【平和学習企画】あかねーねが行く、祈りの旅~広島編~ | 井坂茜ブログ!あかねこ★進化論*。

毎週月曜日に生放送を担当している

エフエム西東京「Pop'nタワー♪」の中で、

2018年8月に4週にわたりお届けした

平和学習企画『あかねーねが行く、祈りの旅』


私が【戦争】を描いた作品の勉強のため

現地へ行き、見て・聴いて・感じたことを

レポートしたこのコーナーの原稿を

戦後75年のいま、公開したいと思います。



今日は、2年前の8月6日に放送した広島編です。

前回の長崎編はこちら







2018年8月6日(月)放送

平和学習企画「あかねーねが行く、祈りの旅」

 

~広島編~







昨年10月、

はじめて広島県を訪れました。

秋の深まりを感じるひんやりとした空気の中、

美しく整備された平和記念公園に

足を踏み入れた私は、

そこだけが時間が止まっているかのように佇む

原爆ドームに圧倒されました。

かつて、ひとつの爆弾で

まちのほとんどが破壊されてしまった広島市の中で、

今も被爆当時の姿が残っている場所へ行ってみました。





 

1945年8月6日午前8時15分、

広島の上空600mで原子爆弾が炸裂しました。

爆心地から350mという近さの本川国民学校では、

校長先生ほか10名の教職員と

約400名の子どもたちの命が奪われました。


すさまじい爆風圧のため壁はへこみ、窓は飛び散り、

校舎は完全に焼失してしまいましたが、

広島で初めて建てられた

鉄筋コンクリートの校舎だったため、

外部だけは残りました。






その校舎の一部を、

原爆の被害を受けた状態そのままで残し

「本川小学校 平和資料館」として開放しています。


中には焼け焦げた配電盤が

当時のまま保存されていたり、

校庭から掘り出された、

熱で溶けたガラス瓶や瓦などが展示されています。

実際に手に持つこともできます。

自分の手で触れることでより現実味が増し、

校庭から聞こえてくる生徒たちの明るい声が

かけがえのないものだと気づかされます。








爆心地から460mの袋町国民学校では、

1・2年生が木造校舎の解体作業をしていました。


木造の建物は

空襲の時に火災が広がってしまうのを防ぐため、

あらかじめ取り壊すことになり、

校外での建物解体作業にも

生徒たちは動員されていました。


あの日、作業をするみんなより少し遅れて、

下駄箱のあった鉄筋コンクリート造りの西校舎の

地下室にいた生徒数名が奇跡的に助かりました。

運動場で作業をしていた先生と生徒たちは、

ひとり残らず亡くなっただろうと言われています。





かろうじて焼け残った西校舎は、

翌日から被災者の救護所となりました。

校舎内の壁には被爆者の消息を知らせる

伝言が数多く記されました。


現在、西校舎の一部は被爆建物として保存され、

「袋町小学校 平和資料館」として、

壁の伝言をはじめ様々な資料を展示しています。

 





緑豊かないまの広島の街からは、

本当にこの美しい街に

原子爆弾が落とされたのだろうかと、

なかなか想像が追いつきませんでした。


でもそれは、なにもかも失った広島の人々が、

一生懸命前を向き、復興してきた証。


その中で今も残されている被爆建物は、

悲劇の記憶を風化させないために、

私たちに絶えず命の尊さを

訴えかけているのだと思います。


特に印象的だったのは、

この小さな資料館にも

外国の方が訪れていたことです。

学校という親しみのある場所なので、

他人事ではなく自分事として

原爆について考えられるのではと感じました。

 

どちらの小学校の資料館も、

平和記念公園から歩いて行ける距離にあります。

市内を走る路面電車に乗って、

街並みを眺めながら行くのもいいですよ。

広島駅から広島電鉄で

本川小学校へは「本川町駅」から、

袋町小学校へは「紙屋町東駅」

または「本通駅」をご利用ください。







さて、その広島電鉄にまつわる話もひとつ。


日中戦争から太平洋戦争へと戦局が拡大される中、

広島電鉄では男性乗務員たちが

次々と軍隊へ召集されました。


その男性たちに代わって、

軍都・広島の運送力を確保するため、

広島電鉄家政女学校が開設されました。

女学生たちは寮生活をして授業を受けながら、

乗務員としての業務に携わったのです。




8月6日の朝も、

女学生の運転士がチンチン電車を走らせていました。

女学生30名と教師1名が原爆の犠牲となりました。

原爆投下からわすか3日後、

チンチン電車は再び走り出し、

うちひしがれた広島の人々の心を勇気づけました。

その復帰第1号の電車を運転していたのも、

女学生の運転士でした。

 

広島の路面電車に乗る際は、

ぜひそんな女学生たちの姿も

思い浮かべてみてください。






 


最後に、広島の市井の人々から収集した詩を

編集した『原子雲の下より』(1952・9)

に所収されている、一遍の詩をご紹介します。


作者の林幸子(はやし さちこ)さんは、

当時、爆心地から2キロほどの昭和町に在住で

おそらく16歳くらいのころ

原爆の被害に遭っただろうと思われます。

この詩を書いたのは23歳の時だそうです。




 

『ヒロシマの空』 林 幸子



夜 野宿して 
やっと避難さきにたどりついたら 
お父ちゃんだけしか いなかった 
ーーお母ちゃんと ユウちゃんが 
死んだよお…… 

八月の太陽は 
前を流れる八幡河(やはたがわ)に反射して 
父とわたしの泣く声を さえぎった 

その あくる日 
父は からの菓子箱をさげ 
わたしは 鍬(くわ)をかついで 
ヒロシマの焼け跡へ 
とぼとぼと あるいていった 
やっとたどりついたヒロシマは 
死人を焼く匂いにみちていた 
それはサンマを焼くにおい 

燃えさしの鉄橋を 
よたよた渡るお父ちゃんとわたし 
昨日よりも沢山の死骸(しがい )
真夏の熱気にさらされ 
体が ぼうちょうして 
はみだす 内臓 
渦巻く腸 
かすかな音をたてながら 
どすぐろい きいろい汁が 
鼻から 口から 耳から 
目から とけて流れる 
ああ あそこに土蔵の石垣がみえる 
なつかしい わたしの家の跡 
井戸の中に 燃えかけの包丁が 
浮いていた 

台所のあとに 
お釜が ころがり 
六日の朝たべた 
カボチャの代用食が こげついていた 
茶碗のかけらが ちらばっている 
瓦の中へ 鍬をうちこむと 
はねかえる 
お父ちゃんは 瓦のうえに しゃがむと 
手 でそれをのけはじめた 
ぐったりとした お父ちゃんは 
かぼそい声で指さした 
わたしは鍬をなげすてて 
そこを掘る 
陽にさらされて 熱くなった瓦 
だまって 
一心に掘りかえす父とわたし 

ああ 
お母ちゃんの骨だ 
ああ ぎゅっ とにぎりしめると 
白い粉が 風に舞う 
お母ちゃんの骨は 口に入れると 
さみしい味がする 
たえがたいかなしみが 
のこされた父とわたしに 
おそいかかって 
大きな声をあげながら 
ふたりは 骨をひらう 
菓子箱に入れた骨は 
かさかさ と 音をたてる 

弟は お母ちゃんのすぐそばで 
半分 骨になり 
内臓が燃えきらないで 
ころり と ころがっていた 
その内臓に 
フトンの綿が こびりついていた 

ーー死んでしまいたい! 
お父ちゃんは叫びながら 
弟の内臓をだいて泣く 
焼跡には鉄管がつきあげ 
噴水のようにふきあげる水が 
あの時のこされた唯一の生命のように 
太陽のひかりを浴びる 

わたしは 
ひびの入った湯呑み茶碗に水をくむと 
弟の内臓の前においた 
父は 
配給のカンパンをだした 
わたしは 
じっと 目をつむる 
お父ちゃんは 
生き埋めにされた 
ふたりの声をききながら 
どうしょうもなかったのだ 

それからしばらくして 
無傷だったお父ちゃんの体に 
斑点がひろがってきた 

生きる希望もないお父ちゃん 
それでも 
のこされる わたしがかわいそうだと 
ほしくもないたべ物を 喉にとおす 

ーーブドウが たべたいなあ 
ーーキウリで がまんしてね 

それは九月一日の朝 
わたしはキウリをしぼり 
お砂糖を入れて 
ジュウスをつくった 

お父ちゃんは 
生きかえったようだとわたしを見て 
わらったけれど 
泣いているような 
よわよわしい声 

ふと お父ちゃんは 
虚空をみつめ 
ーー風がひどい 
嵐がくる……嵐が 
といった 
ふーっと大きく息をついた 
そのまま 
がっくりとくずれて 
うごかなくなった 

ひと月も たたぬまに 
わたしは 
ひとりぼっちになってしまった 

涙を流しきった あとの 
焦点のない わたしの からだ 

前を流れる河を 
みつめる 

うつくしく 晴れわたった 
ヒロシマの 
あおい空 



(出典:『小さな祈り』 汐文社)

 

 


この詩は、西東京市図書館に所蔵されている

「読み聞かせる戦争」にも収録されています。

声に出して読んでみることをおすすめします。




(☝︎広島市内で、原爆の恐ろしさを伝えてくれる

モニュメントや案内板など。

真ん中は御幸橋、右下は猿猴橋です。)

 



次回は、沖縄編をお届けします。