九代目七右衛門の徒然日記 -9115ページ目

富士サファリパーク

七五三の翌日は富士山のふもとにある「富士サファリパーク」に行ってきました。ライオンの赤ちゃんを抱っこして写真を撮りました。

トラです。

バスには乗らず、レンタカーで園内を一周しました。

富士宮 浅間大社 七五三

娘の七五三のお祝いで富士宮浅間大社に行ってきました。お爺ちゃんお婆ちゃんたち4人も来てくれました。

お祓いをしました。

本堂の前です。

写真館で記念撮影をしました。

涌玉池の前でも記念撮影をしました。

夜は伯父ちゃん、伯母ちゃん、従兄弟も来てくれて、富士グランドホテルの離れで宴会をしました。

普請の様子


白馬に帰省した時の普請の様子です。この年はかなり大がかりな改修工事をしました。まずは外壁です。建てられて以来、外壁の修理や塗装はほとんどされていませんでしたが、啄木鳥(キツツキ)の穴だらけだった外壁をラスモルタルで下地処理し、漆喰で塗り直すとともに、板張り部分を補修し、木部は古材にあわせた落着いた色のステインで塗装しました。東側です。

西側です。

上雪隠(カミセッチン)は来客用の便所として奥座敷の床の間の裏側に設置されていましたが、ほとんど使われませんでした。ここは基礎をやり直して物置に改造しました。

上雪隠の西側の土間の部分は風呂桶が置いてあったようです。

台所は老朽化した流し台を更新し、南側の廊下だったスペースまで台所を拡張しました。給湯設備や食器洗浄機も導入して、衛生面を強化して近代化を図りました。

床下は食物を保管するように室(ムロ)になっていましたが、近年の暖房の強化によりムロとしての機能を果たさなくなったため、廃止して床は全面フローリングにしました。

西側にあった漬物部屋も床面のコンクリートを打ち直し、棚をこしらえ、勝手口の位置も入りやすいように北側に移しました。

北側の石垣も崩れかかっていたため積みなおしました。

下部にはバラスを敷き、水はけにも考慮しました。

南側の下屋根は建設以来、杉を板状に割って葺いたトントン葺きでしたが、屋根の中にスズメバチが巣食ったり、風化が進行していたため、銅板四ツ切り一文字葺に葺き替えています。

外のトイレも壁を板張りに変更し、内部を物置にしました。

板張り後の写真です。このあと焦げ茶色のステインで仕上げました。


今回の主な改修項目は下記のとおりです。


台所改修 流し更新 食器洗浄機導入

仏壇を茶の間に移設し仏間を通路に変更

旧寝間を物置に改造 一部仏壇にする

外壁の漆喰穴あき部修理

奥座敷漆喰補修

屋外木部 ステイン塗装

南側下屋根 トントン葺きから銅板葺きに更新

上雪隠を物置に改造

奥座敷縁側を板張りからフローリングに改造

前座敷・奥座敷 床束修理

奥座敷押入れを西側に移設

外便所の壁張替と基礎および内部改修

白馬 田んぼの片付け

田んぼの片付けで白馬に帰省しました。まずは囲炉裏端でお茶です。

お婆ちゃんと娘は、田んぼへ出かけました。

コンバインから出てきた稲藁を集めます。

3歳の娘も頑張っています。


お婆ちゃんと一緒に良く働きました。

田んぼからは白馬三山が綺麗に見えました。

"冬季祭典メモリアル記録集"

平成11年10月20日発行"冬季祭典メモリアル記録集"P64に我家が掲載されました。

記録集の表紙です。

クロスカントリー青木富美子さんの応援団の皆さんです。

アメリカABCテレビの取材時の写真です。

我家の全景です。家の周りには各国の国旗を飾りました。

白馬帰省 各部屋の紹介

草刈りで白馬に帰省しました。まず、いつも通り我家の全景です。

今回は、各部屋の紹介をします。まずは前座敷です。座敷は前座敷、奥座敷の二室あり、来客や人寄せの際に、座敷にそのまま上がれるように、前座敷に面して来客者専用の玄関があります。前座敷の押入れの襖絵は、旧家の座敷の押入れのもので、明治時代以前のものと思われます。襖絵の内容は中国唐時代の杜甫(とほ 712~770)が李白(りはく701~762)に送った『飲中八仙歌』です。

奥座敷はこの部屋の上部のみ2階が無く、高天井になっています。天井はこの当時の民家には珍しい吊天井です。奥座敷の床の間は、普通の家の座敷は二間ですが、我家は二間半あり、五尺七尺三尺という配置で、日本の代表的な真の床の間の様式となっています。床の間の飾り戸棚の絵は全部で14枚ありますが、すべて世外伝次郎が描いたもので、大正13年の昭和天皇の御成婚を祝って、「大正甲子御成婚記念」と記されています。中央の壷は、当家の家紋を入れて、家内のお父様が焼いて下さったものです。障子は現在作られるものよりもかなり目の細かいものを使用しています。座敷まわりの障子は新築時のものです。特に奥座敷の書院障子は小谷村の千見の大工さんが、狂いを完全に取るために、雨だれの下で濡らしては干しを繰り返し、丸二年間乾かして作ったものです。

2階の一番奥の作戦室です。作戦室は昭和13年に戦死した七代目の祖父伊藤七右エ門が、戦の計画を立てるために設置したといわれる部屋です。東側に床の間があり、奥の障子を開けると坪庭が見えます。この書院障子も旧家のものをそのまま使っています。

2階の手前の蚕室です。蚕室は昭和35年頃まで蚕(カイコ)を飼っていた部屋で、現在は半分は物置に、半分は客室にしています。

基礎と土台と犬走りの写真です。基礎の布石には、地面の湿気を土台に上げないといわれている村内飯森地区の戸谷石を用いています。この戸谷石はその当時「飯森の地籍外には持ち出してはならぬ」という門外不出のものだったはずですが、どのような手段で入手したものなのか、未だにわかっていません。土台は最も腐りにくいといわれているクリの木を使用しております。

今井浜東急リゾート

今井浜東急リゾートに行ってきました。子供用のまあるいプールです。

大きなプールの前です。

伊豆 外浦海岸

今井浜に行く途中、外浦海岸に寄って行きました。天気も良く、海水浴を楽しむことができました。

七夕で白馬に帰省しました

1か月遅れの七夕で白馬に帰省しました。我家の全景です。

土蔵の横から竹を切ってきて娘と飾り付けをしました。

娘はお爺ちゃんとキュウリの収穫です。

たくさんとれたキュウリやナスと一緒に我家をバックにチーズ。

帰る前に玄関で記念撮影をしました。

大糸タイムス「いろり火燃える民宿」

大糸タイムスの平成11年7月10日号の中の、「白馬・小谷この里にこの人あり」というコーナーで「いろり火燃える民宿」というタイトルで父のインタビュー記事が掲載されました。

記事の内容は概ね下記のとおりです。

かやぶき屋根といろりは日本人の郷愁を誘う。白馬村南部の東山山麓にある小さな集落内山で、かやぶき屋根を守り、かたくなにいろりの火を燃やし続け、「白馬らしさ、田舎らしさ」を守り続けて、お客さんを迎えている民宿がある。(聞き手・大糸タイムス社水久保節記者)

-大きな家ですね。

大正9年に建てられたものです。建坪は80坪あります。養蚕農家でしたので、いろりのある家としては珍しく総2階造りです。2階も65坪あります。このような形の民家の中では、新しいほうなのです。今では、村一番の“おんぼろ民宿”ですが・・・。

村には宿泊施設が850軒程ありますが、そのうちペンションなど洋風の宿が260軒ほどあります。昭和50年代から急速に都会化され、閑村が一気に観光の村に変貌しました。

-かやぶき屋根にいろりが似合いますね。

今、かやぶき屋根やいろりがちょっと見直されています。白馬の良さや白馬らしさということでしょうか。都会の人は、白馬に来て泊まるだけでは満足できないのでしょうか、ここに来ると田舎を体感できるのだと思います。

-いろりのある家はほんとうに珍しくなりました。

白馬村には三千数百軒ありますが、昔のままいろりが残っているのは4軒だけと聞いています。しかも日常的に使っているのは我家だけだと思います。

-いろりに対してここまでこだわるのは何故ですか。

昔はいろりの回りに、年寄りも、若夫婦も、孫もいて、一家団欒の場でした。お客さんも一緒にいろりを囲んでいました。村の公民館長をしていたとき、“いろり”という事を盛んに言ったものです。“公民館は村のいろり”だと。

それと終戦の年の9月1日、夜の11時頃、戦地から帰宅し、玄関の戸を開けると、祖父も祖母も母も部屋から飛び出してきて、すぐに囲炉裏の火を焚きつけてくれました。その時の囲炉裏の温かさは一生忘れることはできません。今、いろりの温かさが忘れ去られているのではないでしょうか。

-かやぶき屋根の維持管理には大変なご苦労があるのでしょうね。

かやぶき屋根の職人さんはまだいらっしゃるのですが、かやが無いのです。昔はかや普請があり、集落内で順番に葺き替えをしていました。どの家でも秋になるとかやを刈って葺き替えのために蓄えていたのです。21件あるこの集落のかやぶき屋根も年々減り、今は2軒だけです。

-今、一年にどのくらいのかやを確保されているのですか。

せいぜい二百束です。この家を全部葺き替えると、五万束ほど要るでしょう。一度に全部葺き替えるのは不可能な事です。今では親戚のかやぶき屋根と1年おきに交互で部分補修をしています。

-大変ですね。

正直言って大変な事です。白馬のよさ、田舎らしさをいつまでも残したいのです。もっぱら観光用という事にもなりますね。

宿泊客は50歳から70歳の中高年者が多いですね。若い人が電話で予約を問い合わせてきて、「農家ですが、いいですか?」と聞くと、「農家ですか。」と電話を切る人もいるのです。寂しいですね。

-公民館長はどんなきっかけで?

戦後、青年団活動をやっていまして、34歳の時、村議会議員に推薦されて、一期で辞めた年に副館長に命ぜられ、翌年から12年間、公民館長を務めました。公民館活動は大衆にあまねく陽を当てるようでなければならないと努力しました。日陰の草までと。

-どんなことを?

12年間に、特に力を入れてやってきた事は2つです。ひとつは村内めぐり、ふたつめは生活改善による公民館結婚式です。

まず村内めぐりですが、昭和40年代、村民が村内28集落をバスで巡るという企画が、意外と受けたのです。この時代の村内の急激な変わりように村民自体が追いついていけなかったのか、新しく村に来た人たちが、白馬の事を知りたかったのか-だったのでしょうか。

2番目の公民館結婚式ですが、式場でやる結婚式は当初、家でやるよりは余計に人を呼ばなくてはならなくなり、費用がかかると反対されました。しかし公民館でやる公営結婚式は、費用も安く済み、家の中を準備する労力や料理の心配もしなくてすむので評判となり、私の在職中に、486組が式を挙げました。春と秋に集中し、一日に4組やった事もありました。

-戦後50年の平成7年には、村内の戦没者の事を記録した「国の鎮め」を発刊されましたね。

明治27年の日清戦争、37年の日露戦争、そして昭和の日中戦争、第二次世界大戦で亡くなった村内関係者は215柱です。

-どういうきっかけで?

父親が昭和13年10月3日、北支(中国北部)で39歳で戦死しました。私が12歳の時でした。村の遺族会長を務めたりしてきたのですが、何か胸につっかえたままでした。父の供養と、後世に戦争の事を残そうと思ったのです。

始めたのは昭和60年でした。当初は戦歴と顔写真だけ載せる予定でしたが、それでもなかなかはかどりませんでした。途中で、戦死者の遺族や親戚、知人を一人づつ訪ね、さらに思い出も綴ってもらうようにしました。

しかし従軍慰安婦や南京大虐殺がクローズアップされ、どう考えれば良いか分からなくなり、しばらく全く書けなくなってしまいました。

ある遺族に「父は被害者であり、加害者でもあった。もう絶対に戦争をやっちゃいけない!」との悲痛な叫びに励まされ、10年かかってようやく発刊にこじつけました。

世界では、今でもどこかで戦争が起きています。もう決して戦争に巻き込まれてはなりません。