秩父三十四観音霊場 二十番〜二十二番 | 朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶の由来は、朝寝坊して昼過ぎからのこのこと温泉に出かけていく習性に由来しております。

弁慶はなにかといえば、語呂合わせみたいなものです。

興味の幅がありすぎて、まとまりがありません。最近は京都に住んでいます。気持ち的にはです。

二十番への道標が見つからなかったのでGoogleマップで歩いたからかなり遠回りして2倍は歩いたかもしれない。その距離は公称800メートル。

荒川を渡るのだが、私は車道のある橋を渡った。その下流には歩行者専用の橋があって、この旧秩父橋は「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」というアニメの聖地なんだとか。



そこからこんな道を歩く。



二十番は岩之上だから高いところにあるのかと思ったら一回登って降るのだった。



二十番札所 法王山 岩之上堂 聖観世音菩薩

札所最古の建物で堂内でお詣りできる。



昔、この地の人が実家の母の看病で荒川を渡ろうとしたが大水で舟がなくて困っていると、小舟が現れて渡してくれた。それは観音様が小舟に姿をかえて助けてくれたのだと伝わっている。



内陣には見事な春日厨子の形式による厨子があって、三三身と日天、月天像、風神神像などの像がはられ、札所の中でもすぐれたものと共に貴重なものですと書いてある。



ここも、お遍路姿の2人と一緒。紅葉はまだ始まったばかり。


ここからは分岐で勝手知ったるという感じでカメラを担いだお爺さんがすたすたと歩く方向へとついていったら行き止まりで戻ったり、ワンワンと犬に吠えられたりしながら田舎道を歩き、交通量の多い道路に出ると二十一番がある。その距離900メートル。



二十一番 要光山 観音寺 聖観世音菩薩



御朱印には矢之堂とあるが諸説あって、平将門が戦勝祈願の為に矢を納めたからとか、日本武尊が東征の折、ここに立ち寄り武運長久・東国平定を祈り矢を納めたとか、八幡大菩薩が邪神悪魔退治の際、その放った矢が魔族を射抜いたままここに落ちたからとか、いろいろ言われている。



ここは元八幡宮の社地であったが、行基菩薩の刻んだ聖観世音像を安置して霊場とした。



大正12年の小学校火災で消失し、今の観音堂が作られた。ここでは八幡大菩薩説が書いてある。



宝篋印塔と沢山のお地蔵さん。



俳句を志す人も訪れるというだけあって、芭蕉の句碑もあった。


車道の脇の歩道を歩いて次へと向かうが、1.4キロとちょっとある。



道端の薬師堂。旧二十二番はこの脇を曲がり、山道へと入った先にあったそうで、長尾根みちという名前のついた江戸古道が続いている。

現二十二番へはこのまま車道を進み、逆に荒川側へと降りる感じになる。



まだ車道。今度は大日如来を祀った大日堂。こうした処に目が止まるのが徒歩の楽しみかな。

スピードが遅くなればなるほど豊かになる。だから飛行機は乗らない(高い所が怖いのと、あんな大きな物が空を飛ぶ理論が信じられないだけ。)



少し日が傾いて来た頃、なんだか雰囲気のある仁王門が待っていた。



二十二番札所 華台山 童子堂 聖観世音菩薩



子供の間で天然痘が大流行したとき、山奥の華台山から観世音菩薩を勧進し祈祷したところ、疫病はぴたりと治ったということから童子堂と呼ばれるようになった。



寺の名前は永福寺。ここは永田城の跡らしい。仁王門の仁王様は童子仁王と呼ばれる愛嬌のある仁王尊。



昔、讃岐の欲深い人が旅僧が一食の布施を願ったことを罵り何も与えなかった。するとその人の息子が犬の姿に変わってしまった。悲しんでその犬を連れて諸国の霊場を巡っていると、当山で元の人間に戻ることが出来たと伝わっている。



境内の身代わり地蔵尊と、規模はぜんぜん及ばないが石舞台古墳を思わせるような地蔵塚。

少し寒くなってきたから、途中で脱いでいた上着をここで着た。二十三番は山の上の方らしいし、今日はここまでにして途中で気になった餃子を食べようかと戻ることにした。


これは冒険に近いよな(笑)と立ち止まっていると、例のお遍路姿のペアとすれ違いちょっと恥ずかしかった😅。



水餃子は一人前10個で500円。ご飯は売り切れでなかった。中国人らしい女性が作っている本格的餃子なのかな。本格的餃子は食べた記憶があるようなないような、そんな感じなので判断できませんが、味は普通に美味しかったです。冒険は勧めないけど😅。

実はここから舗装路を秩父駅まで帰るのが、えらく辛かったんだよ。こんなに歩くの久しぶりだったから。

ね。