露国の革命はかまどから起こった。独逸の軍国主義も昨今ようやくその国内のかまどから呪われている。東西水橋もしくは滑川町の窮民一揆によりて恐るべき社会的狼煙はあげられた。警察力を以ってこれを鎮圧するのは容易だとしても、かれらの絶叫に共鳴した思想はどうして鎮圧できるか
(越中女一揆 大正7年8月7日『高岡新報』)
大正デモクラシー
正力の警視庁時代は、ロシア革命、米騒動、普選実現要求と、デモクラシーを求める民集のうねりが急速な高まりを見せた時代。
正力にとって群衆とは、父祖たちからいつも聞かされ、自分自身も濁流にのみこまれたことがある故郷のあばれ川、庄川のようなものだったのかも知れない。群衆も川も放っておけば氾濫を繰り返し、とりかえしのつかない事態を招くという点では同じだった。正力の秋霜烈日を地でゆく大衆弾圧の裏には、職務に対する忠実さ以上に、幼少期から刻み込まれた川への恐怖心が横たわっていたように思える。正力が “治水” の発想をもって群衆を取り締まったのは、群衆という名の存在が、父祖たちを絶え間なく苦しめてきた自然の化身と見えたからに違いない。
「総監、米騒動のことですが、これはえらいことになりますよ。いま神戸や大阪はたいへんな騒ぎのようですが、これは必ず東京に飛び火します。いまから万一に備えて警戒する必要がありますよ」
この時代の象徴的出来事で有り、警視庁内で正力の名声を一気高めたのは米騒動と呼ばれる一連の騒動だろう。
1918(大正7)年 この年11月、日本が戦勝国として終結する第1次世界大戦は、戦争特需による多くの戦争成金を産むなど、日本に莫大な富をもたらし、国民はいっときの戦争景気に浮足立っていた。
それまで養蚕に収入を頼りヒエや麦を食べていた農家までもが、輸出の増大による単価上昇を受け、米を主食とするようになるなど、国民の生活レベルは一気に向上しているのだが、更なる収入増を求め農村部の労働力は工業労働者として都市部に集中する。
この流れの先に何が待ち受けているかは大方想像出来ると思うが、当然ながら徐々に物価は上昇カーブを描き高騰していく。なかでも米価の暴騰は顕著で、消費の拡大に対して農業従事者の減少、戦争の影響で米の輸入量が減ったことなどが重さなり、その価格は前年の2倍以上に跳ね上がっている。
『 んだから~ 福島の米さ、よそさ持って行がねぇでくなんしょ』
資本主義経済の原理として商品はより高値で取引される場所に流通され、米もその例外ではなかった。
米価高騰は人々の生活を困窮させ、7月上旬から富山県中新川郡東水橋では、25人ほどの女陸仲仕たちが米の積出し停止要求に日参する行動が始まってる。『米をよそに出すことをやめて欲しい』と、米問屋や資産家に嘆願していたのだが、この富山の一漁村から始まった米騒動は新聞の報道により全国に知れ渡ることになる。
まず最初に取り上げたのは福島県の地方紙上記8月7日の『高岡新報』だが、その内容を見る限り、日本のマスコミは60年安保どころか、既にこの時代からロシア革命の影響を受け左傾化していることが伺える。
(参照 巨人(22)tightrope ② 巨怪伝)
この報道を皮切りに福島の米騒動は全国の新聞に取り上げられることになるのだが、特筆すべきは大阪朝日新聞の記事だろう。
この米騒動の報道の中で大阪朝日新聞は、『戦時特需を利用して急成長した新興財閥(成金)の鈴木商店は、米の買い占めを行っている悪徳業者である』と連日攻撃していた。
これにより米価の高騰に苦しむ民衆の反感を買った鈴木商店は、8月12日 神戸の本社ビルが焼き討ちされ、京都では米問屋を打ち壊し一升30銭での販売を強要するなど、最初は米をよそに出すのをやめて住民に安く売って欲しいとの哀願だったものが、次第に米問屋に対する寄付の強要や暴動にまで発展、こうした「値下げを強要すれば安く米が手に入る」という実績は、瞬く間に市から市へと広がり、新聞報道に煽られる形で全国規模の暴動に発展している。
約50日間に渡る一連の騒動は1道3府37県 計369ヶ所で発生。騒動の参加者は100万人を超え、これを鎮圧するために投入された兵力は延べ57.000人以上。呉市では海軍陸戦隊が出動し民衆と対峙する中、銃剣による死者が少なくとも2名との報告。重傷者千余名、検挙された人員は25,000人以上、8,253名が検事処分、7,786名が起訴、第一審での無期懲役12名、10年以上の有期刑59名。また、一部民衆を扇動したとして和歌山県で2名に死刑の判決。近代日本史上最大の民衆蜂起に発展した。
大阪朝日新聞の捏造記事により焼き討ちされた鈴木商店
何も読まない者は、新聞しか読まない者より賢い。なぜなら、嘘を信じる者より真実に近いからだ。
(第3代アメリカ大統領 トーマス・ジェファーソン)
この鈴木商店焼き討ち事件は、地主階級を基盤とした政府、それと結託した独占資本の財閥に対し、蹶起した民衆が生活の苦しみを知らしめた最初の国民運動で、大正デモクラシーの象徴的出来事として語り継がれ、長い間 “鈴木商店は潰されて当然の悪徳企業” と思われていたのだが、現在ではこの鈴木商店へのネガティブキャンペーン自体がまったく根拠のない朝日新聞社の捏造記事であり、新聞社の情報操作による風評被害で企業が倒産に追い込まれた。マスメディアの黒歴史の1つとして語られている。
噂の真相
この民衆の怒りを一気に爆発させることになる鈴木商店は、米騒動が勃発する2年前の1916(大正5)年 当時では珍しいコロニアル風建築物であった神戸の「みかどホテル」を改修して本店とし、翌年には売上で日本一の総合商社となっていた。
鈴木商店はその登場と同時に、日本人がまだちょん髷を結っていた時代から歴史を積み上げ、その激動の時代を支えて来た三井、三菱などの老舗大財閥を一気にゴボウ抜きにし、いきなりトップの座に躍り出たまさにこの時代を象徴するのような戦争成金で、鈴木商店本社ビル焼き打ち事件は、そんな鈴木商店の絶頂期を突然襲った出来事だった。
大阪朝日新聞に『鈴木商店が米の買い占めを行ない、米価を釣り上げている元凶である』と報道されていた頃、確かに鈴木商店は大量の朝鮮米を買い付けていた。
しかし、これには政府の要請により海外から米を輸入することで米価を安定させるという目的があり、実際にこの朝鮮米は国産米より安値で市場に流通され、国産米と変らぬ品質で安く買えると庶民からは好評を得ていたという。
本来この戦争特需とは輸出の拡大により多大な利益を産むものであり、この状況はむしろ儲けの少ない米の輸入に尽力している庶民の味方と評価されてるべき行動だと思うのだが …
この記事によって世論は一転『政府と結託した成金野郎が調子に乗りやがって! 』という方向に傾いてしまう。
しかし、なぜこのとき大阪朝日新聞はこのような捏造記事を書く必要があったのだろうか?
1879(明治12年)年1月25日 に創刊1号が発行され、現在でも日本の3大新聞の一角を担う、全国紙の大阪朝日新聞(現・朝日新聞)たが、その始まりは伊藤博文が政府と三井銀行に資金援助をさせ、政府の御用新聞として誕生している。
この新聞社は明治14~26年までの間、政府から極秘の資金援助を受ける代わりにある密約を結んでいる。
この密約の重要な点は、『大阪朝日新聞』が政府を表面的に弁護することはなく、「中立ヲ仮粧シテ」みせることだった。これは政府のきわめて巧妙な新聞政策で、当時「多事争論」といわれた様々な言論活動をうまく統制するために「中立」言論を育成し、新聞界での支配権を握るためのものだ。
また明治21年 には、伊藤博文の腹心・伊東巳代治が、まったく同様の理由で『東京日日新聞』を買収し、伊藤系長州閥の御用新聞としているのだが、これが現在の毎日新聞となっている。
この創立の経緯を見れば、メインスポンサーである三井財閥と敵対関係にあった鈴木商店、そして大阪朝日新聞の間に何があったのかは容易に想像出来る。
これはいつの時代にも共通して言えることだが、 良い評判というのはなかなか拡がらない反面、悲しいことに悪い噂やバッシングの類は、その真偽とは別にあっという間に拡散し、多くの賛同者によって運動にまで繋がることとなる。
悪意はたやすく人の心に入り込み、そして感染する。
米価暴騰問題に付市民諸君に御相談仕候間有志家及び生活難の御方は来る十三日午後六時(雨天順延)日比谷公園音楽堂前に御来会被下度候也
(大正七年八月十日付 東京朝日新聞)
対峙
帝都東京に革命の狼煙を上げたのは、反骨のジャーナリスト宮武外骨だった。
この新聞記事を見た警視庁はすぐさまこの集会を禁止し、宮本も保護観察下におかれた。一方、8月13日の日比谷集会が民衆蜂起の火口となるとみた正力は、前日までに以前からマークしていた社会主義者など、暴動を先導すると目される運動家26人を予備検束しこの日に備えている。
「全員オレと一緒になって離れるな。聴衆には目もくれるな。演壇で扇動している奴だけひっ捕らえろ」
この日の正力は3度出動している。市内各所で行われる集会で警察は群衆との直接対立を避け、聴衆を掻き分け演壇で扇動している演説者のみを次々と逮捕し解散を命じるのだが、野次馬化した聴衆はいったんは四散するものの、その大半がまた別の集会を目指し集結することでその規模は徐々に拡大し、勢いを増した群衆は暴徒化していく。
日比谷より銀座に出でし一団は最初五、六百名なりしが、銀座に出ずるやたちまち倍加し千余命となり、銀座通りにて二隊に分かれ、一隊は銀座二丁目より新富橋に出て他の一隊は日本橋を広小路より兜町方面に出でしが、途中の一商店等は群衆殺到と聞くや、被害を虞れていずれも灯火を消し、戸を閉ざし軒火まで消したれば暗黒となり、電車また一時運転を休止せるが、群衆は処々に投石などして鎧橋に至り合わせるが、ここには警察庁、久松署より派遣せる警官三百名、橋手前にて喰い止めんとせるも、群衆は鬨をあげて警戒線を突破し、鎧橋を渡って蛎殻町方面に雪崩入り …
(大正七年八月十四日付 東京日日新聞)
正力にとってこの夜3度目になる出動、このとき時計の針は既に午前零時を回っていた。群衆が雪崩入ったその蛎殻町には米取引所があり、コメの仲買人も蝟集している。正力が駆け付けたとき群衆は雨戸を閉ざした商店めがけ投石の雨を振らせている最中で、その石の雨を掻い潜り突進する正力の頭部を突然、丸太ん棒で殴り付けられるような激痛が襲う。
当時、既にかなり残念なことになっていた正力の頭に命中した石は大きく、傷の深さは骨膜まで達し、頭から吹き出したおびただしい血は白の夏服を真っ赤に染める。
部下の静止を振り切り怯まず突き進む正力は、青白いガス燈の下にひとり仁王立ちし群衆を睨み付ける。
群衆の前に突如としてライトアップされた血塗れのハゲ …
その幽鬼のような壮絶な形相に群衆は手を止め、夜の町を揺るがしていたどよめきもぴたりと止まった。
後に正力は警視庁時代の回顧談を依頼され、警視庁幹部を前にこの時のことを次のように述懐している。
「もし私が負傷しなかったならば群衆は一層暴動化したと思います。私は当夜、暴動が私の勢いに圧せられて鎮静したと思うておりましたが、むしろ私の悲壮な姿が彼等を反省せしめたものであります。当夜は薄暗く、しかも前述せる如く蛎殻町一帯の軒燈はことごとく破壊せられて電柱の上高くアーク燈のみが輝き、私たった一人が真っ白の制服で顔面や首に鮮血を流しながらアーク燈の青白き光に照らされ、剣を手にとっておった姿が、元来殺意なく単に野次馬気分の群衆をして自ら鎮静せしめたと思います。この点また群衆の取り締まり上考慮すべきことであります」
このとき、政府内では外相の後藤新平などから戒厳令の発動をすべしとの声も上がったが、内相の清水錬太郎は「現在の騒動の程度なら警察力で鎮圧できる」と反対し、戒厳令の発動は取りやめられている。
この日、血だらけの姿でガス燈の下に立ったのは、後に大衆操作の達人と呼ばれる正力が群衆を鎮撫するための劇場的演出だった。
恐らくこのとき警察が群衆と武力衝突していれば、東京も呉市や神戸のような大規模な暴動発展してただろう。
例え個々としてはなん殺意も持たない民衆も、群衆に混ざることで個人のモラルは最低レベルにまで低下し、無責任で衝動的に行動しやすくなる。ある者が石を投げたり、物を壊したりすると多くの人間が同調し止められなくなるという、群集心理を知り抜いた正力は、血塗れの自分の姿を晒すことで、群衆から個へのアイデンティティへと訴え掛け祭りの終わりを告げた。そして最大の爆発ポイントをずらされた東京の米騒動は鎮静化へと向った。
米騒動鎮圧後の正力は、本人自身も「私ほど進級の早いのはいません」(週間文春1965年 4/19号)と語るほどの猛スピ-ドで昇進し、1921年(大正10)年 36歳の若さで警視総監に次ぐ警視庁No.2のボジション官房主事となり、高等課長を兼任するのだが、この正力ボジションは、現在のお巡りさんをイメージするとかなり乖離が生じることになる。
天皇制警察国家とも呼ばれるこの時代、「官房主事」とは、総監の幕僚長として、あらゆる機密に参画することが出来、特に政治警察の中心として頗る重要な役割を持っていた。一般政治情報の収集はもとより、政治家の操縦、思想関係、労働関係、朝鮮関係、外事係の元締め的地位にあり、「高等警察」とは、その最高司令塔であり、特高はその一セクションに過ぎず、専ら思想や文化関係を担当する特別高等係という組織であった。「官房主事兼高等課長」ともなると、総監の下で実際に仕事をこなす地位であり、政府の政策遂行を心得て、内閣書記官長、内務大臣、警保局長と直接連絡し、与党の幹事長とも太いパイプを持っていなければ勤まらない政界を監視するような職務でもあった。
この当時は貴族院があり衆議院より政界を動かす力は強かったのだが、正力は貴族院のメンバ-即ち華族と親しくなり、また次期総理と噂される後藤新平や財界世話人と言われた郷誠之助などと昵懇になっている。当然これに裏社会とのパイプも加わるのだが、ここで培われた人脈が正力の後の人生に大きく影響する。
国家権力の中枢に上り詰めたこの時代、正力は徹底した共産主義者への弾圧をおこなっている。
この時代の正力には、革命を旗印に悪戯に民衆を先導する共産主義者に対する深い憎悪や怒りにも似た感情が見て取れる。そしてそれは同様に、無責任に暴動を煽り立てる新聞社に対しても向けられていたのではないだろうか?
次期警視総監も確定といわれた男が、一転メディア王への道歩み始めるのは、あの事件が引き金となるのだが …
これはまた話が長くなり過ぎてしまうので、次の機会にお話しすることにしよう。
編集後記
正力のプロフィールを紹介するため米騒動を取り上げ文字に起こしていく中、私はデジャヴにも似た不思議な感覚に幾度ともなく襲われた。
空前の戦争景気に沸く中、さらなる高みを求め次々と去っていく労働力 …
残された者たちの、先の見えない時代の閉塞感 …
ぽっと出の成金野郎に、軽々と頭上を飛び越えられたていった者の嫉妬 …
これは本当に私が見たことも無い遠い昔、過去の出来事なのか?
私はつい最近、いや現在進行形でこの米騒動と同じ現象を目にしている。
大阪朝日新聞の捏造記事によって、それまで金の雨を降らせていた新興成金は一転民衆の怒りを買い、憎むべき民衆の敵となる。
時代はこの男が背負って行く! それまでは誰もがそう信じていたのでは無かったのか?
鈴木商店の焼き討ちは、そんな絶頂期に突然襲い掛った悲劇だった。
共通の敵を得た大衆の前では、有ってはならない暴挙さえもがすべて正当化されてしまう。
潮目が変わったのは、オーナーが2億円掛けてオカダをスーパースターにするというプロジェクトを発表したところだろうか?
これが完全に裏目に出てしまう。
これはオネエチャンに刺された後、会社から30歳未満の王者という訳の分からないベルトを持たせて貰った “太陽のエース” や、なんの実績もない新卒ルーキーに前日会見まで開き、いきなり武道館デビューという破格の待遇を受けた “選ばれし神の子” などの例を上げるまでもないだろが …
(参照 熱い夏がやってくる vol.5 ~9)
昔から新日本プロレスのファンというのは、会社からプッシュされている選手に対し、あからさまな拒否反応を示す傾向にある。そこには神輿として担がれる若者の苦悩などは関係なく、兎に角気に喰わないのだ。
なんでオカダだけ? 不公平じゃないか!
金持ってるからって何でも思い通りになると思うなよ!
会社に推されて、作られたチャンピオンなんてぶっ潰しちまえよ!
ファン心理をまったく理解出来ていないマヌケなオーナー発言により、期せずしてオーナーの推すレインメーカーの評価は暴落。
この発言に噛み付き、ファンの支持を得た内藤がベルトを巻くという緊急事態に陥ってしまう。
しかし、アレは本当に単なる失言だったのだろうか?
このところ新日本プロレスに漂っていた閉塞感の正体とは、いったい何だったのか?
プロレスの醍醐味といえば、例えば終焉に差し掛かったアントニオ猪木の前に登場したベイダーのように、スゲーのが出て来たなオイ! こんなん相手に勝てるのかよ? という、巨大な敵に立ち向かう緊迫感であり、格下相手にいくら防衛を繰り返しても盛り上がりはしない。
しかし、昭和の象徴であるミスタープロレスから時代のバトンを引き継ぎ、新日の暗黒期を支えた救世主との一連の王位継承マッチに終止符を打った時点で、オカダ目線で見るとみんな格下ということになってしまう。
唯一残った格上といえる中邑真輔が抜けてしまった後 …
内藤じゃ~役不足でょう?
じゃ~、どんだけ大物連れて来れば良いんだよ?
オカダの前に立ちはだかる巨大な敵が用意出来ない? このカード的に完全な手詰まりな状況が、新日本プロレスを取り巻いていた閉塞感。
しかし、この視点を反抗期の中学生にまで下げて見れば …
だってアイツにはオーナーも付いてるしさ、汚え~んだよ!
まともにやっても敵わねぇんだから、何やっても構わねぇだろ?
兎に角みんなでぶっ潰しちゃおうぜ!
オーナーをバックに付けた巨大な敵、権力者と庶民の代弁者との抗争! どこかの団体のような分かりやすい対立概念が生まれる。
先行きの見えない閉塞感に包まれた大正という時代、大阪朝日新聞は政府と結託した戦争成金という共通の敵を創りだし、民衆の不満の矛先を向かわせることで、地方の小さな諍いを全国規模の大暴動へと発展させた …
プロレスのファン心理をまったく理解しないオーナーの発言を切っ掛けに、新日本プロレスマットには期せずして? 反逆のヒーローが誕生することになり、その空気を一変させた。
情報操作とは、それが行われていることを大衆に悟られないよう周到に準備され、ごく自然に世論を導くことをいう。
本当にあのオーナーの発言は、なんの計算もない単なる失言だったのだろうか?