>私は統計的品質管理をアメリカから学び、手法そのものには大いに得るところがあって素晴らしい方法だと思っていた。だが、アメリカの品質管理をそのまま日本に持ってくるのはふさわしくない。日本の実情に合ってないと思った。日本には日本のやり方がある、日本人が古来からもっている品質に対する潔癖感、恥と誇りの精神、帰属意識などを大事にした品質管理を進めていきたいと思ったのだった。


 というのも、私が学生の頃の話であるが、テーラーシステムと村の娘さんたちとのやり方を比較する機会があり、合理的といわれるテーラーシステムに疑いの念をもつようになっていたからでもあった。それは兄が経営していた織物工場で、前からいる人たちに比べて村からやってきた何も知らない娘さんたちの方が、自分たち流のやり方でやった結果、速く、しかも品質のよい品物を織るようになったことを知っていたからである。


 兄は第一次世界大戦の後、欧米諸国に渡りGEやフォードなど多くの企業を見て歩き、そこで採用されていたテーラーシステムを学び、その信奉者になって帰って来た。そしてその近代的科学的経営システムを自分の家の商売に取り入れようとし、昔ながらの「出機(でばた)システム」をとる父と対立していた。何かというと、能率、能率と、やかましくいう兄昔ながらの義理とか人情に重きをおく父とは相容れなかったようである。とうとう兄は、兵庫県の石生(いそう)というところで自分流のやり方による、近代的織物工場を始めた。


 忘れもしない1927年(昭和2年)の3月、丹後で大地震が起こり、私は父のいいつけで、慰問金の詰まったリュックサックを背負い、私の家のちりめんを織ってくれている娘さんたちの村々を慰問に回った。丹後の地震というのは、峰山を中心に広範囲にわたって起こり、死者三千人、負傷者三千七百人、被害家屋三万七百戸という膨大な被害を出した大地震であった。


 京都からトラックに同乗させてもらって宮津まで行き、そこから山越えをしてようやく被災地の村に入った。出機を頼んでいた家々を訪ねると娘さんたちは着の身着のままで、臨時につくられた小屋に避難していた。ところがあの非常事態に、自分の身体と同様に機(はた)と自分が織ったちりめんを大事に避難させていたのである。私はそれを見て感動した。彼女たちがいかに仕事を愛し、いかに機を愛しているかを知ったからである。

 

 最後に訪ねた峰山の町は、今まで訪ねたなかでもいちばんひどく罹災し、町全体が焦土と化して、まだ焼けぼっくいがその辺でくすぶっているような悲惨な状態だった。


 私の家の差配をしてくれている町長さんが娘さんたちを集めてくれたので、私は持ってきた見舞金を渡しながら、私たちに何をしてもらいたいかを尋ねてみた。すると、彼女たちは一様に「仕事がしたい」という。「仕事なら復興の仕事がいっぱいあるでしょう」という私に彼女たちは「ちりめんを織りたい」「新しい機(はた)を入れてもらって、今すぐにでもちりめんを織りたい」といってきかない。「住む家さえないのにどうしてちりめんが織れるんだろうか」と思いながらも、その懇願を無視するわけにはいかず、私は彼女たちを石生(いそう)の兄の工場に連れていくことを思いついた。


 兄の工場では人手が十分に足りていた。「そんな自動織機など扱ったこともない人たちを連れてきたら能率が落ちるからだめだ」と兄は猛反対したが、「そこを何とか、頼む、頼む、非常事態なんだから」と拝み倒し、しぶしぶ承知してもらって娘さんたちを石生に連れて行った。


 兄は最初、『娘さんたちには、準備工程か荷造りでもやらせよう」と考えていたらしいが、「どうしても織りたい」という娘さんたちの熱意に負け、仕方なく織らせることにした。といっても機械を増やすわけにはいかないので、前からいた人たちの組と新しくきた人たちの組とに工場を二つに分けて、昼夜二交代制で織らせることにしたのだった。


 そうしたところが、娘さんたちは一週間で自動織機の使い方を完全にマスターしてしまった。「今までどおりの生産量を期待するのは無理だろうな。まあ、半年間は震災に遭ったとでも思ってあきらめることにしよう。技術をマスターするのに半年、いや、一年かかるかもしれない」と思っていた兄は、この事実にびっくりしてしまった。


 しかし、「自動織機は扱えるようになっても、そのうちに織りむらや織り段がたくさん出てくるに違いない。操作の難しい手織機からやさしい自動織機に変ったから簡単に動かせられたんだろうが、そう簡単にいいものが織れるものか」と、内心思っていたようである。


 ところが、ひと月ばかりたって集計してみたら、何と新米さんたちの方が不良品が少ないのである。「生産量では古い者にかなわないだろう」とそれでもまだ兄はタカをくくっていたが、またしばらくたって生産量の集計をしてみたら生産量についても新米さんたちの方が多いという結果が出てきた。これにはさすがの兄も言葉がなかった。


 そこで、さっそく、原因の追跡調査をすることになり、ちょうど夏休みだった私もそのメンバーに加わった。原因はすぐに分かった。それは娘さんたちの「一体感」からきていた。「同じ村の、同じ境遇の者同士だから助け合わなければ」という一体感が、大きく作用していたのある


 彼女たちは「前からいる人たちに負けないように、早く織れるようになりたい」という気持ちから、仲間のなかにひとりだけいた、以前自動織機を扱ったことのある人を先生にして、寄宿舎で毎日空いた時間に織り技術の研究をしていたのだった。また仕事中は、その先生はみんなの間をまわってできない人たちに教えてやっていた。この彼女たちの自主的な学習が、自動織機を早く習得させた最も大きな原因になっていたのである。


 なぜ不良品が少なかったかについても同様のことがいえた。誰が教えたわけでもないのに彼女たちは彼女たちなりに、自分流の「品質管理」をしていたのである。

 

 それはたとえば、ラインのなかの検査係が不良品を見つけると、織っている人のところへ飛んで行って注意を促すことに見られる。「あんた、こんなところに織り段があるよ。前の人との引き継ぎが悪いんと違う」という具合にである。


 これに対し、古くからいる人たちは、糸を繰(く)る人は繰るだけ、織る人は織るだけ、検査の人は検査をするだけというように責任の分担がはっきり決まっているから、自分の仕事さえ果たしていけば文句をいわれることはないと思っている。だから、検査係が織りむらを見つけても、即座になくそうとはしないで織り手に「織りむらがあるよ」ということがそんなに難しいわけでもないのに、システムがそうなっているからと、まず係長に言う、係長は課長に言い、課長から織り手の元へ苦情が戻ってくるころにはもう相当の時間がたっており、織り手は忘れてしまっている頃である。そして悪いことには、クレームは戻されるが良く仕上がったものについてまるで反応がないのである。


 生産の喜びというものは、人から喜ばれて初めて味わえるものなのだから、これでは惰性で働くことになっても仕方のないことである。


  なぜ、新しい人たちの方が古い人たちに比べて生産量が多かったかについても、分業の逆効果が現われていた。「能率とは生産量と稼働時間で割ったもの」という生産性の理屈は知らなくても、新米さんたちは「要するに機械を遊ばせないようにすればいいんでしょう」という具合に機械の止まっている時間を極力短くするようにしていたのである。だから、機械が止まらないように止まらないように気をつけ、また止ったとしても修理工のところへ

飛んでいって、一刻も早く修理に来てくれるように頼む。そして直ったときには「ありがとう、ありがとう」と感謝する。感謝をされてうれしく思わない者はいないので、修理工の方もどうかすると新米さんたちのほうに多く協力することになる。その結果、機械も順調に動き、生産量も上がっていたというわけであった。


 では、古い人たちの方はどうかというと、普段から責任分担、責任分担と、厳しくいわれているから、機械が故障してもそれは自分の責任ではないと思ってしまう。「どうぞ、ゆっくり直してちょうだい。そのあいだにゆっくり休めていいわ」ということになる。これでは修理工が早く直す気にならないのも当然である。糸の供給にしても同じようなことがいえた。


 私はここで、古い人たちの仕事ぶりを批判するつもりはない。兄がそういうシステムを取っていたのであって、また、彼女たちはそれに忠実に従ったまでの事だから、古手の人たちの働きぶりをとやかくいうのは間違っているということは知っている。けれども、このように新米さんと古手の人たちの仕事があのような数字になって表われているきてみると、両舎の仕事に対する姿勢の違いをはっきりと指摘することができるのである。


 では何がこの違いを生んだのかと考えてみるに私にはテーラーシステムという「システム」の弊害しか思い浮かばないのだ。どちらの娘さんたちも農家の純朴な娘さんたちである以上、育った環境が彼女たちの労働観を形成したとはとうてい思えないからである。もしそうであれば両者の間にその違いなど出てくるはずはないのだから。


 兄が心酔しているテーラーシステムは果たして本当にいいのだろうか、日本の風土にふさわしいのだろうかとそのときから私は考えるようになったのである。<


   『ものづくり道』 西堀栄三郎 ワック P246~252

 

 

  この西堀さんの文章はボリュームがあるから書き写すのは大変だったが、昔から気に入っている文なのでどうしても紹介したかった。西堀栄三郎(1903~1989) さんは北丹後地震(1927)の時は24歳だった。それでも、文章が新鮮でちっとも古さを感じさせない。なんといったらいいか、注がれている眼差しが暖かいのだ。


  品質管理という言葉は外国から入ってきたのだが、上の例でみると村の娘さんたちが自分たち流に気働きして、システムに負けていないというところが実に面白い。現代でもシステムが悪く、そこで働いている人のやる気を削いでいる例はくさるほどあるであろう。


 修得に1年はかかると思っていた自動織機をたった1週間でマスター。以前自動織機を扱ったことのある人を先生にして空いた時間は自主的に研究。仕事中はその先生が現場を見回り出来ない人にアドバイス。声かけあって不良品撲滅、機械が止まらないよう不良品を見つけると「飛んでいって」すぐ直す、あるいは機械が故障したらしたで修理工のところへ「飛んで行って」早く直してくれるよう「懇願」し、直してくれたら「ありがとう、ありがとう」の連発。特に上司のような者はいないのだから、部活のような(失礼)ものかな、それにしても人の使い方がうまいな。


 おいおい、これってトヨタのカイゼンに似ているではないか。彼女たちは何にも教えられずに、だた必死でやっているのだろうが、こちらは涙が出そうになって困ったよ。