お腹を満たしたので、徒歩で二尊院へ。
前回は前を通り過ぎてしまったけれど、好きなお寺です。天台宗のお寺ですが、かつては天台宗、真言宗、律宗、浄土宗の兼学の道場でした。
九条兼実が描かせたという法然さんの足曳きの御影があります。
また阪妻の墓と長男の田村高廣さんの墓もあります。
本堂の裏に回ると六地蔵が斜面に点在しています。
弁天堂は、弁財天の化身である九頭龍大神、宇賀神を祀る御堂。今年は巳年だから、ここはお参りしないと。
この向かって右の階段から裏山に登ると藤原定家の山荘、時雨亭があった場所なのですが、雪なのでやめておきます。
入口のそばには西行法師の庵の跡があって、ここから少し街の方向へ向かうと前回に立ち寄った西行井戸があるわけですが、少し離れている?
でも弁慶マンションからスーパー行くほどは離れていないかな(爆)。
中院山荘跡。
定家とも親交のあった和歌の名手、蓮生の住んだ中院はこの辺りにあったそうです。
厭離庵
こちらは藤原定家の小倉山山荘の跡とされる場所で、中院の後ろ側にあります。江戸時代に冷泉家が修復しましたが、再び荒廃し、明治になって再度復興されて、山岡鉄舟の娘の素心尼が住職となり、その後尼寺として現在に至っております。この日は門がしまっておりました。
慈眼堂(中院観音)は定家の念持仏であった千手観音を安置している。
この建物は、左側の看板をみると、中院町会議所と看板が掛かっている。御堂兼町会の会議所なのだね。
これ、徐々に清涼寺に向かって歩いているんだけど、
夕ぎり大夫遺跡
なんだろう?と後で調べた。
山城国葛野郡上嵯峨村中院の生まれ(つまりこの辺り)。島原の扇屋の太夫となり、のちに扇屋と共に大坂の新町へと移り、大坂の最初の太夫となった。
姿美しく、芸事に秀でた名技であったが、大坂に移って6年後の27歳で没。亡骸は大坂下寺町の浄国寺に葬られ、墓はこの浄国寺と清涼寺塔頭地蔵院(廃寺)にある。
つまり、ここは元の墓のあった場所。
亡くなった日は夕霧忌として俳句の季語のなっているし、今でも浄国寺では花まつり夕霧太夫行列があり、清涼寺では夕霧供養が行われるのだそうだ。
清涼寺塔頭、嵯峨薬師寺
三地蔵菩薩は、生六道地蔵菩薩の化身、夕霧地蔵菩薩、瑠璃光地蔵菩薩。
おや、生六道ってなにかありそうな名前ですねえ😆。
はい、こちらはその昔、小野篁が地獄から帰る時に使った井戸があったのだそうです。
清涼寺
真言宗のお寺ですが、もともとここには光源氏こと、源融の別荘がありました。光る君とかって呼ぶよりトオル君と呼んだ方が親しみが湧くと思いますがどうでしょう(爆)。
この清涼寺は、豊臣秀頼が家康に命じられて再建した歴史があるのです。
昭和の御代、って行ったって弁慶爺さんはそのころ今であれば成人の歳なんですけれど、大坂城から若い成人の頭蓋骨が発掘されたのです。その頭蓋骨の年齢と、その埋葬の仕方があまりにも丁寧であったことから、これはおそらく秀頼の頭蓋骨で間違いなかろう!ということになり、秀頼が再建に尽力したこの清涼寺に埋葬されました。
それが、この秀頼の首塚です。
が!
諸説あります。って、これ読むとすごい情熱を感じますねえ。
皆さんは情熱、まだ持ってますか?
こちらは摩尼車のある輪蔵。
でね、その摩尼車なんですが、時計周りに回すわけですよ。弁慶はよく伊香保の水澤観音に行ったのですが、あそこは左回り、つまり反時計回りに回すのですよ。
これって、北半球なのか南半球なのかって話じゃないですか!(けして、そういう話ではないのですが、今酔っ払ってますので、ご容赦ください。)
どういうことなのでしょうか。天台宗と真言宗の違い?だれがおせーて。
ね。