7月26日(日)午後2時より、阿佐ヶ谷聖ペテロ教会を会場

として映画『日本と原発』上映会を開催しました。

DVD再生機
〈先生からお借りしたDVD再生機を使用〉


開催までは、映写機器・スピーカーなどを牧師の田光先生や

信徒の方にお借りした上、当日は多くの信徒の方にお手伝い

いただき、ようやく会場が設営できました。


上映会は田光先生のお祈りで始まり、酷暑の中来場された

教会内外約40名の方は、2時間余にわたって熱心に鑑賞され

ました。

来場者の中には映画公式サイトを見て来場した外国人青年

たちの姿もあり、原発問題の国際的な広がりを感じました。

彼らは日本人の若者の姿が少ないのを不思議に思ったようで、

この辺が現代日本のキリスト教会にとっての課題なのかも

しれません。

また当教会が会場になったことが話題となって聖公会信徒の

方や生協関係の方など幅広い方の来場をいただきました。


映画の内容についての論評は、今原稿を依頼されているので

それが発表になってからブログにも再掲載するつもりです。

上映会準備
〈上映会準備=DVD再生機とスピーカーをつなぐ〉

(2015.8.28)
草苑保育専門学校 2015年7月26日説教(下)

(前回からの続き)

70数年前、第2次世界大戦中の日本ではお寺の鐘、家庭のミシン

や鍋(なべ)釜(かま)まですべての金属を供出させられました。

聖句とは逆に「鋤(すき)を剣(つるぎ)に、鎌(かま)を槍(やり)に

打ち直せ」とばかりに戦車や軍艦や戦闘機を作るため、国民生活

を犠牲にしたのです。しかし軍事力を持つほど平和は遠ざかって

行きました。


日本が戦争に負けて戦後、学校で、新しい教科書が配られました。

『あたらしい憲法のはなし』という題でした。日本の国の新しい

憲法ができて、その中には二度と戦争をしないという約束がある

ということが書いてありました。本の中に戦車や軍艦や戦闘機を

るつぼで溶かして、新しい列車や客船を作るさし絵がありました。

戦争の時とは逆に、これからは人を殺す武器や兵器をなくして、

人を生かし暮らしを支えるものを作りだすのです。それが新しい

日本の約束なのでした。※


これは日本国憲法9条にかかげられた戦争放棄・平和主義

の精神です。


この平和がいま、多くの憲法学者が憲法違反と指摘する

「安全保障法制関連法案」により危機を迎えていることを皆さん

もニュースや新聞でご存知でしょう。多くの人々が心配し、宗教

教団も声明文を政府に提出しています。


軍事力を持てば持つほど、平和は遠ざかります。争いによって平和

は保たれません。平和こそ、私たちにとって欠かすことのできない

ものです。


今年は戦後70年です。皆さんのおじいさんやおばあさんがご健在

でしたら、ぜひ今年の夏に戦時中や戦後の苦しい時代の話を聞いて

ください。きっと命の大切さ、自分が平和な時代に生きていること

の幸せを感じることができるでしょう。(以下略)


※注:この段落は、久世そらち『おはなし道具箱2』AVACO 掲載

   「剣を鋤に、槍を鎌に」より引用しました。

夏の花2

〈夏の花2〉


(2015.8.20)
草苑保育専門学校 2015年7月26日説教(上)

「剣(つるぎ)を鋤(すき)に、槍(やり)を鎌(かま)に」

という題でお話しします。


旧約聖書イザヤ書2章4節には

「剣(つるぎ)を打ち直して鋤(すき)とし、槍(やり)を打ち直して

鎌(かま)とする


と書かれています。この言葉は私たちが「平和とは何か」を考える

ときに大切なことを教えてくれます。


預言者イザヤの時代、紀元前8世紀にイスラエル民族の2つの

王国のうち、北のイスラエル王国がアッシリアに攻め滅ぼされ、

南のユダ王国も戦乱の悲惨に巻き込まれました。そういう時代に

書かれたのがイザヤ書のこの箇所なのです。

「剣(つるぎ)を打ち直して鋤(すき)とし、槍(やり)を打ち直して

鎌(かま)とする」


は戦いの手段を平和の手段に換えなさい、ということです。

ニューヨークの国連本部前にはこの句が書かれたモニュメントが

置かれているそうです。宗教や文化を超えて世界平和の理想を

表す言葉として良く知られています。


私の父が8年前に83歳で亡くなった時に、私は父の出身地

台東区役所へ行って「除籍(じょせき)謄本」という書類をとりまし

た。現在の戸籍が作られる前の古い「戸籍謄本」のことをそう呼ぶ

のです。

私は父方の祖父には会ったことがありません。

1945(昭和20)年の東京大空襲で亡くなったと聞かされていま

したが、戸籍にこう書いてあります。

「推定 昭和20年3月10日午前1時、浅草区菊屋橋警察署管内に

おいて死亡」つまり、空襲で亡くなったことは間違いないが、浅草

区内のどこで亡くなったのかもわからなかったのです。


また、私の父は戸籍では6男ですが、成長できたのは男4人目で

した。上から2番目の伯父は大変優秀だったそうです。その伯父が

「昭和18年1月12日、時刻不明ニューギニア東部方面において戦死」

したことを横須賀海軍人事部長が届けているのです。

そういえば、浅草の本家に行ったときに伯父さんの軍服姿の遺影を

見たことがありました。当時の日本人の家庭で多くのお父さんや

お兄さんが戦争に行き、死んだばかりでなく、多くの民間人も空襲や

原爆投下により体を焼かれ、命を落としました。


そして忘れてはいけないのは、戦時中の日本がアジア諸国の人々に

対し、侵略によって多くの迷惑をかけてきたということです。戦争

被害者であるだけでなく、加害者でもあるということを子孫である

私たちも忘れてはいけません。(続く)

夏の花1
〈夏の花1〉

(2015.8.19)