【平和学習企画】あかねーねが行く、祈りの旅~沖縄編~ | 井坂茜ブログ!あかねこ★進化論*。

毎週月曜日に生放送を担当している

エフエム西東京「Pop'nタワー♪」の中で、

2018年8月に4週にわたりお届けした

平和学習企画『あかねーねが行く、祈りの旅』


私が【戦争】を描いた作品の勉強のため

現地へ行き、見て・聴いて・感じたことを

レポートしたこのコーナーの原稿を

公開していきます。



長崎編はこちら


広島編はこちら




今回は、私が2017年から3年続けて出演した

ミュージカル「ひめゆり」の舞台、

沖縄本島南部を旅した時のレポートです。






2018年8月13日(月)放送

平和学習企画「あかねーねが行く、祈りの旅」


〜沖縄編〜






1945年6月23日、

沖縄守備隊 第32軍司令官の牛島満中将が自決し、

沖縄戦終焉の地として知られる

沖縄本島南部 糸満市 摩文仁の丘。


この丘を南に望み、

海岸線を眺望できる台地に広がる平和祈念公園には、

国籍を問わず沖縄戦で亡くなられた

すべての人々の名前を刻んだ「平和の礎」

沖縄戦の写真や遺品を展示した「平和祈念資料館」

戦没者の鎮魂と永遠の平和を祈る「平和祈念像」

などがあります。

 

平和の礎へと向かう橋の手前に、

「全学徒隊の碑」があるのをご存知でしょうか。

昨年3月14日に建立されたばかりの新しい慰霊碑です。




沖縄戦に動員された学徒隊というと

「ひめゆり学徒隊」がよく知られていますが、

実は、男女合わせて21もの学徒隊がありました。


今日は、

まだあまり知られていない学徒隊の慰霊碑を、

すこしだけご紹介します。

 



平和祈念公園の南の端っこに

「沖縄師範健児の塔」はあります。

平和の礎や資料館から離れたこちら側は、

ほとんど訪れる人はなくひっそりとしています。

すれ違った地元の方には

「静かでいいところですよ」

と声をかけて頂きました。


沖縄師範健児の塔は、

師範鉄血勤皇隊として動員され命を落とした、

沖縄師範学校男子部の生徒226名と、

教師19名を含む同窓生290名を祀っています。






 

「鉄血勤皇隊」漢字は、

金属の鉄 血液の血 勤務の勤 天皇の皇 

と書きます。


沖縄県内にあったすべての学校の男子学徒は、

上級生が鉄血勤皇隊に、

下級生が通信隊に編成されました。

主に14~19歳で、その任務は軍の物資運搬や、

爆撃で破壊された橋の補修、

切断された電話線の修復、情報伝達のほか、

斬り込みや、箱に火薬を詰めた爆弾を背負っての

敵戦車への体当たり攻撃も行いました。特攻です。

情報伝達も、同じ文書を3人が持って行くも、

そのうちの1人だけがたどり着くような任務でした。


 

沖縄師範健児の塔の奥に、

摩文仁の丘へと続いている階段があり、

その脇にガマと呼ばれる自然の壕があります。

戦局が悪化し、

軍から解散命令を受けた学徒兵たちが

追い込まれたのがこのガマです。

壕の壁には、

いまも米軍の火炎放射の跡が黒く残っています。




 

昨年亡くなった元沖縄県知事の大田昌秀さんは、

師範鉄血勤皇隊の生存者です。

著書「沖縄鉄血勤皇隊 

人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵」(高文研/2017)

では、戦場で多くの学友を失った

ご自身の体験も交えながら、

全12校の男子学徒隊の編成と活動を

詳しくまとめられています。




女子学徒隊は、

ひめゆり学徒隊 白梅学徒隊 なごらん学徒隊 

瑞泉学徒隊 ふじ積徳学徒隊 梯梧学徒隊 

宮古高女学徒隊 八重山高女学徒隊 がありました。

 

ひめゆりの塔に併設されている

「ひめゆり平和祈念資料館」には、

2016年度およそ58万人が訪れています。


そのひめゆりの塔の隣の

「レストランでいご」の駐車場奥に

「梯梧の塔」があります。

沖縄で一番若い私立女学校だった

昭和高等女学校 梯梧学徒隊の慰霊碑です。






梯梧学徒隊は第62師団 野戦病院に配置され、

負傷兵の看護にあたりました。

5月13日、勤務を終えた学徒たちが

ひと眠りしていたところ、壕の入り口に爆弾が落ち

犠牲となった学徒2名を含む同窓生57名と、

職員3名が祀られています。

 

慰霊碑の横に、歌が刻まれていました。


一人来て 抱きしめて見ぬ わが友の 

名の刻まれし 濡れし碑文(いしぶみ)

 



梯梧の塔から歩いて5分程の距離に

「ずゐせんの塔」があります。

沖縄県立 首里高等女学校の学徒隊で、

瑞泉学徒という名称は、

首里城内の瑞泉門近くに学校があったことから、

戦後つけられたとのことです。







軍命による南部撤退後の6月23日、

まさしく沖縄戦の組織的抵抗が終わる日に、

瑞泉学徒が身を潜めていた壕が

米軍の「馬乗り攻撃」という、

壕の入り口をふさいで、上から穴をあけ、

ガソリンなどの可燃物を注ぎ込んで

火をつける攻撃の標的となり、

火炎放射器で燻り出されるかのように壕を出るか、

そのまま壕に残るかの究極の選択を強いられ、

その結果この攻撃で25名の学徒が命を落としました。


当時は「降参して捕虜になる」ことは恥だと、

徹底的に教えられていたのです。

学徒として動員された61名のうち、

33名が戦死や自決によって短い命を終えました。

 

ここにも、歌が刻まれています。



この道も この岩肌も 乙女らが 

弾にたたかれ 踏み惑ひしところ







この本島南部のあたりには慰霊碑が集中しています。

それは首里の司令部が陥落し、

撤退した日本軍とともに

多くの学徒隊や民間人も南部へと逃げ、結果、

この地で米軍との激しい戦闘が

繰り広げられたためです。

学徒隊の解散命令の後や、

日本軍の組織的戦闘の終結後も、

そう簡単に攻撃がおさまるはずはなく、

多くの犠牲者を生みました。

 




ひめゆりの塔から北に2.5キロ程離れた、

県道から細い道に入ったところに

静かに建っているのは「白梅の塔」。





沖縄県立 第二高等女学校の生徒たち55名は

「白梅学徒隊」として、

第24師団第1野戦病院に配置されました。

いよいよ敵が迫り病院を撤退する際に、

歩けない患者は足手まといになるため、

青酸カリを飲ませて処置しました。

他の病院壕でも

衛生兵により行われていたことですが、

白梅学徒隊の壕では、

これも学徒の仕事だったようです。

わずか16歳の少女たちの仕事だったのです。

 

病院が解散となった時、

学徒たちは軍と行動を共にしたいと願い出ましたが、

死を覚悟していた兵士たちは、

彼女たちの願いを聞き入れなかったそうです。

白梅学徒たちは数名ずつに分かれて、

逃げるあてなどない南部を目指して撤退しました。

途中8名が砲弾に倒れ、

残り16名がいま「白梅の塔」がある場所に

洞窟を見つけ、身を潜めました。

白梅の塔が、

ほかの学徒隊の慰霊碑と少し離れた場所にあるのは、

軍と一緒に撤退できず、あまり南の方まで

逃げられなかったためかもしれません。

 

彼女たちが武器さえ持たず隠れていた壕に、

6月21日、米軍が馬乗り攻撃を仕掛けました。

この攻撃で6名が亡くなり、

翌日またしても同様の攻撃を受け2名が命を落とし、

後日1名も重度の火傷のため

米軍病院で息を引き取りました。

 

映画「ひめゆりの塔」に出演した

女優の香川京子さんの著書

「ひめゆりたちの祈り 沖縄のメッセージ」

(朝日新聞/1993)に記されている、

元白梅学徒隊の方のお話をご紹介します。


・・・


白梅学徒隊の生存者の一人、大城政子さんは

「白梅の塔」の建っている壕の少し上手の、

仮眠所とされていた壕にいて、

火焔放射器の攻撃を受け、

顔とクビのまわりにひどい火傷を負いました。

あまりの痛さに何時間もがいていたかわかりません。


気がついてみると、友だちを含む4人が

足や目をやられて苦しんでいました。

「もうだめだ、自分たちはここで死ぬんだ」

と思って、用意してあった手榴弾を探すのですが、

どこへ行ったのかなかなか見つかりません。


そのとき、壕の奥でとっくに死んだとばかり

思っていた一人の重傷の兵隊が、

声をかけてきたのです。


「あんたたち、死ぬんじゃないよ。

がんばって生きるんだよ」


自分はもう生きられない、とあきらめた人が

最後の力をふりしぼって、

死のうとしている大城さんたちを励まし、

助けようとしたのです。

自分の代わりに生きてほしいという

願いだったのかもしれません。


・・・

 

「白梅の塔」に刻まれている名前を眺めていると、

ここまで連れてきてくれたタクシーの運転手さんが

ぽつりと、

「私と同じ苗字の方もいますね、

親戚かもしれません」とおっしゃいました。

県民の4人に1人が亡くなったといわれる沖縄戦は、

沖縄の人々にとって、

いまもすぐ近くに横たわっている歴史なのだと、

強く感じるひとことでした。

 

 







私がこの旅で、今日ご紹介した以外にも、

とにかく沢山の慰霊碑を巡ろうと思った理由は、

民宿のおかみさんが

「ひめゆり学徒隊だけじゃなく、他の学徒隊や、

食べるものもろくになかった民間人、

いろんな人がいろんな経験をしてる。

ひめゆりみたいに

沢山の人が手を合わせてくれることで、

成仏していく魂もあると思うから、

あまり知られていないところにも行ってみてほしい」

と話してくださったからです。


その場所で起きていたこと、

生きていた人を想うことで、

歴史の教科書だけではわからない、

ひとつひとつの命の尊さを噛みしめ

未来へ繋げていけるのだと思いました。

 



2018年に放送した上の内容は、
私が2017年に沖縄を旅した時のレポートでした。
昨年2019年にも沖縄へ行き、
前回行けなかった自然壕の中の見学もしました。
まだまだ知らないことがたくさんあり、
これからも勉強を続けたいと思っています。



次回は、ハワイ・パールハーバー編をお届けします。