プロジェクトに焦点を当てたコンサルティングサービスであるFinding ButterfliesConsultingの創設者およびパートナーとして活動しています。

テシー妃にとって最後の出席となった2016年のNational Day Ceremony


2016年9月26日、ルイ王子とテシー妃は結婚10周年を迎えました。
結婚10周年を記念したインタビューに2人で応じ、夫婦関係について語りました。



テシー妃はInstagramでも「はい、それは10年です🌺10年の幸福、挑戦的な時代、新しい思い出、新しい友達と決断。 将来がどうであろうと、過去10年間の決断が私を今日の私にしたので、後悔することはありません。 私たちは素晴らしいチームであり、良い友達であり、ルイは私たちの2人の男の子の素晴らしい父親です。  💫💫💫」と10周年を記念したコメントを公開しました。

素晴らしいチーム、良い友達、素晴らしい父親…夫としてや愛については触れられていません。既に離婚の意思が固まっていたのでしょうか。



2017年1月18日、ルイ大公子とテシー妃の離婚を目的とした別居が発表され、ロンドンで離婚裁判が始まりました。


2017年1月12日(離婚について発表される6日前)に公開された写真



テシー妃は離婚についての発表の後、いくつかのメディアに声明を発表しました。
「12年一緒過ごしたルイと私が離婚するのはとても悲しいことです。 私たちは別れても、常に親として私たちの2人の貴重な男の子の両親であることは変わりません。 これからは別々の人生の道を歩むことになるのは、私たち二人にとって非常に悲しいことです。 このような困難な時期に、私は私たち二人のプライバシー、特に子供たちのプライバシーを尊重することを求めます。 この段階では、これ以上のコメントはありません。」


ここから離婚裁判が始まります。
次回の記事では離婚原因、裁判の結果、離婚後のルイ大公子とテシー妃の近況についてご紹介する予定です。


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