レシートをノートに貼ることにした。といっても個人の使用分だからたいしたことはない。

去年の暮から始めたのだが、もっと早くからやっておけばよかったと思っている。


 脳の奥底で水漏れが止まったようなイメージがあるのだ。


 小遣いノートではなくレシートを貼るだけで加工しない。

あんまり凝ると長続きしないからだ。ノートには下から貼っていく。

過激な政治ものばかりでなく「ほのぼの」都々逸もござりますw コメントも含め (オールあさごはん作)

1月12日 散り際の 線香花火を 彷彿と やけにはしゃぐが 皆しらけおり


1月18日 除雪費を ケチったミンス 恨まれる


1月27日 国会で 虚しく啼くや 菅枯鳥


1月28日 久方の 光のどけき 菅の日に 国会答弁 菅の散るらん


2月1日 粋なお呼びに ついほだされて 今日も都々逸 うなってる


2月2日 飛び火する 民の怒りに シナぶるる


2月2日 画面ばっかり見るんじゃなくてぇ~ すこしはあたいの方見てよ

      (地下鉄で見かけたカップル 男はゲームに夢中、女は退屈そうであった)

2月3日 ママの肩越し 目と目が合った おどけてみたら 見つめられ

     

     電車で座っていてふと目を上げた時、カワイイ赤ちゃんがこっちを見ていたw
     赤ちゃんはいきなり吹き出したりしません。

     誰だろうこのおっちゃんはという感じで不思議そうに見ています。

my日本という4万人くらいの規模のSNSに昨年入りまして、居心地がいいので、そこで政治川柳、都々逸を投稿しています。アメブロが少しお留守になっておりますm( )m


今年はなんとか ノートPC 仕込んで投稿 マメにやる (あさごはん)

  筆写しようかなと思って水性ボールペンと本とノートを持ってコタツに入った。頭寒足熱これは古来いわれておる。しかし気持ちが良くなって眠ってしまうのが欠点である。それと筆写していて気がついたのだが、何故コタツでは長続きしないか、そのひとつには高さがあるのではあるまいか。普通いわゆる椅子に座って机で書き物なんかしますね。筆記用具を握って見て下さい。肘の角度が90度近くになっています。ところがコタツだと高さが高すぎるせいか肘の角度が扇型になってしまいます。そこでこれじゃいかんと座蒲団を二枚ぐらい重ねて座ってみると丁度いい高さとなる。コタツは誘惑が多い。珈琲やお茶はいいとしよう、ミカンを食べたり、音楽を聴いたり、テレビを見たり、台所がちかいものだからお菓子を齧ったり、そして足が温まり頭もボワーンとして眠たくなる。


「寒いけど さらばコタツよ 筆写人(ひっしゃびと)」(あさごはん)

    

筆写の道は楽ではないのだw でももしかしたら、要するに暖房の問題なのかもw 机のあるところはちっぽけなストーブがあるだけなのだ。

>第二の点は、恐怖心をもたぬということである。『幸福論』(草間平作訳)ヒルティ


 ふるい習慣を捨てて新しく良い習慣を育てるための項目をあげながら、ヒルティは新しく一歩を踏み出すときに無用な「恐怖心」をもつなと言っている。「人生で出会う大抵のことは、決して遠くから眺めたほど恐ろしいものではなく、堪えることのできるものである」と力強く励ましてくれている。<


          東京新聞 H23.1.5 P5 けさのことば 岡井隆

 ノートを2冊用意するのがミソである。

 

 1冊は気に入った文章用、そしてもう一冊は全文通しで筆写するノートにするといいと思います。といいますのもなんか時間が空いちゃったとかテレビが下らない番組の時、あさごはんとやらが提唱してた筆写でもをやるかと思いたったとします。でもそこに書きたい文がなかったら「でもめんどくせえ」とブン投げることになりかねません。そこでこれだけは一冊全文写しちゃおうと決めた本があるとすぐとりかかれます。それはなんでもいいのですが、これだけは自分できめなければなりませぬ。私の場合、好きな甲野善紀と桜井章一郎の対談に決めました。今81ページ辺りをうろうろしております。


 それと近頃目覚めたのに漢詩を小筆で古新聞に書き殴るというのがあります。これはひとつの漢詩が短いのが魅力です。筆なんて賀状の宛名書きくらいしか使わないのですが、改めて漢詩を筆写すると身も心も引き締まるというか快感でございますw

 >俺のところにもよく人が集まるが、人が来たからってそれほど旨くないものを一緒になって食おうとは思わない.俺が払うんだから美味しいものを食べようって、高くても本当に美味しい料理を食べに連れて行くさ。俺も若い頃は、色々な人によくしてもらってきた。そのお返しをしたいために、今努力しているといってもいい。残念ながらもう死んじゃったり、直接恩返し出来ない恩人もいる。だけど、いいかい、世の中順番で、別の人に還してあげればいいと俺は思うんだよ。<


     『メシが食いたければ好きなことをやれ!』  岡野雅行  こう書房p34

 >インターネット証券会社の最大手、松井証券を率いる松井通夫と会ったとき、彼はこう言った。「大組織に価値があるなんて完全に過去の話なんです。二十一世紀の企業はそういう形の繁栄を求めていません。規模は小さくてもきめ細やかなサービスを展開して、社員一人当たりの経常利益をどんどん伸ばしていけばいい。企業が顧客を囲い込み、自社に有利な情報だけ流して商品を売りつけ利益を得られた時代は終わりました。これからは顧客がマーケットの中心です。顧客は組織の志の有無を厳しく選択してきます。企業がこの指とまれと言ったとき、どれだけの顧客が集まってくれるかが重要なんです」<


    うまい日本酒はどこにある 増田晶文 草思社  P228~229


 桜井 いまは、何かを取るのにうまいかどうかでその人が評価される。試験で点を取る、営業で仕事を取る、給料を取る、何でも取ることに長(た)けていれば、人から評価されるわけです。小さい頃から、お受験やらに追い立てられ、ペーパーテストでいい点を取ることを徹底的に仕込まれて、大人になって「取ることのプロフェショナル」になるわけですよ。


 国同士でも取り合いっこが国家の大きな役割と機能になっている。その調整を外交と称しているわけですね。石油をとる、ドルを取る、土地を取る、会社を取る、世界史というのは取り合いっこの歴史ですよ。取ったもん勝ちみたいなところがある。ヨーロッパの国々なんて人の国をさんざん取っておきながら、偉そうな顔しているわけです。


 いまや、アメリカは世界一の分捕り屋ですね。あそこは自由の国とか言っていますが、要は、人のものをいくらでも分捕るのが自由と言っているようなもんだと思いますね。正義や自由や民主主義といった理念や思想も、分捕ることを美化するための道具なんです。<



    『賢い身体バカな身体』 桜井章一 + 甲野善紀  講談社 p194