元気よく散歩に出かけた犬たち。
散歩途中の柚子の木にこのような人間対策がされていました。
育てられている柚子を勝手に取る人がいるのです。
我が家の裏庭の柚子も知らない人が管理者の許可なく勝手に取っていました。
柚子泥棒の男性に「○○さんの柚子ですが、○○さんから取って言いといわれたのですか?」と聞くと「取っていいと言われた」とのことでしたが、後日、柚子を管理している人に聞くと「そんなこと言っていない。どこの人かわかる?(怒)」と言っていました。
物を盗む人が近所にいるのは確かですね。
鹿や猪など、農作物を食べることがありますが、それは生きるための行動で、他者に命を奪われる行動ではありません。
人間の場合、人の物を盗んでも殺されません。
鹿や猪にたいして、「農作物を荒らすのだから(殺すのは)しかたがない」と言う人が非常に多いです。
しかし、その人たちに鹿や猪たちは「殺されることをしているのか?」と問うと、みんな黙り込みます。
人間にしないことをなぜ、他の動物に行うのでしょうか?
思い込みや決めつけ、偏見、種差別などさまざまだと思います。
野生動物にたいして一般的に言われていることを肯定している人の話を聞いていると、わたしは大変気分が悪くなります。
野生動物への悪意に満ちており、冷静な判断のできない状態になるのです。
被差別者に対する「悪口」は絶えることなく、エスカレートします。それが「殺意」に変わるのを数回見てきました。
「憎悪」を抱く人間は野生動物殺しをしやすいようにあれこれと理由づけしています。
野生動物に憎悪を抱く以外に、動物殺しを「楽しい」と感じる人間もいます。動物をなぶり殺す行為に喜びを感じる人間は社会にとっても非常に脅威です。
人間などに「害」をもたらす、「気に食わない」ので殺す(排斥する)という発想を落ち着いて深く考えると、非常に恐ろしい考えであることに気づくと思います。
「害」をもたらす人間、「気に食わない」人間を殺す社会はどのような社会だと思いますか?
そのような社会を健全と思いますか?
わたしは健全だとは思いません。
人間の思い上がりは恐ろしいものだと常々思います。
人間の残酷さは類を見ないものであり、人間のような残酷性を持つ動物は他にはいません(霊長類にも残酷な行動が見られますが、ホモサピエンスの残酷性とは比較にならないです)。
自制心を働かせ、平和的に生きるすべをわたしたち人間は他の動物種から学ばなくてはいけません。
人間の歴史は争い(暴力)の歴史だとわたしは思っています。
この歴史はいつ変わるのでしょうか……。
暴力が蔓延する社会だからこそ暴力反対の声は非常に大事だと思っています。
わたしは鹿たちとの平和共存を真面目に考えています。わたしの考えは「おかしい」と他者から言われても、わたしはわたしの考えを主張していきたいです。
他者にたいして平和的にかかわる認識を基本とする輪を広めたいです。
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