今日は頭痛がひどかったので横になっていました。
その後寝ていたようで、ひーちゃんがわたしの様子をうかがいに来てくれたときに目が覚めました。
ひーちゃんはわたしの顔をやさしくペロッとなめてくれ「大丈夫?」と聞いてくれていました。
わたしはひーちゃんに、「うん、大丈夫だよ。ありがとう」と伝えました。
少し寝て頭痛もましになったのでよかったです。
ニュースで保健所に収容された犬のうち、譲渡できない犬の処分は処分の数に含まないという案が出ていると書いてあり、おどろいていていました。
これはいったいどういうことなのか?
以前見学にいった鹿苑にあった「人間と共生できない鹿」という主旨と同じだなと感じました。
譲渡できない犬というのは、人に危害を加える=「人間と共生できない犬」ということで、命を奪われてしまうということで、その命は存在しなかったとするこの案にはどのようなことが背景にあるのか。
犬たちの命を守ろう、助けようとしておおくの人たちが活動をされています。
しかし、このような案が出てきてしまうというのはなぜなのでしょうか。
殺処分0という言葉は犬たちにどのような影響をもたらしているのか。
本来、手厚い保護を必要としている犬たちですが、この言葉で苦しんでいる犬たちがおおく存在しているのは確かです。
殺処分0ということにしたいがため、人間と共生できない犬を処分しても数に含まないという考えなのでしょうか?
目的と行動や現状がかけ離れすぎているのなら、それはなぜなのかを考える必要があると感じます。
殺処分0と言う言葉はいったい何を意味しているのでしょうか。
犬や猫の命を奪わないで生かすというのであれば、生きるというなかに何が含まれているのか。
お水と食、空気があれば生命の維持はしばらく可能でしょうが、わたしたちがいっている「生きる」はこのことを意味しているのでしょうか?
犬たちに自由がなく、恐怖を抱え続けていても、生きているだけ(命あるだけ)でもよいというのであれば、それは真に犬たちのためにはなっておらず、わたしたちは犬に対して配慮に欠け、犬の立場、気持ちにもなれていないということだと思います。
わたしたちの社会では、命ばかりに注目が集まり、犬たちのQOL、福祉について全く議論されていないことが大きな問題であると、わたしは考えています。
確かに、命あってのことです。
だからこそ、わたしたちはQOLや福祉、権利について正しく学び知識を養い(人権、福祉先進国から学び取り入れる)、大事にされるべきである犬たちの尊厳を守っていく認識が必要です。
ひとりひとりが自分で学ぶことにより、気付くことがおおくあると思います。
「人間と共生できない動物」という言葉がなぜ使われているのでしょうか。
人間にとって不利益を与える者は排斥といったことはわたしたちは他者に歩み寄る気持ちもなく、配慮に値しないということなのでしょうか?
犬や他の動物たちに不利益を与えているのはわたしたち人間であるにもかかわらず、犬たち、弱い立場におかれている者たちをわたしたちの勝手で、「ないもの」とする社会は、わたしたち人間の暮らしにも反映しています。
共生できない者とできる者を区別するのではなく、相手を尊重した真の共生をわたしたちは学ぶことが求められていると思います。
犬や他の動物たち、わたしたち人間もみんな(個体)、道徳的配慮に値します。
思いやりの心は等しいことが本来の意味ではないでしょうか?
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