巨人(24)tightrope ③ Emperor(中編) | まつすぐな道でさみしい (改)

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 この男は、いったい幾つの人生を生きて来たのだろうか…


 内務官僚として治安維持に奔走し、共産主義者を容赦なく弾圧した警察官。


 倒産寸前の新聞社を買い取り、世界一の発行部数にまで押し上げた経営者。


 日本にプロ野球を定着させた興行師。


 A級戦犯に指定されながらも見事にカムバックを遂げた、したたかな世渡り上手。


 街頭にテレビを設置し、CM収入を成り立たせたアイディアマン。


 力道山・木村政彦とシャープ兄弟のテレビ中継。原子力発電の導入。ゴルフ場と遊園地を併設した巨大レジャーランドの建設。Jリーグの先駆けであるプロサッカーチーム東京クラブ…


 面白いのはこの正力という男、日本プロ野球の父、原子力発電の父などと呼ばれながらも、野球のルールなど覚える気もなく、原子力に関しては小指の先ほどの知識も持ち合わせていなかった。


 ここに挙げられた業績の多くは、彼のもとに集まった優秀な部下達が大正力の名を借り各々の夢を具現化した物であり、もしかすると純粋にこの男が興味を持って携わったのは、プロレスくらいだったのかも知れない。


 そんな毀誉褒貶相半ばする男がメディア王への道を歩み始める切っ掛けとなった。





 あの事件とは…

 





大正12(1923)年 12月27日
東京都港区虎ノ門公園前






『あのような場合には、どんな警衛も無駄である』





午前10時50分
 牧野宮内大臣を乗せた第一後駆車は、貴族院玄関で御料車に追いついた。

 皇太子は徳川貴族院議長の先導で天皇の休憩所である便殿に入って行くところだったが、牧野はこのとき星野警部より、侍従長が負傷していることを聞かされた。





東宮従事長・入江為盛




午前10時32分
 摂政宮・皇太子裕仁親王は、第四十八通常議会開会式に望むため赤坂離宮を出発する。

 天皇や皇太子の外出の際、儀仗を備えた行列を鹵簿(ろぼ)という。鹵は矢を防ぐ大盾、簿は天子の行列の順序を記した帳簿であり、律令制下においては行幸のみに限っており、従来馬車仕立てであったが、第一次対戦後に普及した自動車をこの年から宮内省でも採用していた。

 鹵簿の先頭はオートバイが行く。先駆自動車には警視庁の相川監察官が乗り込み、50メートルの車間を置いて皇太子の御料車が続く。広い窓には、陸軍歩兵中佐の礼服を召した摂政宮と陪乗の入江為盛・東宮従事長の姿が見える。その後に第一、第二  … と後駆車が続き、7台の正式鹵簿の車列は赤坂離宮から溜池、虎ノ門を経て国会議事堂へと、約3キロの道程を時速20キロでゆっくりと歩を進め、沿道の到るところに殿下を一目見ようという群衆が心待ちに集まっている。


 警衛は主に警視庁が当たるが、憲兵隊がこれを助け、3キロの沿道に44メートル毎に一人ずつ、138名の制服警官が両側に並び、更に騎馬警官7騎、52名の私服警官や幹部を含め総勢240名の警官が警備に当たった。

 このとき警視庁では、関東大震災後の動揺がようやく収まったとはいうものの、まだ治安維持には万全を期しがたいとみており、警衛の責任者である正力松太郎はオートバイの警衛隊を付けるよう主張していたのだが、お側近くに巡査を付けることは畏れ多い」と宮内省からの反対があり却下されている。



午前10時42分
 赤坂の虎ノ門交差点にある西洋家具店「あめりか屋」の前では、5、60人が二重三重の人垣を作って、皇太子殿下の御料車を待っていた。

 御料車の列が、虎ノ門公園前に現れたのを見た群衆は静まり返り、憲兵や巡査は自動車に向かって不動の姿勢をとる。


 人道の西側の角に立っていた私服巡査・西璋二は、人々の行動にさりげなく注意を払った。皆が帽子を取って敬礼しているのに、一見労働者風の青年だけが鳥打帽(ハンチング)を被ったままである。

「不敬な奴だ」と思ったその瞬間、前の人を押し退けてその男は飛び出していた。西巡査はすぐ後を追いかけたが、何も持っていなかったはずの男が、目の前で上体を斜めにし前屈みに銃を構え発砲した。


 御料車を運転していた隈部一郎は、虎ノ門交差点で左にハンドルを切ろうとした時、突如発砲音を耳にした。

 とっさに振り返ってみると自動車の右側30センチ程離れたところに、何か棒のようなものを手に握っている男が見え多少速度を緩めたが、助手席の星野警部に「速度を上げろ!」と言われ、慌ててアクセルを踏み込む。このとき、時計を見ると10時43分だった。


 御料車に陪乗の従事長・入江為盛は、突然の音響を聞いて音の方へ顔を向けた。その瞬間、顔に何かしらバラバラとかかるような気がした。一方、皇太子には一向に変わった様子も見受けられなかったのでひとまず安堵した。

 一体どういうことがあったのか? 突然のことで何も分からなかったが、自動車がスピードを上げた際に振り返ると、後方で大勢の者が男を取り押さえているが見える。

 視線を正面に戻すと入江の手袋には血が滴ちている。

 ハンカチを取り出して顔を拭うと血がついており、そこでようやく彼は自分が負傷していることをに気付く。













 私の行為はあくまで正しいもので、私は社会主義の先駆者として誇るべき権利を持つ。しかし社会が家族や友人に加える迫害を予知できたのならば、行為は決行しなかったであろう。皇太子には気の毒の意を表する。私の行為で、他の共産主義者が暴力主義を採用すると誤解しない事を希望する。皇室は共産主義者の真正面の敵ではない。皇室を敵とするのは、支配階級が無産者を圧迫する道具に皇室を使った場合に限る。皇室の安泰は支配階級の共産主義者に対する態度にかかっている。

大正13(1924)年10月1日 最終陳述
山口県熊毛郡周防村二百五十七番地
難波大助(26歳)







テロリズム
 入江為盛の視線の先で大勢の者に取り押さえているのは、共産主義アナーキスト 難波大助。この男が世に言う虎ノ門事件の実行犯である。


 確か難波大助の犯行の瞬間を目撃し、犯人を逮捕することになる私服巡査・西璋二は、何も持っていなかったはずの男がと言っていたのだが、正確には怪しい物は何も持っていなかったと言うべきだろう。

 このとき難波大助が手にしていたのは、外見はまったくステッキにしか見えないのだが、折り曲げるとピストルが現れるという実に精巧な仕掛けの仕込み銃で、これはもとを正せば初代内閣総理大臣・伊藤博文の持ち物であったらしい。


 しかし、なぜそのような代物がテロリストの青年の手に渡ったのだろうか?



 取り調べの結果、この青年は山口県選出の代議士・難波作之進の四男の大助で、事件3ヶ月前、関東大震災直後に起った大杉事件、亀戸事件、王希天事件などの労働運動弾圧に対する憤りから、摂政宮暗殺を企て犯行に及んだと判明しているのだが、ここで注目したいのは難波大助の故郷が山口県熊毛郡周防村、つまり現在の光市であることだ。

 山口県光市といえば初代内閣総理大臣・伊藤博文の出身地で、いわゆる長州閥のど真ん中と言える土地柄。

 難波家は筋金入りの勤皇の家系で長州閥における「右派」の急先鋒であった。四男大助も当然の如く勤皇少年であったが、衆議院議員だった父親への反発から、マルクス経済学者・河上肇の論文に影響を受け、家族のなか1人だけドロップアウトし共産主義者への道を進んでいる。


長州閥
 大助は家宝であった伊藤博文のステッキ銃を無断で持ち出し、今回の犯行に及んでいるのだが、なぜそのような物が難波家に所蔵されていたのかといえば、もとよりこの連中はみんな親戚同士なのだ。

 そもそも難波大助が影響を受けた河上肇もまた長州閥であり、岩国市の出身であった。戦後に共産党書記長になった宮本賢治もまた光市出身であることからも分かるように、長州閥とは上層と下層から成るいわゆる「マッチポンプ集団」であった。

 そのために総理大臣からテロリスト、尊王主義者から共産主義者という両極端の人材を輩出し、下層の反体制派が上層の権力者に逆らう状況を作り出すことで支配の口実を生み出すというまるで新日本プロレスのような巧妙な仕組みになっており、大助が人間凶器と化していくのは、そもそも彼のような「人材」を生む環境が長州閥には初めから用意されていたのだ。










第16代、第22代内閣総理大臣
山本権兵衛




『あのような場合には、どんな警衛も無駄である』



 この言葉には皇太子殿下の「誰の責も問うてはならん」という警衛関係者への気遣いが込められていたのだが、当然ながら現人神である摂政宮・皇太子裕仁親王殿下に銃口が向けられるという大失態を前に、何事も無かったように平穏な決着などあろう筈が無い。


  この事件を受け、山本権兵衛内閣は即日総辞職。

  警視総監湯浅倉平、警視庁警務部長の正力も引責辞任。


 大助の出身地である山口県知事は2ヶ月間、2割の減俸処分が下され、出身小学校の校長と担任は教育責任を取り辞職。

 さらに京都府知事に至っては、大助が上京の途中で京都に立ち寄ったというだけの理由で譴責処分。

 当然、これほどの大事件の実行犯を出してしまった家族の方はこの比ではない。

 大助の父・衆議院の難波作之進は、息子の事件の報を受けると即刻辞表を提出し、閉門の様式に従い自宅の門を青竹で結び自宅の一室に蟄居、食事も十分に取らず大助の処刑後約半年でその生涯を終えるのだが、これは事実上の餓死自殺であった。




 こうして警視庁No.2のポジションにあった正力松太郎は野に下ることになるのだが、おもしろいのは難波作之進の死後、この選挙地盤は光市出身で南満州鉄道副総裁の松岡洋右が引き継ぐのだが、敗戦後A級戦犯として投獄された松岡が死亡した後には、岸信介、佐藤栄作兄弟にそのバトンが渡されたということを考えると、今から96年前に初代内閣総理大臣の仕込み銃から放たれたこの1発の銃弾が、今なお私たちの生活に大きな影響を与えていることが理解出来るだろう。



 それはともかく、随分と時間を空けてしまった感はあるのだが、正力松太郎を語る上で避けては通れない、あの試合の話をそろそろ始めよう。















 
 
 
tightrope

















コレは
 
の続きです。