近年、「狩猟経験ツアー」などが各地で開催されています。

 

たとえばこちらのHPには、「生きるを感じる狩猟体験」と書かれており、「Hunt+の基本理念は野生に息づく“いのち”に触れることでご自身の“いのち”を感じてもらい、それぞれにあった生き方/考え方などへの『気づき』や人生への本質的な『答え』との出会いの場へとお連れすることです―」と書かれています。

 

野生動物を捕殺して食べることで、人間である自分の命などへの気づきや答えを見つけるということでしょうか?そうであれば、なんと身勝手な考えだと思います。

 

自然環境と調和して生きる教育ではなく、野生動物の生活や命を犠牲にして、我々が生きることを学ぶのは限られているのではないでしょうか。

 

たとえば、「動物の犠牲は当然だ」とか「『害』あるなら殺す必要がる」とか動物を殺すことの正当化をし、「人間の命は特別だ」と認識する成人になるなど。

 

実際に、ここのツアーに参加した子どもは「殺すのはかわそうと思ったけど、被害があるから殺さなければいけない」というような内容を語っていましたし、「将来、狩猟者になる」と言っていた男子もいました。

 

脳のキャンバスを描き中の子どもたちに、狩猟体験をさせて殺した動物を食べさせるのと当然、子どもたちはその情報を自分の脳で処理して社会に適応(同調圧よくを含むよくない適応)した考えを持つようになるでしょう。

 

狩猟体験ツアーなどに参加した子どもは、動物殺しを正当化する成人になり、現実と向き合わず、自分で考えようともせず、社会の通説に流され安易な方法の対策(殺したらいい)しか思いつかないおとなになる可能性もあります。

 

このような動物への社会的暴力を子どもたちに見せたり経験させたりする行為は、国際的に虐待であり、国連2030年アジェンダには「あらゆる形態の暴力からの子どもの自由」が掲げられ、国連開発計画(UNDP)は、

 

「子どもに対する社会的暴力」を目撃することは子どもに悪影響を及ぼし、子どもたちの権利に反する」

 

と述べています。

 

「子どもたちは他の知的存在に対して自然に共感的な関心を持っているため、暴力にさらされる子どもに『有害な影響』を引き起こす可能性があることが示されています。これらには、感情的共感の衰退や、成人になっても個人や社会に対して暴力が行使される可能性のある暴力の常態化が含まれる可能性があります」。

 

あらゆる暴力を子どもたちにさらさない、暴力には「伝統的」な闘牛や野生動物の「狩猟」や「駆除」なども含まれています。

 

世界的な動きは、「人類が自然と調和して暮らし、野生動物やその他の生物種が保護される世界を構想」です。

 

ここまで書いて、ある方から連絡があったので、少し書こうと思います。

 

奈良の鹿愛護会で収容されているシカたちへの虐待通報に関することで、わたしは要望書を関係各所に提出しましたが、わたしの要望書の内容が「世界観が広い」とある方から言われました。

 

わたしは「動物の5つの自由」と「環境エンリッチメント」、「動物の5つの領域」に沿った飼育環境改善の要望をしました。

 

動物を飼育するにあたり、国際的基準であるこれらを厳守するのは当然のことですが、それに対して「世界観が広い」とはどういうことでしょうか。

 

目の前のことだけにフォーカスして世界の動きを注視しなくなるのは、社会をよりよくしていくことには繋がらないと思います。

 

知識と情報なくして個々の成長も社会の成長もありません。

 

世界の動きを見ることなく、情報鎖国状態のこの国はクリティカルシンキングも倫理的思考もなく、今後どのような歴史を歩んでいくのでしょうか。

 

子どもへの虐待にしても、動物への虐待にしても、日本は意識が非常に低いです。

 

そのため、いつまでたっても弱者への虐待、暴力なくならず、おとなの都合よいように変換された暴力が強くなってきています。

 

先進的な他の国の動きを知り学ぶことに対して「主語が大きい」とか「世界が広い」と言い出す(的外れな)社会には未来はないと思っています。

 

何が虐待で何が暴力であるか何が差別なのか、おとなはしっかりと人権先進国から学ぶ必要があると思います。

 

子どもはおとなの影響によって無自覚に自分を形成していきます。

 

おとなは子どもの権利を害さない、子どもとのかかわり方をすべきだと強く思います。

 

いつにもまし、まとまりのない記事になりすみません。

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