まずは浮御堂に行った | 朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶の由来は、朝寝坊して昼過ぎからのこのこと温泉に出かけていく習性に由来しております。

弁慶はなにかといえば、語呂合わせみたいなものです。

興味の幅がありすぎて、まとまりがありません。最近は京都に住んでいます。気持ち的にはです。

祇園祭である。京都人ではなくても、あの風情はなんとなく恋しい。しかし、この時期の京都は暑苦しい。気温も湿度も人の密度も高い。



満月寺は滋賀の堅田の寺院で、あの恵信僧都が湖上の安全運行と人々の安寧を祈って建立した。恵信僧都は横川の僧都のモデルというだけあって、比叡山横川で修行した。横川から山を降れば坂本であり、この堅田も遠くはない。



有名な浮御堂。千仏閣、千体仏堂とも呼ばれるように、堂内に多くの仏像が安置されている。室戸台風により倒壊し、1937年に再建された。



本堂は観音堂で、聖観音が御本尊である。



近くの伊豆神社は、堅田の総鎮守。大山祇命を祭神とする。


この神社を中心にした宮座という自治組織のようなものが形成されていた。



摂社の天満宮と稲荷神社



幸運を呼ぶ石に願うようになったら、弁慶も焼きが回った証拠だね。



本殿裏の楠の大木



臨済宗大徳寺派 祥瑞寺



大徳寺の華叟宗曇が開祖で、一休宗純はひたすら願い、苦心の末ようやく入門を許され弟子になり、この寺で厳しい修行を行ったことで有名な寺。



都久生須麻神社は、伊豆神社の境外摂社



本福寺 浄土真宗本願寺派



境内には蓮如像がある。親鸞は元々は浄土真宗を起こしたつもりはなく、のちの時代になり新興宗教化したのだが、もともとの信者は一時離れてしまっていた。蓮如はその真宗を親鸞の時代に戻そうとし延暦寺に睨まれ、大津やこの堅田で再起を計ったという。


また、この寺は近江一向一揆の中核を担う寺であったようだ。



光徳寺 真宗大谷派



堅田源兵衛父子殉教の像


何があったのかというと、蓮如は比叡山に追われた時に、比叡山と敵対する三井寺に親鸞の木像を預けていたのだが、山科本願寺を建立したので、返還を願った。しかし三井寺の答えは「生首2つと交換」だったのである。これを聞きつけた源兵衛は父の源右衛門に私の首を使ってくれと申し出た。


その意思は固く、源右衛門は泣く泣く息子の首をはね、その首を持参して三井寺に返還を求めた。三井寺から「首が一つしかない」と拒まれると「もう一つはこの首だから、今すぐここではねよ」と答えたところ、恐れをなして親鸞像を返したという。



それはやめておきます。



湖族乃郷資料館


自治組織であった堅田衆の歴史などが展示されている。



神田神社


堅田が下鴨神社の御厨であったので、その下鴨神社を勧進して創建された神社。創建は949年と歴史のある神社であった。


ちょっと道を外れて寄り道ばかりしていたから、このあとで通り雨にあって、しばらく雨宿りする羽目になったよ。


ね。