>気がつくといつも字を書いています。昔から授業中でも会議中でも、ちょっと間が空くと字を書いて遊んでいました。


 真夜中に目が覚めて書きたくなることもあるし、字を書くのがとにかく好きでしょうがない。


 「なぜ、そんなに好きなのか」と言われても、物心ついたときからこうなので自分でも説明できないのです。音楽が好きとか、ダンスが好きというのと同じで、好きなことに理由はないですね。


 故郷の熊本弁で言うと「字を書くことが楽しくて仕方のなか」という感じです。母親は武田双葉(そうよう)という書道家で、今も現役バリバリです。


 3歳から筆を持たされ、母の教室できびしく指導されました。いろいろ決まりごとが多くて、多少の抵抗はありましたが、僕は筆を持って以来、字を書くのが嫌いになったことは一度もないんです。


 小学校では、よく隣の席の女の子のマル文字を真似したり、先生が黒板に書くクセ字をそっくり真似してノートに書いたりしていました。授業中退屈すると漢字でよく遊びましたね。


 その頃のノートは3D(立体)にした漢字やぐにゃぐにゃの漢字、分解されて真横から見た漢字とか、変な漢字でいっぱいです。


 つまり昔から模写や漢字遊びをやっていたわけで先生や女の子の字が「古典」に代わって、真似っこが「臨書」になっただけで、僕自身今もずっと同じことを続けているわけです。


 字が好きな人はいっぱいいます。教室の生徒さんも本当に書くのが好きな人が多い。中には嫌いだったのがじわじわ好きになっていくケースもあります。


 でも、字が好きなだけで書道家になれるわけではないし、なろうと考える人も普通はいないでしょう。ではなぜ僕が書道家になったのかそこから話してみます。


 きっかけは二つあって、まずは母親です。


 大学を卒業してNTTという会社に勤めるようになり、社会に出て初めて母親を客観的に見るようになったんですね。


今まで当たり前に見ていた書道家・武田双葉が、あらためて新鮮に見えました。「すごいことやってるんだな」「かっこいいなー」と。それまで書道を職業として見たことがなかったので、プロとして活躍している母親にすごさを感じたわけです。


 その姿を真似しようというのではなく、それは生き方についてのヒントというか、「こういう生き方もありだ」という独立のきっかけになっていますね。(つづく)





               『双雲流自由書入門 書愉道』    武田双雲   池田書店   

その日本語版がこれです。 http://japanese.joins.com/


 その中でどれでもいいのですが、記事をクリックすると、下のほうに読者のコメント欄があります。これは登録しないとコメントは入れられませんが、見るだけならどなたでも可能です。このコメント欄が傑作なのです。(韓国の新聞ではこのほかに朝鮮日報とか東亜日報という新聞があるのですが、このようなコメント欄はありません)


 それにしても、私が感心してしまうのは、投稿者は8~9割は日本人と思われますが、2ちゃんねる風のきついコメントが続いているにもかかわらず、中央日報サイドではこれは閉鎖する気はないらしいという点です。記事じたいにも読者が指摘するように間違いや思いこみがあり、愛国心あふれる記事になっているのですが、日本人のコメントがわりとクールでデーターをつけて切り返しているのは見事です。(ちょっと汚い言葉も出てますが)


 その昔30年くらい前でしょうか、ネットのような便利なものはなく、韓国や北朝鮮に関するデータは紙媒体かテレビくらいしかありませんでした。韓国の歴史など誰も知らないものだから、韓国に修学旅行にのこのこ出かけた日本人の高校生達が、ギンギンの愛国教育をうけていた韓国の高校生達に「秀吉が~」とか「伊藤博文が~」とか「日帝36年の恨み」とかかんとか吹き込まれて言い返すこともできず、真っ青になったり、しょぼんとしたりしていました。ひとことでいいますと「一方的にやられっぱなし」という有り様で、わけのわからない引け目を背負わされに修学旅行にいった人も多かったのではないでしょうか。


 いろんな良い情報は日本にもあったのですが、知らされてなかったのですね。どうです、今は。集合知というのでしょうか?みんなが読んだ本や資料や実際にあった出来事などをネットでお互いに知ることが出来、なんとなく自信を取り戻してきているようです。若い方が元気に反論していますね。とても嬉しいです。ただ、問題はネットを使えない世代がマスコミの情報を丸飲み、洗脳、ねつ造をまともに受け取っていることでしょうか。


 日本の新聞でも是非このような公開された読者のコメント欄が欲しいものです。そうすれば日本人としてたまにはコメントして差し上げたいし、私以外にも差し上げたい方も多いのではないかと思うのですが、大手新聞には残念ながらこの機能はありません。読者の発言欄というものが新聞紙上にありますが、リアルタイムで新聞社の悪口(失礼)や記事に対する批評はありません。ご意見はメールでとありますので尖閣の問題でメールしてみましたが、回答はいただけませんでした。新聞はこのままでは、部数が坂道をころがるように落ちていくことでしょう。

 >いよいよ西郷が帰ってくると、江戸城の明け渡しをせねばならぬが、それに先立って、旧幕府の外交事務の整理をせねばならなかった。


 それには、どうしてもパークスをたずねなければならない。


 彼は、翌日、再び上陸して、ひょっこりとパークスをたずねた。


 パークスは、居合わせたが、勝をばかにしていて、会おうとしない。


 前にも会見しているのだが、今や、彼は敗余の将とあって、パークスのほうで相手にしなかった。


 通弁のツループが、気の毒そうに玄関へ出てきた。


 『公使は江戸政府の閣老でないと、お目にかからぬといっておりますが、どういうご用件で』


 『むろん、国事についてである』


 ツループが引っ込んで、また出てくる。


 『公使は申しました。あなたは軍艦奉行である。国事について談判する資格はないとおっしゃいました』


 『それは、公使の誤解である。今日は、江戸政府は、瓦解して閣老はおりませぬ。不肖拙者が一切のことを引き受けている。よって今までは、一軍艦奉行にすぎなかったが、今日では閣老も同然、国事を談判する資格は十分にある。このことはあらかじめご通告を申し上ぐるとよろしかったかもしれぬが、政権はすでに江戸から京都に移ったのちであるのでなんとも申し上げなかったが、ぜひお目にかかりたい。』


 『そうですか』


 また、通弁が退く。やがてのこと、出てきての挨拶。


 『公使は、会わんとおっしゃっております』


 『旧幕府の事務の引きつぎをしなくてもよろしいのですか』


 『そんなことは知らんと言っています』


 『これは驚き入った。会わぬとおっしゃるなら、会うまで待ちましょう』


 こう捻じ込んだ。普通のものならここで怒気心頭に発するところだろうが、さすがは海舟、顔色にも出さなかった。


 『待つのは、あなたのご随意だが、公使はああいう人ですから、食事は出ませんよ』


 『飯は喰わんでもいい。日本のサムライは、腹がへっても、我慢する習慣を養っている。ほっておいていい。会わぬうちは帰らぬのだ』


 『ほう』


 ツループがびっくりして、姿をかくした。海舟は、応接間にただ一人取りのこされたまま、じっと動かなかった。だが、彼も感慨無量だったに相違ない。勢いが衰えるというものは、いかにも残念。あのパークスめ、昨日までは徳川幕府の軍艦奉行じゃとあって、対等の位置で応接したものが、今になって、この冷遇は、あまり現金すぎる。よし、その分なら、たとい二日でも三日でも、ここを動かぬぞ、えらい意気込みだった。


 待つこと、ほとんど一日。


 剛腹のパークスもとうとう我を折ったとみえ、ツループがまた顔を出した。


 『勝さん、まだですか』


 『会うまでは帰らぬ』


 『そうですか。公使はあなたにお目にかかると言っております』


 『そうでしょう。会うのが当然だ』


 そこへ、パークスがむつかしい顔をして出てきた。どかと椅子に腰を下ろすと、勝とあい対した。


 『勝さん、用事は』


 至極、ぶっきらぼうだ。


 『いや、今日、お伺いしたのは、ほかでもござらぬ。いよいよ政権は、江戸から京都へ移ることになり、江戸城も近く官軍へ引き渡すことになり、日本はここにおいて、まったく一定されることになります。ついては、自分は、徳川政府を代表して、貴官に申し上げるが、先般来、海軍教師として貴国人雇い入れの約束がございました。しかるに右様のありさまで、徳川政府においては、もはやその必要はない。京都政府が引きつづき雇い入れの約束をいたすかどうか、これは自分の関係するところでない。ゆえに雇い入れてある貴国人は、ひとまず帰国していただくよりほかはない。給料はすでにお渡ししてあるが、なお雑費等もお渡し申すつもりである』


 まずお雇い教師問題から始めて、灯台建設のこと、耶蘇教徒の始末のこと、かれこれと逐一、明確に事務を引きついだ。


 パークスは黙々として聞いていたが、たまりかねたとみえ、


 『いや、すべて承知しました。 ・・・・して、あなたは、これからどこへゆきますか』


 『各国公使を歴訪して、いちいち、この旨を通告する考えでいる』


 『それなら、私から伝えます。あなたはたいそう疲れている。ゆっくりお休みなさい』


 こんどは、たいへん親切になる。


 『定めし、空腹であろうから、一緒に晩餐を食べなさい』 


 夕飯の仕度し、その場へ英国軍艦アイオンジューク号の艦長キッフルをよびよせて、ともに卓をかこむという

待遇(もてなし)かた。


 それから、三人のあいだに話がはずんだ。


 『あなたが官軍と約束をして、江戸城を渡すというが、もし朝廷において、あなたがたの嘆願をお聴き入れがなかったら、どうするつもりか』とパークスが突っ込んだ。


 『それは、西郷参謀が、一身に引き受けて承知してまいった、そういうことは断じてない』


 『しかし、朝廷には、西郷参謀のような好意をよせる者ばかりはおらぬ。万が一、談判が破裂した暁歯どうなさる』


 『死を賭して戦います』


 『将軍は、そのとき、どうなるか』


 『さて』


 そこまでは、海舟は考えておらなかった。


 『拙者としては、そうなったら、君公は外にお移し申す覚悟、して、どこまでも、お身柄をお助けせねばならぬと思っている』


 『それなら、勝さん、将軍は倫敦へ送りなさい。私が引き受けます。ここにいるキッフル君に頼みます。もし戦争が起こりそうであったなら、こっそりと将軍を軍艦にのせ、外国へつれ出してしまえば、将軍は、なにも戦争に関係しないことになる。朝廷に対して、はじめから恭順しているという申し開きがたつ。将軍は本国内におれば、どこにいても、戦争には関係ないということはいえますまい』


 勝はよろこんだ。


 『それは、ありがたい。あなたが、そこまで張り込んでくだされば、実にお礼の申し上げようがない。同会座と言うときは、お願い申し上げます』


 『よろしい。私の国の軍艦は、これから1ヶ月横浜に滞在していて、ようすを見ることにいたします』


 艦長のキッフルも承知した。


 最初は、冷遇したパークスが、勝の心情を察して、たちまち無二の味方となる。そこで万々一、事起こらんか、慶喜を倫敦へ脱走せしむる密計が、三人のあいだになりたったのだ。<



             幕末三舟伝  頭山満  国書刊行会 P253~258




 


 >入社は一九六二(昭和三十七)年。金融証券事業部という株券など有価証券の印刷の営業を担当する部署に配属されました。以来、四十代後半になるまで商業印刷の営業一筋。支えになったのは入社してすぐ、課長に言われた一言でした。


 その上司が言うには「印刷のことは覚えなくていい。担当した業界のことを学べ」と。印刷会社に入ったのだから印刷のことは知っていて当たり前。それよりもお客さまのことをよく勉強し、一生懸命大切にすればその人脈が将来の宝物になるし、学んで得た知識が財産になる、というわけです。まさにその通りでした。その先輩には今でも感謝しています。<


  日本経済新聞 H22.9.24 凸版印刷社長  足立直樹


  >劉邦はよく「こどもは乳をのみ、おとなは酒をのむ。どちらも人間を大きくするためものだ。」と、いった。この時代の酒は乳色を帯びていて,酒精分もすくなく、馬が水を飲むほどに飲まねば酔わなかった。


 沛の町の飲屋では、王媼(おうばあ)さんの店と武媼(ぶばあ)さんの店がひいきであった。たいていは嚢中一銭もなしにぬっと入り、したたかに酔い、支払う意思もなかった。この時代、旗亭(さかや)はたいてい年末払いだったが、劉邦は口だけでも払うとは言わなかった。


 いやな奴が来やがった。


 と、最初は王媼も武媼も思ったが、やがては妙に採算が合うことを知った。劉邦が店に来ると、町中の劉邦好きの男や与太者たちにつうたわり、かれらが互いに仲間を誘いながらやってくるため、たちまち店は客で満ちた。劉邦が呼ぶわけではなく、かれらが劉邦を慕い、劉邦の下座(しもざ)にいて飲むことをよろこぶためであった。


 劉邦は文盲ではなかったが、それに近い。


 無学なために、何か教えを垂れるなどということはしない。とくに諸方の地理人情に明るいわけでなく、またとくに商売のたねになるような商品市況の情報を教えるわけでなく、さらには、座談がうまいわけではない。


 ただ劉邦は莚(むしろ)の上にすわっているだけである。大きな椀に米の磨(と)ぎ汁(じる)のような色をした醸造酒を満たし、ときどきそれを両手でかかえては、飲む。


 ひとびとはそういう劉邦のそばに居るだけでいいらしい。みな一杯ずつ酒を酤(か)っては座にもどり、互いに好きなことを話し、酒が尽きると、また酤う。劉邦はただそれらを眺めている。彼等にすれば、劉邦に見られているというだけで楽しく、酒の席が充実し、くだらない話にも熱中でき、なにかの用があって劉邦がどこかへ行ってしまったりすると急に店が冷え、ひとびとも面白くなくなり、散ってしまう。


 劉邦がもどってくると、ひとびとは、


 「よう」


 と、歓声をあげながらかれを擁してもとの上座につかせ、一同は退(さが)ってまた飲んだ。劉邦は行儀がわるく、すこし酔えば横に長くなって肘枕(ひじまくら)をし、ときどき癇癪(かんしゃく)をおこすと、その男を口汚くののしった。類がないほどに、言葉遣いが汚なかったが、そのくせ一種愛嬌のある物言いで、罵(ののし)られた者も多くの場合傷つかず、一座もげらげら笑い崩れてしまうというぐあいで、劉邦の芸といえばあるいは唯一の芸であったかもしれない。<




         『項羽と劉邦』 (上) 司馬遼太郎  新潮社 P68~69


 

 >近年国語教育の中での音読の効用が盛んに叫ばれるようになった。音読に関する本が多くの人に読まれ、文部科学省も学校教育における音読重視の方針を打ち出している。もとより、音読が大切なのは母国語だけではない。外国語を習得するにあたっても声に出して読むことの重要性は、あらためて説明する必要もあるまい。そもそも音読が長い間教育現場でなおざりにされていたこと自体に問題がある気がするが、何にしても音読の「復権」は歓迎すべきことであると思う。


 そして音読と同様に、いやそれ以上に現代人に忘れさられた行為がここに存在する。それは「筆写」である。先人の書いた文章を写すという行為は、洋の東西を問わず昔から行なわれてきた。日本で一例を挙げるとすれば、経典を書き写すこと、すなわち写経などがその代表格となろうか。古い時代の写経には貴重な経典の副本を作っておくという目的があった。それとともに尊いお経を一字一字心を込めて写すことは、仏門に入った人々にとっては修行の一つと位置づけられたのである。


 印刷技術やコピー機が発達した今日、複製を作るための筆写の必要性はほとんどなくなったと言える。正確に原本の内容を伝える点において人間の力がコピー機に劣るのは自明のことだ。しかし、筆写の重要性はいまだ残っていると思う。それは「名文書き写すことで、その理解が深まり自分の文章力も高まる」ということである。 <


   『書き写したい言葉 漱石の巻』  川島幸希 新潮社 P9-10



 ネット時代となり、PC上でブログや新聞の記事やYOUTUBEで動画まで再生できる便利な時代となった。しかしながら、あまりに情報量の多さに日々消化不良を起こしていたような気がする。読みたいブログは結構あるし、コメント欄まで含めるとかなりの量になる。気は焦るし、漢字は忘れるしどうしたものかと思っていたころにこの本に出会った。

 

 「いまさら筆写ね~」と思ったものの実際に始めてみると面白いのだ。題材はこだわらないことにした。本であろうと新聞の投稿欄であろうといいとする。道具もどこでも手に入るようなものとした。そうしないと長続きしないからだ。大学ノートに水性ボールペン。始めたころは走り書きのような感じで字も乱雑だったが、丁寧に書くように心掛けていると、「字を書くのも楽しみ」になってきた。




 >今から三十年も前の話ですが、通産省に偉い人がいて、アメリカの田舎に日本のPRをしなければいけないと考えて、地方新聞の記者を三十人ぐらいまとまって招待したことがある。ワシントンの声とニューヨークの声の他に田舎の声があるという着眼点はよかった。いまこそやるべきことですが。


 そのアメリカの記者たちと私が一問一答の質疑をしました。質問は、日本中誰に聞いても原爆を持つ気などないと言うから、かえって怪しい。「本当にそうなんだ」と言っても、信じられないという。


最後に、若い新聞記者が立ち上がって、「そんなに日本が平和一点張りで軍事協力する気がないのなら、もうアメリカは日本を同盟国とは思わない。日本を見捨てて、全部引き揚げて帰る。それでもいいのか」 と言った。  私はこう答えた。
 

 「そんな剣幕で言われるとは思いませんでした。 日本人がどうするかはそのときになって考えることでありますが、 私の予想を言えば、いまのあなたが言ったような、そんな態度であなた方が引き揚げていったなら、私たちの顔つきが変わります、目が覚めます」

 「どうなるんですか?」と聞くから、

 「その顔は私が子どものときによく見た顔です。 神風特攻隊の顔です。あなた方も写真で見たでしょう。 日本人がみんなあの顔になってやれば途方もないことをやるんですよ」(笑) と言うと、会場全体がしーんとしてしまった。


 「日本人は共存共栄の世界を求めているのであって、そんなふうに言われたら、その覚悟でやります」つまり、「アメリカの出方次第です」と、アメリカ原因説を言った。向こうは、日本原因説にしたいのです。<

  

  『アメリカ、中国、そして日本経済はこうなる』 日下公人 VS 三橋貴明 ワック(株) P180~182

 

 

 これは日下公人さんが米国の記者に対して言った言葉である


 さて、現在尖閣諸島の件で日中がガタガタしている。これは民主党の代表選のどさくさにまぎれてシナの漁船が海上保安庁の巡視艇に体当たりした。NHKなどは単なる衝突事件のようにアナウンサーが報道しているがとんでもないことである。これはね、中国サイドに民主党政権が試されたんだと思っています。こけにされこけにされ、恫喝されて、ああ~いちばんやっちゃ~いけないこと仙石さんが船長の釈放をしちゃった。さ~あ 日本人が久しぶりに怒った。どうなるかは、毎日、ネットや新聞やTVで確認しなくちゃならないが、日下さんのいってるようにならないともかぎらないのだ。そこいらで、へらへらしている「おのこども」がどのように変身するかまあ見ていなさい。

 

 マスコミは報道しないが、永田町の議員会館前などは抗議する人がかなり出ているようだ。マスコミの発表だけ見たり読んだりしているだけでは本当のことは分からない。おとなしい「あさごはん」だって怒っているんだぞ~。酒ばっかり飲んだり、平原綾香のCDや越路吹雪のCDや井上陽水の曲を聴いてよろこんでいるだけじゃないんだぞ!!


「特攻隊の顔」というのを日下公人さんは別の本でチャーチルの後悔という形で書いておられる。こちらのほうが少し分かりやすいかもしれない。


 

 >日本の自立的変化に対し、「日本は再び軍国主義へ向かうのか」と何とかの一つ覚えのような質問をしてくる外国人記者がいる。そんなとき、私はこう答えるようにしている。


 「それは、あなたがた次第です。日本は、相手が紳士的に振る舞う国であれば紳士的に付き合う。もしも野蛮で、理不尽なことを積み重ねてくるようなら、こちらもそれに応じて変化する。日本の軍国主義化を心配するのは、あなたがたが日本に対して理不尽なことをしているという自覚があるからではないのですか」


 日本には力がある。日本は、訪れる国難のレベルに応じて自らを決することができる力、ポテンシャリティ(潜在能力)を持った国である。しかし、その力を活かす外交技術においては歴史に学ぶ必要がある。


 たとえば1941年(昭和16年)十二月十日、イギリスが戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスをマレー沖で日本海軍航空隊の雷爆攻撃によって失ったとき、時の首相チャーチルは、「日本人は不思議な国民である。交渉ということを知らないらしい。交渉の最初はどこの国でも少しは掛け値を言うものだが、日本人は反論せずに、微笑をもってそれを呑んでくれる。しかし、そこでもう少し要求をエスカレートさせてみると、また微笑をもって呑んでくれる。しかし、それを続ければ、あるとき突然顔を上げると、その人は別人になって、刺し違えて死ぬとばかりに攻撃してくる」という述懐を残している。


 チャーチルが言いたかったことは、“そんなに苦しいのなら、思いつめる前に言ってくれればよかった。そうすれば、イギリスだって戦艦とシンガポールを失わずに済んだ”という後悔である。国家と国家が親善と戦争の間を「交渉」によって行きつ戻りつするのは、政治家にとってはゲームのような楽しみなのに、日本人には両極端しかないのか、という驚きの念がそこには感じられる。


 堪忍袋の緒を切った大東亜戦争から半世紀以上が経ったが、日本人には相変わらず「親善か、戦争か」「友好か、摩擦か」の両極端の心理状態しかないのかもしれない。それでも戦前の日本人は独立の尊さを知っていたが、戦後は独立の尊さを自覚できないまま、孤立を恐れて、常に親善、友好といった姿勢しか選択できないでいる。アメリカに対しても、中国に対しても、韓国・北朝鮮に対しても長くそうだったわけだが、これからの日本は、時により、場合に応じて、“適当な距離を保つ”という感覚とそのための技術を備えるべきである。<
 


   『アメリカに頼らなくても大丈夫な日本へ』 日下公人 PHP (2006年12月刊)  P23~25




  >私は統計的品質管理をアメリカから学び、手法そのものには大いに得るところがあって素晴らしい方法だと思っていた。だが、アメリカの品質管理をそのまま日本に持ってくるのはふさわしくない。日本の実情に合ってないと思った。日本には日本のやり方がある、日本人が古来からもっている品質に対する潔癖感、恥と誇りの精神、帰属意識などを大事にした品質管理を進めていきたいと思ったのだった。


 というのも、私が学生の頃の話であるが、テーラーシステムと村の娘さんたちとのやり方を比較する機会があり、合理的といわれるテーラーシステムに疑いの念をもつようになっていたからでもあった。それは兄が経営していた織物工場で、前からいる人たちに比べて村からやってきた何も知らない娘さんたちの方が、自分たち流のやり方でやった結果、速く、しかも品質のよい品物を織るようになったことを知っていたからである。


 兄は第一次世界大戦の後、欧米諸国に渡りGEやフォードなど多くの企業を見て歩き、そこで採用されていたテーラーシステムを学び、その信奉者になって帰って来た。そしてその近代的科学的経営システムを自分の家の商売に取り入れようとし、昔ながらの「出機(でばた)システム」をとる父と対立していた。何かというと、能率、能率と、やかましくいう兄昔ながらの義理とか人情に重きをおく父とは相容れなかったようである。とうとう兄は、兵庫県の石生(いそう)というところで自分流のやり方による、近代的織物工場を始めた。


 忘れもしない1927年(昭和2年)の3月、丹後で大地震が起こり、私は父のいいつけで、慰問金の詰まったリュックサックを背負い、私の家のちりめんを織ってくれている娘さんたちの村々を慰問に回った。丹後の地震というのは、峰山を中心に広範囲にわたって起こり、死者三千人、負傷者三千七百人、被害家屋三万七百戸という膨大な被害を出した大地震であった。


 京都からトラックに同乗させてもらって宮津まで行き、そこから山越えをしてようやく被災地の村に入った。出機を頼んでいた家々を訪ねると娘さんたちは着の身着のままで、臨時につくられた小屋に避難していた。ところがあの非常事態に、自分の身体と同様に機(はた)と自分が織ったちりめんを大事に避難させていたのである。私はそれを見て感動した。彼女たちがいかに仕事を愛し、いかに機を愛しているかを知ったからである。

 

 最後に訪ねた峰山の町は、今まで訪ねたなかでもいちばんひどく罹災し、町全体が焦土と化して、まだ焼けぼっくいがその辺でくすぶっているような悲惨な状態だった。


 私の家の差配をしてくれている町長さんが娘さんたちを集めてくれたので、私は持ってきた見舞金を渡しながら、私たちに何をしてもらいたいかを尋ねてみた。すると、彼女たちは一様に「仕事がしたい」という。「仕事なら復興の仕事がいっぱいあるでしょう」という私に彼女たちは「ちりめんを織りたい」「新しい機(はた)を入れてもらって、今すぐにでもちりめんを織りたい」といってきかない。「住む家さえないのにどうしてちりめんが織れるんだろうか」と思いながらも、その懇願を無視するわけにはいかず、私は彼女たちを石生(いそう)の兄の工場に連れていくことを思いついた。


 兄の工場では人手が十分に足りていた。「そんな自動織機など扱ったこともない人たちを連れてきたら能率が落ちるからだめだ」と兄は猛反対したが、「そこを何とか、頼む、頼む、非常事態なんだから」と拝み倒し、しぶしぶ承知してもらって娘さんたちを石生に連れて行った。


 兄は最初、『娘さんたちには、準備工程か荷造りでもやらせよう」と考えていたらしいが、「どうしても織りたい」という娘さんたちの熱意に負け、仕方なく織らせることにした。といっても機械を増やすわけにはいかないので、前からいた人たちの組と新しくきた人たちの組とに工場を二つに分けて、昼夜二交代制で織らせることにしたのだった。


 そうしたところが、娘さんたちは一週間で自動織機の使い方を完全にマスターしてしまった。「今までどおりの生産量を期待するのは無理だろうな。まあ、半年間は震災に遭ったとでも思ってあきらめることにしよう。技術をマスターするのに半年、いや、一年かかるかもしれない」と思っていた兄は、この事実にびっくりしてしまった。


 しかし、「自動織機は扱えるようになっても、そのうちに織りむらや織り段がたくさん出てくるに違いない。操作の難しい手織機からやさしい自動織機に変ったから簡単に動かせられたんだろうが、そう簡単にいいものが織れるものか」と、内心思っていたようである。


 ところが、ひと月ばかりたって集計してみたら、何と新米さんたちの方が不良品が少ないのである。「生産量では古い者にかなわないだろう」とそれでもまだ兄はタカをくくっていたが、またしばらくたって生産量の集計をしてみたら生産量についても新米さんたちの方が多いという結果が出てきた。これにはさすがの兄も言葉がなかった。


 そこで、さっそく、原因の追跡調査をすることになり、ちょうど夏休みだった私もそのメンバーに加わった。原因はすぐに分かった。それは娘さんたちの「一体感」からきていた。「同じ村の、同じ境遇の者同士だから助け合わなければ」という一体感が、大きく作用していたのある


 彼女たちは「前からいる人たちに負けないように、早く織れるようになりたい」という気持ちから、仲間のなかにひとりだけいた、以前自動織機を扱ったことのある人を先生にして、寄宿舎で毎日空いた時間に織り技術の研究をしていたのだった。また仕事中は、その先生はみんなの間をまわってできない人たちに教えてやっていた。この彼女たちの自主的な学習が、自動織機を早く習得させた最も大きな原因になっていたのである。


 なぜ不良品が少なかったかについても同様のことがいえた。誰が教えたわけでもないのに彼女たちは彼女たちなりに、自分流の「品質管理」をしていたのである。

 

 それはたとえば、ラインのなかの検査係が不良品を見つけると、織っている人のところへ飛んで行って注意を促すことに見られる。「あんた、こんなところに織り段があるよ。前の人との引き継ぎが悪いんと違う」という具合にである。


 これに対し、古くからいる人たちは、糸を繰(く)る人は繰るだけ、織る人は織るだけ、検査の人は検査をするだけというように責任の分担がはっきり決まっているから、自分の仕事さえ果たしていけば文句をいわれることはないと思っている。だから、検査係が織りむらを見つけても、即座になくそうとはしないで織り手に「織りむらがあるよ」ということがそんなに難しいわけでもないのに、システムがそうなっているからと、まず係長に言う、係長は課長に言い、課長から織り手の元へ苦情が戻ってくるころにはもう相当の時間がたっており、織り手は忘れてしまっている頃である。そして悪いことには、クレームは戻されるが良く仕上がったものについてまるで反応がないのである。


 生産の喜びというものは、人から喜ばれて初めて味わえるものなのだから、これでは惰性で働くことになっても仕方のないことである。


  なぜ、新しい人たちの方が古い人たちに比べて生産量が多かったかについても、分業の逆効果が現われていた。「能率とは生産量と稼働時間で割ったもの」という生産性の理屈は知らなくても、新米さんたちは「要するに機械を遊ばせないようにすればいいんでしょう」という具合に機械の止まっている時間を極力短くするようにしていたのである。だから、機械が止まらないように止まらないように気をつけ、また止ったとしても修理工のところへ

飛んでいって、一刻も早く修理に来てくれるように頼む。そして直ったときには「ありがとう、ありがとう」と感謝する。感謝をされてうれしく思わない者はいないので、修理工の方もどうかすると新米さんたちのほうに多く協力することになる。その結果、機械も順調に動き、生産量も上がっていたというわけであった。


 では、古い人たちの方はどうかというと、普段から責任分担、責任分担と、厳しくいわれているから、機械が故障してもそれは自分の責任ではないと思ってしまう。「どうぞ、ゆっくり直してちょうだい。そのあいだにゆっくり休めていいわ」ということになる。これでは修理工が早く直す気にならないのも当然である。糸の供給にしても同じようなことがいえた。


 私はここで、古い人たちの仕事ぶりを批判するつもりはない。兄がそういうシステムを取っていたのであって、また、彼女たちはそれに忠実に従ったまでの事だから、古手の人たちの働きぶりをとやかくいうのは間違っているということは知っている。けれども、このように新米さんと古手の人たちの仕事があのような数字になって表われているきてみると、両舎の仕事に対する姿勢の違いをはっきりと指摘することができるのである。


 では何がこの違いを生んだのかと考えてみるに私にはテーラーシステムという「システム」の弊害しか思い浮かばないのだ。どちらの娘さんたちも農家の純朴な娘さんたちである以上、育った環境が彼女たちの労働観を形成したとはとうてい思えないからである。もしそうであれば両者の間にその違いなど出てくるはずはないのだから。


 兄が心酔しているテーラーシステムは果たして本当にいいのだろうか、日本の風土にふさわしいのだろうかとそのときから私は考えるようになったのである。<


   『ものづくり道』 西堀栄三郎 ワック P246~252

 

 

  この西堀さんの文章はボリュームがあるから書き写すのは大変だったが、昔から気に入っている文なのでどうしても紹介したかった。西堀栄三郎(1903~1989) さんは北丹後地震(1927)の時は24歳だった。それでも、文章が新鮮でちっとも古さを感じさせない。なんといったらいいか、注がれている眼差しが暖かいのだ。


  品質管理という言葉は外国から入ってきたのだが、上の例でみると村の娘さんたちが自分たち流に気働きして、システムに負けていないというところが実に面白い。現代でもシステムが悪く、そこで働いている人のやる気を削いでいる例はくさるほどあるであろう。


 修得に1年はかかると思っていた自動織機をたった1週間でマスター。以前自動織機を扱ったことのある人を先生にして空いた時間は自主的に研究。仕事中はその先生が現場を見回り出来ない人にアドバイス。声かけあって不良品撲滅、機械が止まらないよう不良品を見つけると「飛んでいって」すぐ直す、あるいは機械が故障したらしたで修理工のところへ「飛んで行って」早く直してくれるよう「懇願」し、直してくれたら「ありがとう、ありがとう」の連発。特に上司のような者はいないのだから、部活のような(失礼)ものかな、それにしても人の使い方がうまいな。


 おいおい、これってトヨタのカイゼンに似ているではないか。彼女たちは何にも教えられずに、だた必死でやっているのだろうが、こちらは涙が出そうになって困ったよ。

 

 

  

 







 >父は祖父を模範とし、よくこう言っていた。


 「本人が自ら進んで勉学に励まない限り、どんな大金を投じてもその人を教育することはできない。だが、お金によってできる教育が一つだけある。それは旅行である」


 その一例が叔父であった。外国に留学していた四年間の生活費は、祖父が負担していた。<



   『MADE IN JAPAN』 盛田昭夫 朝日新聞社 P21


 

 山下達郎の歌をYOUTUBEで探しているときだった。あれは検索するといくつかの候補が出る。「クリスマスイブ」で検索していたらJR東海のCMが出てきた。そういえばと思いクリックしてみた。243万回見たやつがいるのか、結構人気あるな。


 JR東海 X'mas Express 歴代CM 1988年~1992年

 http://www.youtube.com/watch?v=ZGu7SGxNWyo


 するとどうであろう。おめかしした若い女性が駅に遠距離恋愛の彼を迎えにいくという設定なのだが、涙が出てくるのだ。何故だ。(あんな設定はわたくしの人生にはないのだが) 山下達郎の声と歌詞もいい。


 第1作の深津絵里。乗っているはずの新幹線はもう出てしまった。アイツは乗り遅れたのかしら。心配していたらアイツはムーンウォークでおどける。「バカ」 そこにいたの。もう、心配させて。

 

 このCMを創ったやつがうまいのだろう。にくいやつだ。


 「待つ身がつらいかね 待たせる身がつらいかね」といった太宰治の言葉も頭をよぎる。