動物倫理の勉強を始めた頃、図書などを読むと普段使わない言葉が多くあったので、言葉の理解ができずに文章内容も理解できないことが多かった。
その中のひとつに「道徳的地位」という言葉があった。
調べると、「道徳的配慮の対象になる」ということだとわかったが、それをなぜ、道徳的地位と言うのか理解できなかった。
使い方は「人間には道徳的地位があるが、人間以外の動物には道徳的地位がない」など。
このような話を友人としていると、友人が道徳的地位について書かれたスタンフォード大学哲学辞典をシェアしてくれた。
★スタンフォード大学哲学辞典
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人間以外の動物への道徳的地位については、今までに多く議論されてきていて、今も続いている。
人間以外の動物への道徳的配慮は必要がない、という理由に、人間は他の動物より持ち具えている能力が優れているとして区別する。
しかし、現在では、人間特有だと思っていた能力の多くは他の種の動物も持ち具えていたり、違った形で使用したりしていることがわかっている。
スタンフォード大学哲学辞典に書かかれている例を上げると、オラウータンの母親は8年から10年子供と一緒にいて、最終的には別れても関係を維持し続ける。チンパンジー、ヒヒ、オオカミ、ゾウ、などのように、あまり独立していない動物は、個人の複雑な関係脳家に成り立っている長い家族単位を長期的にわたって維持している。カラハリ砂漠のミーアキャットは、病気や怪我をした家族に付き添い、自分の安全を犠牲にして。致命的な病気の人がひとりで死なないようにすることで知られている。そして、生涯の絆を育む動物は、パートナーの死に苦しむことで知られている。
各種の動物たちの社会があり、生活をしていくためにさまざまな能力を発揮している。
人間以外の動物の利他的行動をみるたび、わたしは同じようにできるだろうか、と思う。
人間と人間以外の動物との違いを探し、なぜ、そこまでして人間は特別だと言いたいのだろうかと思う。
勉強を始めた頃は、人間以外の動物への道徳的配慮を認めるか、認めないかという議論をされていることにも大変おどろいていた。
なぜ、人間が他種の他者のことを勝手に決めるのか?同じ動物として道徳的配慮の対象になるのは当然のことではないのか?と思っていた。
動物の鳴き声には痛みを表現する声がある。その声にはその状態を変える理由があることを意味している。苦痛を感じる存在には道徳的に相当なものである。
この先、健康で生きることができる動物を苦痛なく殺すことは道徳的か?
継続的な生存のための利益を持っている個々の存在の命を奪うというは、個々がこれから生きて得られる利益すべて奪うことになる。そして、その者と関係している者への心身の負の影響がある。その前に他者の命を奪うことは動物権侵害にあたり道徳的とは言えない。
人間以外の動物の生命に対する権利が道徳的に容認されるなら、それはわたしたちも例外ではない(憲法に人間を殺してはいけないと書いていない。人間は例外をもうけて戦争をしている)。
他者を殺害することや苦痛を与えることはよくないという社会通念だが、例外をもうけるとそれが行えてしまう。
人間以外の動物とどうかかわるか、どう接するかということは、わたしたち人間社会のあり方を考える際にも避けることができないことだ。動物権侵害をしていることで各社会にどのような影響をもたらしているかは、現在起こっていることからわかる(地球温暖化、COID-19、健康被害など)。
他の種を犠牲にしてまで、自分たちの種の利益を追求する行動について考えてほしい。
わたしたちが今、殺している生きものたちは、個々の独自な生を生きる存在だ(だった)。それはわたしたちのそれと全く変わらない。
その者の無二な暮らしをなぜ、わたしたちが奪っていいと言えるのだろうか。
他の種の動物も、わたしたちと同じそれぞれの人生があり、それを他の者に奪われることなく、自分の生を生きるべき存在だ。
スタンフォード大学哲学辞典にこう書かれていた。
「人間以外の動物の利用や虐待の根底にある態度を浅はかで残酷なものと認識することで、徳のある生活を送ろうとする人は態度を変え、動物の食料や研究用の道具として扱うことを拒否するようになったのです」。
個々の存在を奪ったり、苦痛を与えることを残酷なものとして早い段階で認識できる人間もいれば、認識に時間がかかる人間もいると思うし、生涯認識できない人間もいるだろうと思うが、幼少期から人間以外の動物の道徳的配慮を学んでいると、他種動物の扱いなど、思いやりあるものになると思う。
わたしたちが個々に独自の生を暮らしているように、
今、他の種の個々も、この時をそれぞれの生活を送っている。
その個々の生活を壊すことのないようにしたい。
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