逃げろや逃げろ!
どこまでも
東京から逃げてきた
負け犬だから
と告白するアキ
でも
イキイキとして、とても嬉しそう…
生きている!
という実感とともに
自分が生きてゆく原点
を、見つけたようだ。
アキの言う「逃げてきた」
というのは、はたして
東京
という物理的な場所
のことだけだろうか?
逃げる
言うと、卑怯とか
卑屈な負け犬、とか
とかくネガティブな印象が先立つ
でも
危険や嫌なものから
逃げて
どこが悪いの?
私たちは
逃げたらアカン
逃げるな!
と、教えられてきた。
それは、何のため、誰のため…?
組織のため?
上役のため…?
軍隊の命令?
領土のため?
根性や精神論…?
戦争中、人々は逃げることを
許されなかった…
竹槍でB29
を落とせ
空襲は怖くない
逃げずに火を消せ
多くの人々が空襲や爆撃で
犠牲になった。
『検証 防空法』
空襲下で禁じられた避難
そこには、カルト的なパラノイアが
支配していた。
許せないのは
核兵器だけではない…
戦時中だけではなく
戦後の企業文化
様々な組織
にもあるだろう。
「逃げるな」とは、言わないまでも
パターナリスティックな体制が
人々の〝逃走〟〝逸脱〟を許さない。
アイドルになりたい
ユイの憧れる〝東京〟や〝アイドル〟と
カルト的なパラノイアを比較しては
酷かもしれないが
どこか、共通するところ
があることは否定できない。
逃げる
が〝負け犬〟だとは
ピラミッドからの脱落者
という、パラノイア体制側の
印象操作ではないのか…?
逃げる…のは
スキゾの十八番
浅田彰
『逃走論ースキゾ・キッズの冒険』
とにかく
逃げろや逃げろ
どこまでも
兵法書『孫子』
三十六計
逃げるに如かず
あれこれ思案して、もたもたしているよりは、さっさと逃げる方がはるかによい
アキは決して「逃げてきた」
だけではない
私の嫌いなものばっかり
好きにならないでよ!
という強面、元ツッパリ春子ママの
パターナリズムをも振り切って
やってみなきゃわかんない
と、攻撃に転じているのだ。
アキが獲得した『逃走術』とは
パラノ的な
支配や、拘束から逃れ
スキゾ的、ノマド的に
自由に考え、行動すること
ではなかろうか?
パラノとスキゾのちがい
それは
上から命令や
同調圧力に従うのか
それとも
自分のアタマで
認知、判断するのか
逃げる
とは、自らの信念に基づいて
Going Myway !
我が道をゆく
ことを、選択することであろう。
西暦1620年、イギリスから
メイフラワー号に乗って
北米大陸に渡った
ピルグリム・ファーザーズ
ピューリタン(清教徒)の彼らは
教会権力(パラノイア)から
逃げてきた
スキゾ的、ノマド的(遊牧民的)な
開拓者ではなかったか…?
マックス・ウェーバーの言う資本主義とは本来、既成権力(パラノイア)への崇拝にプロテスト(抵抗)する人々が形成した、自由(スキゾ)で合理的な経済システムではなかったのか?
ところが、だんだんそうではなくなった…
通貨というアイドル(カルト)を頂点に拝み、それが世界を支配(パラノイア)し始めた。
もはや手段が目的に化けてしまい、ウェーバーの言う「資本主義の精神」も、「プロテスタンティズムの倫理」も、どこかに消えてしまった。
いま一度、本来の資本主義
民主主義を取り戻すため
ピューリタンのように
アキが新天地(北三陸)を
発見したように
スキゾキッズに
なろうではないか。
逃げろや逃げろ
どこまでも…
『戦争機械』とは何か…?
戦争機械と聞くと
オドロオドロしい
戦闘機とか、戦車を想起するが…
ちょっと違うらしい。
ドゥルーズ=ガタリの著書
『千のプラトー』の中で語られた
独特の用語…
コトバンク『戦争機械』より
フランスの哲学者ドルーズとガタリが共著『千のプラトー』
Mille plateaux(1980)で提出した概念。
戦争を目的とする機械のことではなく、むしろ国家の形成や中心化を妨げるような、非中心化的で集団的なメカニズムや横断的なネットワークのこと。
この場合「機械」とは、生物に対立する人工物ではなく、むしろ構造主義の「構造」に対立し、いかなる超越的な原理や否定的なものの支配をも受けることなく、相互に中継と分岐を生産していくような潜在性のシステムのことである。また、戦争機械は、「遊牧的(ノマド的)なもの」と関係しているとされる。
難解…?
国家間の不毛な戦争に
対抗するような概念に思えるが
要約した説明ができないので
宿題とします😆💦