つづき です。
駐車場からは見えないけれど、
ここからから歩いて少し行くと
右側の石段の上に鳥居がありました。
目的地に到着です。(‐^▽^‐)
説明板や御由緒略記がありました。
御由緒によると、
創建年代は詳らかでないが、
白河法皇が熊野御幸の折り、法皇が通夜された
とあり、往時は熊野九十九王子の古社として栄えていたようです。
現在は明治40年の神社合祀令によって
塔下(とうげ)王子社、橘本王子社、所坂王子社をあわせて、
橘本神社として合祀されています。
説明板には、王子社名の由来が書かれていました。
藤原定家(ていか)は「トコロ坂」、
藤原頼資(よりすけ)は「薢坂」と日記に記しており、
薢は植物の野老(ところ・草蘇)のことで、
この付近に野老が多く自生していたことから、
王子の名が付けられたようです。
(※ 橘本から市坪へかかる坂を「トコロ坂」と言うそうです。)
『紀伊続風土記』では、
「所」の字を当て、所坂王子と呼んでいるそうです。
第11代、垂仁(すいにん)天皇の御代、
田道間守命(たぢまもりのみこと)は勅命(ちょくめい:命令)を受け、
不老長寿の霊果を求めて常世(とこよ)の国に渡り、
艱難辛苦(かんなんしんく)十余年、
ついに橘(たちばな:現在のみかんの原種)を持ち帰るが、
すでに帝は崩御、その御陵に橘を献じて哭死(こくし)したとありました。
その橘がこの地に日本で最初に植えられたと伝えられています。
橘本神社の北方には、時の橘を移し植えたといわれる
「六本樹の丘」が残るそうです。
その実が日本で最初のみかんとなり、
橘(果物)の実で最初にお菓子が作られた
といわれていることから、
みかんと菓子の神様として
全国のみかん、菓子商人から
崇敬されているということでした。
『大正11年12月
皇太子殿下御手播の楠の木』
手水舎
水口が桃と思っていたけれど、
今思えばみかんを模しているのかしら?
あら、先客が!
本殿に到着です。
つづきます。