小野寺(補陀落寺) | 朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶の由来は、朝寝坊して昼過ぎからのこのこと温泉に出かけていく習性に由来しております。

弁慶はなにかといえば、語呂合わせみたいなものです。

興味の幅がありすぎて、まとまりがありません。最近は京都に住んでいます。気持ち的にはです。

GoTo第3段。正確には仕事で泊まったユーカリヶ丘もGoToで予約してしたけれど、所詮会社持ちだから安くなろうが高くなろうが知ったこっちゃない。そう言うのもユーカリだと出張扱いにはならないから宿泊料以外は持ち出し。最近はコロナで外食しなくなったせいか、すごく引っかかる。


 
さて、(ブログの中では漸く)9月になった。例年なら10月の京都は五花街の温習会がそれぞれあって先斗町は水明会が行われる。それに備えて9月はおとなしくしているはずの月であったが、今年は軒並み中止となった。せっかく昨年から観劇デビューしたのに、たいして観ないうちにコロナ禍とはね。
 
自転車を頑張ろうとすると前立腺が悪くなったり、ゴルフを頑張ろうとすると頸椎が悪くなったり、帰り道にスポーツジムに通い始めると高速乗らないとたいへんな遠距離営業所の応援をしばらくしなければいけなくなるとか、この手のつまずきは私の人生において非常に多い。
 
とりあえず行けるうちに行っておかないと、また行けない雰囲気になりそうな気もするので、直前に予約してとりあえず新幹線に乗った。行先はまたまた新幹線の中で考えればいい。
 
そして京都駅から地下鉄で国際会館前まで行って、こそからバスで叡山電鉄の市原駅近くまで行った。
 
 

補陀洛寺
 
通称「小野寺」あるいは「こまちてら」。
 

 

 

 

想像ではもっと静寂のなかにあるのではないかと思ったが、貴船、鞍馬に通ずる幹線道路沿いだった。

 

補陀洛寺は、小野小町が晩年を孤独に過ごし、誰に看取られることもなく亡くなった寺といわれている。本堂には小野小町老衰像が安置されていて写真も撮ることが出来たが、その姿を敢えてブログに晒すのは心が痛む。

 

本堂およびその隣の寺務所らしき建物は共に不在だった。

 

 

 

 

境内の13本に幹が分かれた檜の銘木と、その横の小野皇太后の供養塔。小野皇太后は第70代後冷泉天皇の皇后、藤原歓子の通称である。

 

 

穴目の薄。小野小町の亡骸が朽ち果てて、その髑髏の目の穴からススキが生えたというが、それはこの場所だと石碑には書いてある。

 

吾れ死なば 焼くな埋むな 野にさらせ やせたる犬の 腹こやせ

 

小野小町の辞世の句だという。ただ小野小町にはもう一句、辞世の句とされる句があるので、そちらも併記させてもらう。私的にはこちらのほうが似合っているように思う。

 

あはれなり わが身の果てや 浅緑 つひには野辺の 霞と思へば

 

 

 

小町の姿見の井戸

 

倉敷市の日間山法輪寺の近くにも小野小町が毎日姿を写して見たという「姿見の井戸」が今でも残されている。悪瘡を病み、日間山法輪寺の本尊正観音に願を立て、毎日この井戸を鏡として姿を見たと伝えられているとのことなので、やはり小町の晩年は決して華やかな物ではなかったということであろう。

 

 

 

境内左手の小高い場所にある小野小町供養塔

 

 

 

そこから見下ろせる場所には深草少将の供養塔もある。

 

 

 
そのまま墓地へと向かうと立派な舎利塔があった。この墓地から降りたところにお寺と関係していそうな住宅があったので訪ねて御朱印を頂いた。
 
 
 
本尊阿弥陀如来。
 
御朱印は本堂横の寺務所らしい建物にて書いて頂き、その間に本堂内も参拝させて頂けた。そして本尊の右側に安置されている小野小町老衰像を見たわけである。本尊左側には老僧の遺影と、その横には、まだ私より若いであろう僧侶の遺影と遺骨が安置されていたので、世の無常をより強く感じたのかもしれない。
 
ね。