【平和学習企画】あかねーねが行く、祈りの旅~長崎編~ | 井坂茜ブログ!あかねこ★進化論*。

私が毎週月曜日に生放送を担当しているラジオ、

エフエム西東京「Pop'nタワー♪」で

 2018年の8月、4週に渡りお届けした

平和学習企画『あかねーねが行く、祈りの旅』

 

私が【戦争】を描いた作品の勉強のため

現地へ行き、見て・聴いて・感じたことを

レポートするコーナーで、

広島、沖縄、パールハーバー、

そして地元・西東京市の戦争について

お届けしてきました。

 

今日その続編として、

昨年5月に訪れた長崎編をお送りしました。

 

いまや私のライフワークとなっている

戦争について学ぶこと、共有することですが

今年は「ひめゆり」への出演もなく

ブログで戦争について綴ることが

なくなってしまいそうなので、

これまでの原稿もブログで公開してみようと。。

 

ブログですでに紹介した内容もありますが

よろしければぜひ、ご覧ください。

 





 

2020年8月10日(月)放送

平和学習企画「あかねーねが行く、祈りの旅」

 

~長崎編~

 




長崎市内を走る路面電車の

電停にある観光マップで見つけた

「城山小平和祈念館」の文字。

 

広島でも、被爆校舎を保存し

資料館として公開している

2つの小学校を見学した私は、

まずこの小学校に行くことにしました。

 

平和公園駅の西側は

市営の競技場になっています。

戦後長崎に進駐した米軍が

簡易飛行場を建設した場所だそうです。

ここに「爆心地の松山町(まち)交差点」

という案内板がありました。




『被爆当時、現在の松山町(まつやままち)、

当時の駒場町(こまばまち)には

およそ230世帯、昼間人口3,700人余りの

人々が暮らしていました。

しかし町の全域が

爆心地から500m圏内という至近距離のため、

即死を免れた1名の生存者も3日後には亡くなり、

生存者は皆無となりました』と、

この案内板には記されていました。

 

ここはかつて全滅した町なのです。



 

競技場の周りを流れる浦上川に架けられた

簗橋(やなばし)。

ここには

「原爆の破壊に耐えた簗橋と城山国民学校」として、

被爆後の様子を捉えた写真とともに

次のような説明文がありました。

 

『昭和20年8月9日、

その日いつものように出されていた

空襲警報もやがて解除になり、

子供たちは防空壕を飛び出し、

家庭の主婦は早めの昼食の準備に追われる中で

市内の人々の動きもあわただしくなり、

電車も工場も一斉に動き始めていた。

午前11時2分、

突然目もくらむばかりの閃光を伴い、

一発の原子爆弾が松山町の高見邸別荘の上空

およそ500mで炸裂した』 






簗橋を渡ってほどなく、高台になっているところに

長崎市立城山小学校はありました。

長崎原爆遺跡として

国の指定史跡になっている被爆校舎のほかにも、

校内には被爆したカラスザンショウの木や、

原爆で二股に裂けてしまったクスの木などもあり、

その一つ一つに、児童たちの手書きによる

説明書きが添えられています。

被爆校舎の一部を保存し祈念館としたのも、

老朽化で解体される予定だったところに

児童たちの要望があり、実現したそうです。 





城山国民学校は爆心地から西に500mの場所、

爆心地に最も近い国民学校でした。

校舎は鉄筋コンクリート3階建てでしたが

原爆により大きく破壊され2階と3階は全焼。

当時学校にいた教職員31名中28名が亡くなりました。

全焼しなかった1階にいた教員3名と、

女性教員が連れてきていた赤ん坊が

生き延びたそうです。

児童は7月から登校禁止となっていましたが、

およそ1500名中1400名余りが

家庭で亡くなったと推定されています。

正確な数字はわかっていません。 

 

このほか、

三菱重工業株式会社 長崎兵器製作所の一部が

疎開して学校を使用していたため

その所員や動員学徒らのおよそ120名のうち

100名余りの方が亡くなりました。 

 

現在の城山小学校では

平和学習をとても大切にしていて、

上級生が下級生に教えたり、

見学に来た一般の人たちを

児童が案内することもあるそうです。

これは広島の小学校もそうでした。

また驚いたのは、

昭和26年8月から毎月1回、

9日に「平和集会」を開いているとのこと!

平和について考えることが

常になっているんだなと感じました。 




 

小学校を後にして、平和公園駅まで戻ります。

東側には、平和公園、爆心地公園、

原爆資料館、浦上天主堂などがあります。




長崎に来るまで

平和祈念像がある平和公園のイメージが強く、

爆心地公園は聞いたことがなかったので

行ってみることにしました。

 




がらんとした広場に、いくつかのモニュメント。

その中央に黒い塔がそびえたちます。



「長崎原子爆弾落下中心地碑」








空に向かって立つこの塔の周りになにもないことが、

原爆がどういうものなのかを物語っているようです。

塔の前に置かれた

奉安箱の横に記された原爆死没者名奉安数は、

2020年8月9日現在で18万5982名となりました。 





広場の川沿いにある階段を下りていくと、

被爆当時の地層を見ることができます。

原爆落下中心地にあたるこの地層には、

原爆によって壊された家の瓦やレンガ、

熱によって焼けた土や溶けたガラスなどが

現在でも大量に埋没しています。

地層の中には、

茶わんや湯呑のかけらも沢山埋まっていて、

人々の暮らしの真上に

原爆が炸裂したことがわかります。

 

地層が保存展示してあるすぐ脇に流れる

下の川(しものかわ)は、

おびただしい死体で埋まっていたそうです。

その惨状を目撃した被爆者は、

「川の水も流れることができないほど

人間の死体が埋まっているではないか。

それはあたかも

聖書に出ている世の終わりを想わせる、

この世の生き地獄図そのままだ」と

書き残しています。




下の川が流れる松山町(まち)にはおよそ300世帯、

1860名余りの一般市民が生活していましたが、

あの瞬間、町内にいた人は、

偶然にも防空壕に避難していた9歳の少女を除き全員が即死しました。

この少女は弟、妹と一緒に防空壕にいたけれど、

助かったのは一人だけでした。

一瞬にして家族が、町の人がみな命を奪われ、ただ一人生き残る…

想像しようとしても、頭が追いつきません。 



 

爆心地公園の広場には、

浦上天主堂の被爆した壁の一部が移設されています。

爆心地から北東へおよそ500mの

小高い丘の上にあった浦上天主堂は、

1867年に始まった

浦上四番(よばん)崩れと呼ばれる大弾圧により

全国に流刑にされた信者が、

1873年に解放されたのち、聖堂の建設を計画。

貧しいながらも農作物を売って得た資金や

外国人からの寄付などを受け、 

石材やレンガを買い、

信者の労働奉仕で運搬・建設され、

起工から19年もの歳月を経た

1914年・大正3年に献堂式が行われ、

1925年・大正14年に、正面に立つ印象的な双塔、

2つ並んで立つ塔が出来、完成しました。

信者たちの想いがめいいっぱい込められたこの教会は

当時、「東洋一の教会」と言われていました。


 

原爆が炸裂した時、

礼拝堂に集まっていた神父二人と数十名の信徒は、

倒壊した天主堂の下敷きとなり全員亡くなりました。

東洋一の教会は原爆によりわずかに周りの壁を残すのみとなりました。

昭和33年に新しい天主堂建設のため、

倒れずに残った聖堂の南側の一部の壁が

爆心地公園に移設されました。

壁の上の石像は、

フランシスコ・ザビエルと使徒です。

爆心地公園に訪れる人々を見守っています。 





 

現在の浦上天主堂は新しい聖堂ですが、

敷地内には原爆で頭部が吹き飛んだ聖人像や、

バラバラになったキリスト像の展示もあります。

また少しわかりにくい場所ですが、

天主堂の北側の土手には

原爆により吹き飛んだ鐘楼が、

当時のまま保存されています。

丘の上の天主堂から30メートルほどでしょうか。

原爆の威力を感じます。 





長崎原爆資料館でも、

原爆投下直後の浦上天主堂の惨状を伝えています。

天主堂の下敷きになって亡くなった信徒が持っていた

ロザリオも展示されています。 

 

原爆資料館ではほかにも、

長崎に投下された原子爆弾

「ファットマン」の実物大の模型、

爆心地付近で見つかった、

人間の手の骨とガラスが高熱のため

溶けてくっついたもの、

内部に被爆者の頭蓋骨の一部が付着した鉄兜、

爆心地からおよそ700mの場所で被爆した女学生の、

お米が真っ黒に炭化したお弁当箱など、

実際に、昭和20年8月9日の長崎で

一瞬にして姿を変えたものたちが

数多く並べられています。





私が長崎の原爆資料館で印象的だったのは、

原爆による被害の実相を伝える展示の次に、

「核兵器のない世界を目指して」というコーナーが

同じくらいのボリュームで設けられていたことです。

核兵器開発の歴史や戦後の国際情勢、

世界の反核運動などを

年表でわかりやすく展示したり、

現在でも核兵器が著しく改良されていること、

使いやすく小型化されていること、

核実験の回数など、

現在の核兵器に関する情報を

映像資料などで解説しています。

原爆がもたらす非人道的な悲惨さを訴えた上で、

これからの世界に本当に核兵器が必要かを

来場者一人一人に問うているこの資料館からは、

なんとしても

長崎を最後の被爆地にしなけらばならない

という想いが伝わってきました。 





 

戦後75年となる今年、

新型コロナウイルスの感染拡大により

当たり前の日常が当たり前ではないと強く感じる今、

戦争と平和について

皆さんはどのように感じたでしょうか。

平和も、当たり前のことではないのかもしれません。

私たち一人一人が

つくっていかなければならないものかもしれません。





☆次回は広島編を公開したいとおもっています。