筆写も楽しんで続けているとこんなことがあります。


ある人の考えと別の人の言っていることが似ているとか、全然違うとか。


そりゃそうですよ。みんな人それぞれちがうのですから。


たとえば技術の習得について古武術の達人甲野善紀さんが


 >素人の弟子は最初から細かく教えてもらえるけれども、本職になる覚悟で弟子として入ると雑用ばかりさせられている。それはいじわるなように一見見えるけれども、ある時期からちょっと知ってた素人を追い抜いて急速に進歩する。(H22.8.2のブログ『職人と弟子』)<


 どのように昔の人は人を育てたかという事例に対して、現代の「デジタル屋台」はパソコンやアニメや3次元グラフィックを駆使してサポートをつけて初心者を即戦力に使えるような働きやすい環境をつくろうとしている。


>パソコンの画面に示される「リアルタイム作業マニュアル」である。500枚以上のアニメ(三次元データ)と音声による作業手順が1工程ずつ自動的に表示されるため、作業者はマニュアルのページをめくることはおろか、工程の順番や作業内容を覚える必要がまったくない。(昨日のブログ『デジタル屋台  ローランドDGの場合』)<


で書き続けていると、今は水性ボールペン(ゼブラのSARASA0.5)でノートに読んだ本で気に入った


ところを写しているわけですが、このでデジタル時代に(工場でさえデジタル屋台と


いうものもあらわれたというのに)手書きというアナログ的手法で取り組んでおりますと、


なにか物足りなく感じられるのですね。


水性ボールペンはそれはそれでいいのだけれども、もうひとつなにか足りない。


そうだ、筆だ、墨だ。筆ぺんでやってみようか。


そういえば武田双雲さんという若い書家が東京新聞に子育て日記というのを


連載している。


なかなかのびのびしたいい文章だなと感心しておったのです。


そこで武田双雲さんの本を図書館から借りてきました。


これははまりそうな予感です。

 >ローランドDG セル生産のデジタル屋台で「脱モダンタイムス」に成功


 工場に案内された瞬間、「やはり、何か違うな」と、咄嗟に思った。これまで電機、自動車関連の工場はかなり見てきたが、この工場は入った途端、その明るさ、整理整頓ぶり、そして作業者190名が全員女性である点に、従来の工場風景とは異なる“華やかさ”のようなものを感じたからだ。


 それは、「デジタル屋台」と名付けた1人1台生産方式から受ける印象なのかもしれない。ラーメンの屋台のように、必要なすべての部品を身の回りに置き、1人が1台の製品を最初から最後まで責任を持って仕上げる。作業者は作業者は屋台の中にいて、部品を取り出しては組み立てていくが、約200台のデジタル屋台が工場いっぱいに整然と並ぶ様は、新たなモノづくりの姿をはっきりと予感させるものであった。


 静岡県浜松市の郊外に位置する都田テクノポリス工業団地。その一角に、屋外広告看板の印刷などに使う業務用大型カラープリンターを生産する「ローランド ディー ジー (DG)」の都田事業所があるが、ここがまさにデジタル屋台の発祥地ともいえる工場なのである。


 なぜ、デジタル屋台なのか。何はともあれ、その仕組みから説明を始めよう。


 完全な1人1台だから、仕組みはいたって簡単だ。幅1.8メートル、奥行き80センチのアルミ製作業台に、パソコンと部品供給装置が置かれている。作業者は自分専用の屋台で、自分自身のペースで製品を1から10まで組み立てるが、それを支援するためのポイントが二つある。


 ひとつはパソコンの画面に示される「リアルタイム作業マニュアル」である。500枚以上のアニメ(三次元データ)と音声による作業手順が1工程ずつ自動的に表示されるため、作業者はマニュアルのページをめくることはおろか、工程の順番や作業内容を覚える必要がまったくない。


 その表示は、ネジ1本の締めつけに至るまで実にきめ細かく、すべての工程に及んでいる。ひとつの工程をチェックしてから次に進むため、仮にミスをすればその場で作業が停止する。


 もうひとつは、作業台の隅に置かれた部品供給装置だ。10個の部品が収納できるトレイが7~8段重なり、それぞれのトレイはモーター駆動で自由に回転する。作業者が使用するタイミングに合わせて正しい部品の入ったトレイが回転し、作業者の正面で止まって正確に供給する。<


 

 デジタル匠(たくみ)の誕生「ものづくり日本」を再生せよ  岸宣仁  小学館(2008年)P12 


  

 う~ん、ここまできたか。先輩の技術を背中で見て盗めという、伝統的なやりかただけでは、「いつになったら身につくのか」と不安になろう。それに日本は円高の中で世界と競争している。昔のやり方だけでは間に合わない。競争に負ければ雇用も失われる。

 

デジタル屋台のことはネットで調べるといくつかでてくるが、雑誌「[Wedge」の記事が参考になるだろう。これには写真も出ている。3000もの部品のある機械を女性ひとりで組み立てるって?すごいとしかいいようがない。それもまったくの初心者でも半日教育を受けただけでOKとは。

http://quality-control.sakura.ne.jp/tqm/kaizenkatsudou/digital-yatai.pdf  


もうひとつおまけ。ローランドDGのHPに製造工程の画像と動画があった。これは分かりやすい。組立作業のところの動画は見逃せません。

http://www.rolanddg.co.jp/factory/miyakoda/process1.html




>どんな商品、部品でも専門知識のある人の質問はほぼ決まっている。


大体、百問百答ぐらいのマニュアルを作ればある程度はうまくいく。しかし「その分野の基礎知識」が乏しいと、ちょっと想定外の質問をされるとお手上げになってしまう。だからまず、中学・高校の教科書を再読し、その分野の理工系学部で用いる本ぐらいは読む必要がある。


その方面の知識がどれぐらいあるのか、これは、「ほんの一言」交わしただけで見抜かれてしまうものだ。「何だ、この人、何もしらんな・・・」と思われたら相手は真面目に話に乗らなくなる。


 だから営業スタッフは扱い商品のみならず関連分野についての研究を怠ることなくプロフェッショナル級の知識を磨くことが、「売上向上の秘訣」なのだと思う。


 そしてもう一度言うが、私たち内向型人間は研究熱心だし調査好き、この特性を生かして今の自社製(商)品・業界商品について徹底的に商品知識を培っていくならば、必ずトップセールスの仲間入りはできるものだ。<


  内気な人の営業にはコツがある   本多信一  PHP P53~54

 >初めての銃剣術で下士官をまかしてしまった。

 

 「藤平、おれを敵と思ってかかってこい

 

 ある銃剣術訓練の時間に、もっとも得意とする下士官が私にそういった。


 「本当に敵と思ってよろしいのでありますか」


 私はわざと大きな声で聞いた。


 「かまわん」


 自信満々の下士官は、絶対に負けるわけがない、と思っている。


 試合開始、私は銃剣をかまえ、ゆっくりとのろい動作で相手を突いた。下士官は私の銃剣の先をはらう。このとき私が力一杯銃剣を握って突いたら、その方向にかわされ、前へつんのめり、やられてしまっただろう。だが、私は銃剣を軽く握っていたので、それをはらわれても、体はくずれない。逆に、その瞬間、いままでノロノロ動作から脱兎のごとく下士官に体当たりした。下士官はふっとんで仰向けに倒れた。そこをすかさずエイ エイ!と全身を突きまっくった。


「やめろ、やめろ、やめてくれ」


 下士官が叫び声を上げたので、私は飛びのいて、直立不動の姿勢をとった。


 「こんな乱暴をするやつがあるか」


 「ハイッ、私は敵と思ったのであります」


 「バカ」


 その下士官は、そういったきり黙ってしまった。


 あいつは利口だかバカだか分からない、薄気味わるいやつだからあまり相手にしないほうがいい。下士官や上等兵たちはそんなふうにうわさをして、私を敬遠するようになった。だから私は彼らからなぐられたことは一度もない。


          『氣の威力』 藤平光一 講談社P170~171


 

 藤平先生おひとがわるい。軍隊生活でこの下士官はみんなの前で新兵をイジメてやろうと企てたと思う。ところがこの藤平光一(とうへいこういち)というひとはWikiによると


 >幼少の頃は体が弱く、父親から柔道 を教わった。慶應義塾大学 に入学後、肋膜炎 を発症し山岡鉄舟 の高弟小倉鉄樹 などから 呼吸法 を学び修行した結果、肋膜炎が完治した。19歳のときに合気道 の開祖植芝盛平 に入門する。慶應義塾大学経済学部卒業後、陸軍 に入隊。中国 へ派遣されたときの体験が「氣の原理」に大きく影響を与えた。<


 かなりのつわものであったわけだ。そんなことはおくびにも出さず、相手の言葉じりをとってギャフンといわせる。ユーモアさえ感じるではないか。痛快!軍隊という上のものには逆らえない状況でもこういう人もいたのだ。今この本は手元にないのだが、また読みたくなってきた。話の前後がね。



 >子供を連れて公園に行くと、同じように子供を連れた親たちをよく目にするが、多くの親の子供主体ぶりには驚かされる。子供が転べば「○○ちゃん大丈夫?」と両親共々手を伸ばし、「ママが押してあげる」「パパも滑るぞー」と子供と遊具で遊び、「何歳ですか?」「一緒に遊ぼうよ」と子供を介して親同士で仲良くなり、終いには携帯で子供の写真を撮り始める。この子供中心な家庭の構造は、割と育児に積極的な若い夫婦に多い。


 「アマテラスって卑弥呼だったんだって」とか「空母の乗組員て五千人以上いるんだよ」などと話している私と夫は誰とも仲良くなれないし、「何だよ 砂かけんなよ」などとぼやこうものなら場の空気は一瞬にして凍り付く。そしてそういう場にいると、親に構われずに遊ぶ我が子が不憫に見えてくるのだ。


 しかし、大人は砂遊びを楽しめないものだ。子供が子供らしくある事は喜ばしき事だが、大人が子供に合わせ過ぎる必要はないのではないか。私は妊娠中、余所のお母さんたちが「○○でちゅねー」などと言い、子供と遊ぶのに適したスタイルやファッションとなり、それ以前の自分を完全に喪失しているような姿をみて、自分もああなったら、とぞっとした。母になったらとて、失いたくないものはある。だから、私は泣いてもせがまれても、三輪車には乗らないのだ。(小説家)<


   東京新聞 H22.4.16 本音のコラム  金原ひとみ



 これは以前から気になっていたコラムだった。公園で回りとはなじまず浮いてる親子。私は実際に見たことはないのだが一生懸命トンガッている若い親。、「何だよ 砂かけんなよ」などとぼやこうものなら場の空気は一瞬にして凍り付く。そりゃみんな引いちゃうよ。だけど私は何故か突っ張っている金原ひとみさんに拍手のひとつもあげたいと思う。そんなこと書いていたら桜井章一の文書に出合った。




 >私が子供の頃は、各家庭の子供の数も多く、母親は炊事、洗濯、掃除、そのほか毎日の生活で手いっぱい。子供にかかわっている暇などまったくなかった。


 しかし現代の母親は家庭用電気製品の発達、少子化の影響などもあり、生活に追われることもなく自分の時間を持て余し、その分、子供にかかわれる時間が増えている。


 時間はなくとも私は母親からたくさんの愛をもらったと思っている。毎日忙しく動き回る母親を見て畏敬の念すら抱いていた。


 現代の母親たちは子供といる時間、かかわる時間が長ければ長いほど愛情が深いと勘違いしているようだ。それが子供のためになる、と。だから母親の過干渉に悩む若者が増えているのだ。


 これは「支配と依存の関係」とでも言えばよいか、その狭間の中で、親が立場上支配していたり、子供が親を牛耳ってみたりということを繰り返している。


 お互いが依存してしまっている場合もあるだろう。とにかく親も子供も距離感がうまく取れていない。(桜井章一)<


 未知の力を開く 気鋭の精神科医が「雀鬼流」を診断する 桜井章一X 名越康文 ゴマブックスP173


 


 >なぜ、「倍返し」するのかわかるかい?うちにはよくお客さんがみえるだろう。たとえば、1000円の菓子折りを持って来てくれた人がいるとするだろう。その人は「岡野さんはいつもいろいろなものを食べているから、たまにはこんなものがいいだろう」と思って買ってきてくれた。だからその気持ちが1000円だ。お土産が1000円。2000円だろう?だから俺は2000円のものをお返しするんだ。


 これは世の中の流れなんだ。金額の高い、安いじゃないんだ。大切なのは、人に対する気持ちだ。これがわからないと仕事は成功しない。本当なんだ。


 よく「損して得取れ」というだろう。あれも同じことだ。「結果はたいして変らないだろうから、けちっておこう」なんてことをすればするほど、損してしまう。


 「ちょっと、おいしそうなものがあったから買ってきました」とかでいい。大事なのはその配慮なんだ。これが不思議なことに人間同士の発展的なつながりになってくる。そこからまた、話がぱ~っと広がっていくものだ。ゼロってやつはどこまでいってもゼロなんだ。


 ほんの少しのことでも、人間同士の掛けあいで、大きくなっていく。それがわからないやつは成功できないよ。<



  『人のやらないことをやれ』 岡野雅行  ぱる出版 P90~91

 >きみ、いっしょに坐ろう。


  目と目を合わせよう。 きみの


  おとなしいひとみの奥に


  吹雪を 思うさま 聞きたい。



  この髪の白磁のつかね


  これは黄金 秋の黄金。


  これはみな やすらぎ知らぬ風来坊の


  このぼくの救いというべきもの。



  花咲く牧草 それに 木々の茂み


  そのくにを 捨てて久しく、


  ぼくは 転落を わがねがいとし


  都会のにがい浮名に浮かぶ。



  かたくなに鳴らぬ胸もつひとに


  あの田園とあの夏を


  蛙の音の伴奏で ぼくみずからが 詩人となったあのくにを


  思い起こさせてやろうともした。



  あそこも今は秋。


  楓の木 ぼだい樹 梢の爪立て


  部屋部屋の窓に


  忘れえぬ者たちをたずねあぐねてる。



  その人たちも世を去って久しい。


  飾り気もないありふれた墓地の上の


  月が 十字架の林に 光でしるしして いう


  いずれ ぼくらも ここの客だ と。



  ぼくらもいずれ 心配ごとをしつくし


  草葺きのここの小舎へ移るわけ。


  波立つでこぼこ道 道というその道は


  生きて世にあるひとたちにだけ喜びを盛る。



  きみ、ね、並んで坐ってよ。


  目と目を合わせよう、きみの


  おとなしいひとみの奥に


  吹雪を 思うさま 聞きたい。  (1923年)  <


  


世界の詩53 エセーニン詩集 訳者 内村剛介 弥生書房 P43~45




 これは随分昔で私の若かりし頃、下駄をはいて自転車なんぞに乗っていた時、本屋さんで偶然見つけた詩集である。当時はエセーニンという名前さえ知らなかった。詩を味わうというよりあのフレーズ


  >きみ、ね、並んで坐ってよ。


   目と目を合わせよう、きみの


   おとなしいひとみの奥に


   吹雪を 思うさま 聞きたい。< 


 が気に入ったにすぎない。このフレーズは何故だかしらないがこころに残っている。





 それほどネットには詳しくはないが、ネット上のニュースとかブログとか自分の好きな都々逸とか川柳とか、昔は味わえなかったことを楽しんでいます。


 分野により年齢層が違います。都々逸や川柳の掲示板はどちらかというと中高年の方が多いようです。創っている作品のキーワードで分かりますよね。孫が可愛いとかお迎えがどうとかw。


 それに比べるとブログは他人のブログを読むだけ(ROM)だったのが、ときどき投稿したり、自分のブログに書き込んだりとワンステップあがったような気がします。何事もインプットばかりではつまらない、少々お粗末でもアウトプット(発信)しなければ。


 ブログでは自分でやらなければ気付かなかったこともあります。それはペタとアクセス解析という機能です。ペタというのはあなたのブログを訪問しましたよというあいさつのようなもの、コメントを入れるほどではないが行ったことの証明のようなもの。アクセス解析というのは自分のブログに何人の方が何時頃訪問されたのか、棒グラフで出てくるのです。どのようなキーワードでのぞいてみたのかも分かります。これは面白い機能だと思いますね。


 新米主婦のシュガーさんやスズ蝶さんの訪問には驚きました。(まあスズ蝶さんのところは私のほうで先にブログのコメントを入れたことがあったのですが) 何かすごいことが起こっているのだなと感じます。バーチャルな世界で匿名だけれども、それぞれその人でしか出来ない世界を構築して年齢に関係なく意見のやりとりやひやかしなどが出来る時代、とても面白いと思います。産経応援さんはたぶん三橋さんのブログにくだらないコメントをいれたところが目に止ったのかな、そう、いろんなところに不思議な出会いがあるのですね。


 コメント欄も「そうそう」とうなづいてみたり、「ちょっと違う」とかいろいろと考えされられます。コメント欄で気に入ってその方のブログを訪問してみると何にも書いていない人だったりするととても残念な気持ちになります。そんなに張り切って多くを語らなくてもいいのです。何かその人らしさがでている文章に会えれば。

>このところ「生きがい」という言葉を目にしたり、耳にしたりすることが多い。私の場合、鮮烈な形の「生きがい論」に出合ったのは、高島陽さんのものを読んだときである。いまから五、六年前のことで、その頃はまだ、「生きがい」ということはそんなに問題になっていなかったと思う。


 高島陽さんという人は、肺結核で七年間の間に何度も喀血をしたことがあるそうだ。とくに軍隊の病院にいたときはとても助からないと思った、といっておられる。そのほか、山の湖に入って自殺しようとしたり、亜砒酸を飲んで死のうとしたり、山奥の高圧線の鉄塔から飛びおりて死のうとしたり、数回の自殺未遂の経験が有るらしい。そういう生死の間を何回かさまよっている。


 「結局、生きている理由はないかもしれないが、死ななくてはならない理由もないと決めて、当分生きることにした」とのことである。それからの高島さんの活動はまことにすばらしい。証券会社という生き馬の目を抜くような苛烈な競争社会に入って、抜群の成績を上げ、まもなくその会社の取締役になる。さらにその後は、一本立ちの経済評論家として特色ある活動をしておられるのである。


 この高島さんがサラリーマンにおもしろい忠告をしているのだ。普通のサラリーマンが一生かかって働くと、だいたい、五千万円から一億円ぐらいの収入がある。それを毎月、給料としてもらうと、それからまず下宿代とか食費とか洋服代とかいう生活費を払う。そして小遣いとして月、二、三千円使うというのが普通の人ではないだろうか。このような発想法では、一生働いて総計五千万円なり一億円なり働いたとしても、「いったいおれはあの一億円をどこに使ってしまったのだろう」ということになりかねない。これではなんとも情けないし、あわれであるので、高島さんは、収入が多かろうと少なかろうと、まず最初に「生きがい費」として差し引いて生きるという生き方をすすめておられる。そのために日常の生活は極度に切りつめてもよい。


 「耐えられないのは、ただ食べて着て寝るだけで、あたら人生を終ってしまうことだ」と高島さんはいい切っておられる。


 私はこの高島さんの言葉をよんだとき、目の前を電光が走るような気がした。私は職業上、西洋の思想の本を読む。しかも相当広範囲にわたって、かなりの量を読んでいる。まして現代の哲学的な思考が向かっている方向を敏感に感じようとつとめているつもりなのであるが、それが結局、高島さんのこの言葉に集約されているような気がしたのだ。高島さんの体験と、それから出た結論は、ある意味で現代の世界が体験したことと、それから生じてきた思想と奇妙な類似をなしていると思われるのである。<


 「人間らしさ」の構造  渡部昇一  講談社学術文庫 P13~15

 >ところで、この「ギヴ」与えるですが、ふつうの商売のように、お金と物品の交換をもって行われるようなものとは限りません。


 もちろん、商品売買のように、同時的に、ギヴとテイクが行なわれる場合もあります。しかし、人間の魅力にかかわる「ギヴ」とは、特定の個人に対してのものよりも、「世間一般」に対して与え続けるという意味のものなのです。

 

 「ギヴ」は預金のように貯蓄できるのです。「人生貸越説」という言葉があります。他人の五大本能のいずれかを充足してあげることは「与える」ことであり、これに即効的な報いを求めず、世間に対して与え続けているならば、それは宇宙預金をしているようなものだ、と私は考えます。


 預金残高欄に残高が増えるほど、あなたの徳は高くなっていきます。「徳とは得のことである」と中国人はいいます。事実、中国では昔、金持ちのことを「有徳人(うとくじん)」と呼びました。


 この定期預金が満期になったとき、富や身分、地位、また友情や健康、そしてあらゆる成功が手に入ってくるのです。それは、たっぷりと利息がついてのち、どっと支払われてくるのです。


 徳とは魅力ある人のことです。そして、この魅力とはまさに「ギヴ」をよく行ない続けた人に生じてくるものなのです。


 「この世の中には二種類の人間しかいない。それは与える人間と借りる人間である」という言葉を何かの本で読んだことがありますが、これは至言だと思います。


 この場合の与えると借りるは、単にお金や物のことを指しているのかもしれませんが、私は「与える」とはすべて「人に喜びを与える」ことであり、それは私流にいえば「五大本能的衝動を充足してやる」という意味に解しているのです。


 この世の中には、預金の残高欄がゼロになっているのに、なお「求める」だけを繰り返して行なって、人生うまくいかず、「どうして俺はこうも運が悪いのだろう」とぼやいてばかりいる人が案外と多いものです。


 一般的にいって、何かを取得するには、二つの方法があると私は考えます。その二つとは


 ①狩猟的方法

 ②農耕的方法


 の二つの方法です。


 狩猟的とは文字どおり、目的物をぱっと直接的に捕らえる方法であり、農耕的とは、種をまき、木を育て、実を収穫する方法です。


 世の多くの人は、何かを手に入れるには狩猟的方法のみで良しとしているのです。しかし、この方法では決して、人は豊かで安定した生活を築くことはできません。


 農業あるいは牧畜などで、種すなわち原因を与え、ついでにその熟成を待ち、ついにおびただしい天からの恵みを受けることになるのが豊かさというものでしょう。


 与え、そして待つ人は、徳のあるひとであり、徳のある人は「得をする」人であると思います。この意味で、人は誰でも。まず精神の世界に、「大農園や大牧場を所有する」ことができるのであります。


 そして、この形なき世界から、形あるものが、それを望みさえすれば、その人の手の中にもたらされてくるのです。


 形なき世界、それは仏教でいう「空の世界」です。そして色や形のあるもの、すなわち「色」がそこより生じてきます。これこそが般若心経でいう「空即是色」の原理なのです。


 以上で、魅力とは「他人の五大本能的衝動のいずれかを満足させてあげることによって生ずる吸引力である」ことがおわかりいただけたことと思います。<


『人蕩し術』 無能唱元   日本経営合理化協会出版局  P355~ 358

( 注 五大本能的衝動とは

      ①飢えへの怖れ

      ②孤独への怖れ

      ③劣等感への怖れ

      ④もてないことへの怖れ

      ⑤無知への怖れ)