【平和学習企画】あかねーねが行く、祈りの旅~西東京市編~ | 井坂茜ブログ!あかねこ★進化論*。

毎週月曜日に生放送を担当している

エフエム西東京「Pop'nタワー♪」の中で、

2018年8月に4週にわたりお届けした

平和学習企画『あかねーねが行く、祈りの旅』


私が【戦争】を描いた作品の勉強のため

現地へ行き、見て・聴いて・感じたことを

レポートしたこのコーナーの原稿を

公開していきます。



長崎編はこちら



広島編はこちら



沖縄編はこちら




最終回となる今回は、

毎年夏に田無アスタ2階センターコートで開催される

「西東京市非核・平和パネル展」の展示にあった、

私が生まれ育ったまち、西東京市の

戦争遺跡マップを巡ってみたレポートです。









2018年8月27日(月)放送

平和学習企画「あかねーねが行く、祈りの旅」


〜西東京市編〜





西武新宿線田無駅の北口にある、

大きなリングの形をしたオブジェ。


「平和のリング」です。


「過去」を表している地面に近い部分は太く、

「現在」「未来」の部分になるほど

段々と細くなっています。これは、

「過去の困難な時代を乗り越え

現在の私たちの平和がある。

しかし、未来は不確定であり、

未来に繋がる平和のリングはまだ細い。

このか細いリングをより力強く

より太い絆とするために、

平和への願いを確かなるものに」

という意味が込められています。


田無駅北口は、

太平洋戦争末期の1945年4月12日、

B29の爆撃により50名以上の方が亡くなった場所です。


米軍の爆撃目標は中島飛行機 武蔵製作所でしたが、

春霞のため目標を大きく外れ、

田無駅前、所沢街道北原、保谷町などに

1トン爆弾が多数投下され

100名以上の犠牲者が出ました。

田無駅のホームは吹き飛び、

50軒以上の家屋が全壊したそうです。

さらに、8月15日の終戦までに田無全域において

百数十の尊い命が奪われました。


戦後13回忌にあたる1957年4月に

駅前に「戦災者慰霊塔」が建立されましたが、

駅前再開発により、

1992年に総持寺に移設されました。

総持寺は空襲の犠牲になった方々の

ご遺体が運ばれた場所でもあります。

山門にある慰霊塔は「平和観音」と呼ばれています。

そして駅前には新たな平和のシンボルとして

「平和のリング」が建設されました。





米軍の爆撃目標となっていた

「中島飛行機 武蔵製作所」について、

非核・平和をすすめる西東京市民の会編集

「西東京市 市民の戦争体験記」に寄せられている

文章を引用して紹介します。

 





武蔵野市役所やNTT研究開発センター、

武蔵野中央公園、武蔵野北高校などがある一帯に、

旧日本軍戦闘機ゼロ戦などのエンジンを作っていた

「中島飛行機 武蔵製作所」がありました。


1937年3月、麦や大根を作っていた畑に、

陸軍専用のエンジンを作る

「武蔵野製作所」の建設が始まりました。

翌年5月に完成すると、

東京工場から転勤した人たちと募集された人たちで

操業を始めました。1939年、今度はその隣に

海軍用のエンジンを作る「多摩製作所」が建設され、

1941年11月から生産を開始。

1943年10月、軍需省などの要請で

2つの工場が一緒になり「武蔵製作所」となりました。

 


この工場は中島飛行機のみならず、

日本全体でも重要な、

飛行機のエンジン生産工場でした。

東西がおよそ1100m、

南北がおよそ500mで56万平方メートル以上あり、

建物は24万平方メートルほどありました。

建物だけで、東京ドーム5つぶん以上の広さです。


特に多摩製作所は、

ドイツのクルップ工場をモデルにしたといわれ、

3階建てや4階建てが6棟あり、

そのほかに歯車工場や工具の工場もあって、

それぞれが地下道で結ばれていました。

 

材料や外注部品は、

武蔵境駅からの引込線で搬入され、

地下室で熱処理や砂吹き作業がなされていました。

1階では

クランクシャフトやシリンダーなどの重い部品、

3階では軽合金を含む小物部品、

2階でピストン関係の部品を作り、

それらの部品をエレベーターなどで

2階の組み立て工場に集中し、

エンジンを完成させていました。

完成品は試運転したのち引込線で搬出するという、

一貫した流れ作業方式を採用していました。

今では当たり前のことですが、

当時としては斬新で画期的な生産方式でした。


多い時にはおよそ5万人の労働者が

昼・夜2交替や3交替で働き、ひと月に

およそ2000台のエンジンを製造していました。

正規従業員のほか、徴用された人や、

学徒動員された16才前後の男女も働いていました。

 


こうした生産活動を続けてきた武蔵製作所を、

アメリカ軍は東京空襲の第1目標としました。

1944年11月24日の初空襲以来、十数回に及ぶ

B29や艦載機による爆弾攻撃を受けました。

投下された爆弾の総量は

およそ3000トンと言われています。

そのため生産不能となり、

工場の機械は各地に疎開して、

武蔵製作所は廃墟と化してしまいました。

目標を外れた爆弾は、

保谷、武蔵野、田無、練馬などに落下しました。

特に旧保谷市内の柳沢、東伏見、富士町、

本町周辺の被害が大きかったようです。

 



当時使われていた引込線用のガードが今も、
南町に残っています。

私が子どもの頃、「遊水地」と呼んで
よく遊びに出かけていた「柳沢児童広場」の
すぐそば、西武新宿線下にあるちいさなガード。

中島飛行機武蔵製作所から、
谷戸にあった中島航空金属 田無製作所に向かう
引込線のガードだそうです。
小学生の時に保谷から田無に引っ越した私は、
よくこのガードの前を通って
習い事に行っていましたが、
その時はガードの中の壁に落書きがあったりして、
薄暗くて、怖いイメージがありました。
久しぶりに行ってみると、
落書きは消されて綺麗になり、
でもどこか淋し気な雰囲気は残っていて、
ここをくぐると違う世界に行ってしまいそうな
不思議な場所です。




 

ガードの前を通って、青梅街道を柳沢方面へ。

向かったのは、「しじゅうから第二公園」です。


昨年、広島に原爆が投下されるまでのことを描いた

音楽劇「チンチン電車と女学生」に出演する時に、

西東京市内の図書館で原爆について調べていて、

しじゅうから第二公園のことを知りました。

実際に訪れたのははじめてです。






1945年7月29日午前9時23分、

当時じゃがいも畑だったこの場所に、

1発の模擬原子爆弾が投下されました。


模擬原子爆弾とは、

アメリカ軍が原子爆弾投下を

確実に成功させるために、

日本各地に投下して訓練した爆弾です。


原爆専用B29爆撃機を持つ極秘部隊は、

9000m上空から目視爆撃、急旋回爆風圧退避という

本番と同じ訓練を繰り返しました。


模擬原子爆弾の投下目標は、原爆目標都市

「広島、京都、小倉、長崎、新潟」以外の、

それに近い都市が設定されましたが、

目標が攻撃できない時は

どこの都市でもよいことになっていました。

模擬原子爆弾は全部で50発投下され、

1つは海に投棄されていますが、

残り49発は本土に着弾しています。




そのうちのひとつ、

現在のしじゅうから第二公園に投下された

模擬原子爆弾は、

8月9日長崎に落とされた原爆「ファットマン」と

同じ形、同じ重量、

落とした飛行機も同じボックスカーでした。


西東京市が、

長崎原爆の最終訓練地となってしまったのです。


模擬原子爆弾には核物質は入っていませんでしたが、

1トン爆弾の4.5倍もの爆薬を詰めた超大型爆弾で、

丸くて黄色く彩色されていたので

「パンプキン」と呼ばれていました。

このパンプキンも、

中島飛行機武蔵製作所を狙って投下されたのですが、

目標から外れ、じゃがいも畑で作業をしていた

3人の女性が亡くなりました。






 

この模擬原子爆弾のことを知った時、

西東京市と原爆に繋がりがあったことに

驚きましたが、さらに驚いたのは、

旧田無市の初代市長 指田吾一さんのことです。


指田さんは戦時中、陸軍の軍医さんで、

広島で自らも被爆しながらも

人々の救護をされていました。

その体験を綴った著書「原爆の記」は

西東京図書館にも所蔵されています。

指田さんはこの本を書き上げた後に、原爆症に倒れ、

そのまま帰らぬ人になりました。

命を懸けて命を救い、そして、命を懸けて

その体験を残してくださったのだと感じます。

ぜひ皆さんも読んでみてください。




 

私は西東京市の小・中学校に通っていました。

今回改めて西東京市内の戦争遺跡を巡ってみて、

そういえば学校で西東京市内の戦争被害や、

戦時中にどんな暮らしをしていたかを

詳しく教えてもらったことってあったかな?

と考えていました。

あまりなかったように思います。


教科書に載っている、

8月6日の広島や8月9日長崎の原爆、

8月15日の終戦の日は習ったけれど、

こんなに身近にも、前から知っている場所にも、

戦争が関係していることを、

もっと学ぶ機会があってもいいのではと思いました。


自分の住んでいるまちの過去を知ることで、

もっとよい未来を創造していけると思うからです。

最後に、

西東京市の非核・平和都市宣言を紹介します。

 



非核・平和都市宣言


私たちは生きている。 

おおくの人々が、

それぞれの習慣や宗教をもち 

様々な考え方と、

異なる環境の下で生活している 

この地球で


私たちは持っている。 

この地球上で、

健康で幸せな生活をする権利を 

異なる考え方の人々を差別しない義務を


私たちは知っている。 

おおくの人々が、

今なお戦争で傷つき命を失っていることを 

住みなれた平和な生活の場を追われ飢えていることを


私たちは訴える。 

必要なのは笑顔での話し合いであることを 

必要なのは人類愛と思いやりであることを


私たちは宣言する。 

あらゆる人を傷つける地雷や武器をなくすことを 

あらゆるものの破滅を招く核兵器をなくすことを 

地球上から戦争をなくすことを


私たち市民のこの声と願いを 

世界に広く訴えるために 

非核・平和都市 西東京市の宣言とする

 






平和学習企画「あかねーねが行く、祈りの旅」

ラジオで、そしてブログで

お付き合いいただき有り難うございました☺️


過去の過ちから学び

よりよい世界を残していけるように

これからも勉強を続けていきたいとおもっています。




井坂 茜