突然ですが、おかあさんが今年の4月に他界しました。
何度かこちらにお母さんのことを書こうかと思っては…なかなか書く気にならず…。
でも今日はお盆(新盆)なので…書いておこうかな…と思います。
2022年の9月30日に家の中で転倒して圧迫骨折から介護が始まった話はこちらに書きました。
要介護1となった母。翌年2月から訪問リハビリを週1回行い、圧迫骨折が癒えた母はがんばりました。
2023年8月には自分ひとりでトイレへ行き、介助なしで用を済ませることができるようになりました。祝・脱オムツ!
ここからはとても楽な介護生活でした。
母はおおざっぱ且つ、気が強いところがあり、こちらもイライラしたりして、ガミガミ言っちゃったなーでもあの発言は何なんだ
なんてたまに衝突することもあったりもしましたが…![]()
途中2回ほど、ボケのせいか変な妄想?過去のいやなことを「思い出し怒り」して困ったことがありましたが、それ以外は母と娘、まぁまぁ良好と言えるようなカンジで過ごしていました。
2026年2月18日水曜日。3日前にあたる日曜日からちょっと様子がおかしいなと感じていたので月火水と仕事を超特急で済ませ、定時で急いで帰る。
この間、通常通り会話はできるが足が痛いとかトイレの前で転ぶとか。17日火曜日の朝は出かけようとする私へ「どこ行くの?」と言ったり。その日は帰ったら「入歯がない」と言う。よくお茶飲んでたコップに外して入れてることがあったがない。まさかと思いつつ入歯入れ(寝る前に入れておくケース、ここに昼間に入れることは今まで一度もなかったところ)をみたら昨日の夜にしまった状態で格納されていた。え?朝と昼の食事はどうしてたの?という事件があった。具合が悪い、という様子はないけど足はイタイとか言っていたし、水曜日の朝は出かける前に寝ている様子だったので「今日も早く帰るから無理しないで」的なことを書いた手紙を置いて家を出る。
この日は買物にも寄らずに自分史上最速で帰宅。明かりがついていない…おかあさん、寝てるの?と家に入ったら倒れている母。
救急車を呼び、家から徒歩でも30分くらいの病院へ運ばれ、脳梗塞との診断。血管が詰まっているので溶かす薬を投与します、と。同意書にサインして。HCU(高度治療室)に入院となった。
翌日、入院セットを持って行ったときに主治医の先生より「投与した”血栓を溶かす薬”は非常によく効くのだが残念ながらあまり効果は得られていない」的な説明を受ける。
この、2月18日の入院から、母は口から食事と水は摂れなくなった。左手は完全にマヒして動かない。(足はもともと自立歩行はできていない)
一応、薬が効いたのかその後、簡単な言葉は発することができた。名古屋から姉も駆けつけ、兄姉私、全員のこともわかっていた。
でも。口から食事がとれない。水も飲めない。鼻から管を胃に通して水と栄養・薬を流し込んで生命維持をしている。
3月13日。救急搬送された病院から療養型の病院へ転院した。
転院先の病院は我が家からは電車で6つほど下り、そこから徒歩30分(一日3回ほど送迎バスあり)。少々遠くなったが兄の家からは比較的近い。(もう一つ検討した病院は我が家からは割と近いが都内でランニングコストがお高く…兄の家からはウチよりも更に遠くなるのでこちらに決めた)
それまでは毎土日に面会に行っていたが、翌日の土曜日は母が入院して初めて自分の休日に面会に行かなかった。
新しい病院は電車やバスを使って片道1時間かかる。入院から転院までおよそ3週間。手続き等で疲れていたのと、転院した日、母は退院できると思ったのか少しうれしそうな表情だったのに、違う病院へ連れていかれた…とガッカリしたのか、転院手続きが終わって病室へ母の顔を見に行ったらムゥっとした表情をしていた。「また来るよ」と声をかけて帰る時もなんだかプンとした表情をしていたのが印象的で。兄も「怒ってるのかな…」と言っていた。「入院はいやだ」とあれほど(圧迫骨折した時もさんざん言っていた)言われてたのに、入院させられて怒っているのかも、と思ったので、なんとなく、顔を合わせたくなかったのかもしれない。
そんなこんなで転院して2日目の土曜日は面会に行かなかったが、さっそく鼻からの管を引き抜く母。
翌日日曜日に面会に行くと看護師さんより抜いちゃったのよ…と。転院の説明時には「拘束はしないと」聞いていた右手は、タオルでぐるぐる巻きにされていた。
急性期の病院では常にミトンをされていたのがかわいそうだと心が痛かったが、この病院では「しない」と聞いていたのに…(仕方ないが…)。
しかし唯一自由になる右手で抜いたのは母の意思だと思い、このまま鼻からの管はやめてもらうようお願いしようと、翌日の月曜日、仕事の合間に主治医の先生に電話をかけた。すると既に管を入れなおしたとのこと。なので、もう一度、母が抜いてしまったら、その時は本人の意思表示なので管を入れなおししないでください、とお願いした。
3月22日日曜日、面会に行くと右手のタオルは緩んでいて、アチコチカユイと言って自由になる右手であちこち搔きまくっていた。このころは肌が乾燥するのか痒がっていたので前回、看護師さんに聞いて許可をもらっていた白色ワセリンを持ってきていたので塗ってあげたりした。
翌日の23日月曜と24日火曜に兄が面会に行き、23日にはしていた鼻からの管は24日にはなかったと報告があった。主治医の先生にお願いしておいた通り、母が自分で管を引き抜いたため、胃管の処置をしないでくれているのだと理解した。
4月7日火曜日、嵐のライブのために名古屋に行った帰りに面会へ。主治医の先生に様子を伺う。その時、現在は足の静脈に点滴をしているが、静脈からの点滴が難しくなったら皮下点滴となる。その後は「お看取り」に近くなっていきますと。呼吸が苦しくなったときに、酸素マスクをつけますか?と聞かれた。即答できないので家族と相談します…と返事をした。
この時に主治医に確認したが、やはり3月24日に母が自分で管を抜いたとのこと。
このように、救急車で運ばれてから母への処置について、たびたび判断をしてきた。
一貫して「延命治療はしない」と伝えてきました。
酸素マスクは悩みました。医師が確認したように、酸素を投入する=延命治療、と言えなくもないかもしれない、とやはり考えました。チャッピーやコパイロットくんに何度も質問してどうすべきか考えました。主治医は、まだ先だから…と言って返事はいつでもいいですよと言ってくれた。寄り添ってくれる主治医の先生、看護師の皆さんのやさしさがありがたかった。
入院中、母が割と元気(?)だったのは3月20日ごろから4月10日ごろまで。この間は家族の名前も言えたし、右手でじゃんけんもできたし(勝ち負けではなく、グーをだしたらグーに、パーにしたらパーに、チョキは動作が難しかったのか形は不格好だったけど、出そうとしてた)かんたんな会話はできた。
とはいえ、ほんとうにアチコチ痒がっていてかわいそうだった。口から水を飲めない、食べることが大好きだったのに食べれない、体は動かない、痒い。こんなにかわいそうな状態ってある?
基本、一人で面会に来ていたので、「今までありがとう。もう一人でなんでもできるよ。草木の手入れもちゃんとしてるよ。道に落ちた葉っぱもちゃんと片付けしているよ。安心してね…。もう…頑張らないでいいからね」と、何度か伝えた。いつも返事はなかったけどね。
4月11日土曜日、点滴のみになってから18日目。弱弱しい。相変わらずアチコチカユイと言って「カユイトコ カイテ」とねだってくる。「〇〇ちゃん」と名前で呼ばれた。名前を呼ばれたのは多分これが最後。そして帰るときに「ありがとう。」と。翌日日曜日は全然反応が薄く、ほぼなにも話さない。帰ってから兄姉に連絡。弱弱なので連絡すべきところには連絡しないと、と伝える。
4月14日火曜日、看護師さんより抹消点滴から皮下点滴へ切り替えたとのこと、連絡を受ける。この際、酸素投与については「する」ということでお願いした。
4月16日木曜日、仕事の調整ついたので半休を取り、面会にいく。お母さんにとって初孫の、姉の長女が嫁ぎ先の富山から来週面会に来るよと、報告をする。手を握ると「あったかい手してる…」と。たぶん、ちゃんとした(?)会話はこれが最後かも…。
4月18日土曜日は兄と一緒に行く。元気がない。
4月19日日曜日、東京に住んでいる父の妹と一緒に面会に行く。叔母に対しては反応あり。でもほぼ会話にはならない。
4月20日月曜日、看護師さんと主治医より電話。昨日からまぁまぁの量の吐血あり。胃か十二指腸に潰瘍があるのかもと。
4月21日火曜日、半休をとって様子をみに面会。主治医の先生に様子を聞くと、今日も挨拶はしてくれるので、まだ意識レベルは大丈夫とのこと。
4月25日土曜日、面会するも終始ぼんやり…反応は少し。夜、富山から姪っ子が、名古屋から姉が時間そろえて我が家へ。
4月26日日曜日、姪っ子と姉と三人で面会。お母さんもうれしそうだった。体を向けて姉と姪っ子のことをみていた。この日、私たちが帰ったあと、兄のお嫁さんと愛娘も面会に。お母さん大忙し。
4月28日火曜日、兄、面会。鼻からチューブで酸素投与しているとの報告が13時頃。20時、病院から電話。昨日今日でまた吐血あり。また吐いたら危ないと連絡。
4月29日祝日、朝6時過ぎ、病院から電話で呼ばれる。兄に連絡。急いで病院へ。8時頃病院到着。いつ心臓が止まってもおかしくない状況とのこと。母は酸素マスクをつけてとても苦しそうにしている。ずーっとそのままの状況で気づけば夕方。いつまでこの状態なのか?お母さんががんばりすぎている?うん、がんばる人だよね。ならば、と、病院にお願いしてこの日は泊まらせてもらうことにして、一旦家に帰って荷物を取りにと言ったら、兄が車で送迎してくれて。17時頃病院でて、兄嫁ちゃんにお母さん看てもらっていて。兄と車の中で「こうして私たちがちょっと離れたときにさー、お母さん…逝っちゃったりしてね…」なんて話してたらその通りになってしまった。私、朝8時からずーーーーーーーーと、ずーーーーーーーーっとお母さん看てたのに。ほんとちょっと目を離した隙に、逝ってしまった。
兄嫁ちゃんからの報告によると18時07分とのこと。辛い状況に一人で置いてしまってごめん。でも、兄嫁ちゃんが診ていてくれてほんとよかった。兄嫁ちゃん、ありがとう。そして、お母さん。私とお兄ちゃんがいるところじゃ逝けなかったのかな。頑張り屋さんだし意地っ張り屋さんだもんね。だから、これで良かったんだと、思う、ことにする。
18時40分ごろ、母に再会。
18時54分、医師による死亡確認。すぐに移動してください、と言われ院内の霊安室へ。そこで病院手配の葬儀屋さんと葬儀の相談。
21時半過ぎ、母は葬儀屋さんに運ばれて行き、入院荷物すべて抱えて病院を後にした。兄が車で送ってくれたから良かった。一人だったら大荷物抱えて電車で帰らないとだった。翌日は新年度の繁忙の伝票処理が待っている。絶対休めない。入院してからも同じだけど、一人で帰ってきちゃった。なんだこれ?こんな状況、全然考えていなかったからなんだこれ?と戸惑う。
この日は一日雨が降ったり止んだり。なんだか喉が痛い。喉に違和感をおぼえつつ…。
翌日早朝から仕事、その次の日はお休みもらうべく…残業。そして母を看ている時、スマホで作った画像を帰りに2Lサイズでプリントして。遺影完成。
訪問リハビリ中、動画で撮影していたお母さんを切り出した笑顔。寝たきりになっちゃってから、リハビリのおかげで初めて自力でソファーに座れたとき「お母さん、できたじゃん、すごいね!ほらピースして!」といって撮っていたお母さんの笑顔を一時停止してスクショした写真。画像の加工がうまくできなかったけど、まぁいろいろ工夫してなんとかかんとかできた。
5月1日土曜日に葬儀、葬儀屋さんから一旦母、帰還。救急車で運ばれてからやっと家に帰れたね…
家で葬儀をしたいと言ったら葬儀屋さんが便宜を図ってくれた。本当に感謝です。
5月2日14時火葬。兄と姉家族全員集合と姉の弟や7年前に他界した父の妹たちが来てくれて母をお見送りしてくれた。感謝感謝でした。(しかし風邪をひいて絶不調、2日に全員お帰りいただいた後は心底ほっとした…)
何が大変ってあの~…葬儀って普通、外でやりませんか?そういや我が家では葬儀は常に家でやってました。だからそういうもんかとなんとなく受け入れていたけど。父の時は母があれこれ仕切っていたので、私は動くだけで良かったけど、今回は私が決めなくちゃいけなくて。兄も姉も手伝ってくれたし寄り添ってくれたけど、会場は我が家なので本当に大変だったなーと。
6月の中旬、ド平日にもかかわらず「母の五十日祭」(神式なので…いわゆる四十九日の法要)を行い、翌日以降で届くように香典返しを準備して、そして7月には香典返しツアーを慣行し、土曜日に東京の叔母さんへ、翌日日曜に静岡の母の弟(叔父さん)、ここまでは兄と二人で。その日の午後は姉と合流して名古屋の父の妹(叔母さん)の家へ挨拶に行き、兄妹3人で姉の家に1泊。夜中まであれこれ飲みながら話すという貴重な機会となりました。
まだまだやることは残っているけど、母名義の銀行の解約や各種届出は大体済んでいるので、お母さんの思い出はゆっくりと片付けていくことにしようと思います。
明日16日は「送り盆」というのね。明日は夏休みも最終日。買物に行ってお母さんの好きなものでも買ってこようかな。
そんなわけで、このブログタイトル。”ちまちゃんの「おかあさんといっしょ」”は開設当初の「ちまちゃんのきままなひとりくらし」に戻しました。
またポツポツ…更新してゆこうかな…
P.S.なんとなく…兄姉にも言えなかったことを、ここに残しておきます。
療養型の病院に転院した一週間後の3月20日。この日は祝日の金曜日で三連休の初日。転院してからの面会は2回目。友達グループとランチのあと、送迎バスの時間が合わなかったので最寄りの駅から歩いて行ってみたら道に迷って面会時間ギリギリになっちゃったけど。
病室について早々、「お母さん、私、わかる?」と聞いたの。そうしたら「一番かわいい娘!」と言った。言われた!
もうびっくりして。泣きながら「お母さん、そんなこと、一度も言ったことなかったじゃーん
」ってビービー泣いた。(でも冷静に手帳にメモした
)
たぶん、転院したあの日。お母さんはきっとお兄ちゃんが言うように「帰れると思ったのに…」と少々オコだったのかもしれない。でもきっと時間かけて納得…してくれたのかも、しれない。おかあさんに何度か尋ねた。「お母さん、病院、いやだよね、言いたいことある?」って。返事はいつもなかった。大体のことは「うん」とか何か反応あったのに。お母さんなりに、返事を飲み込んでいたのかもしれない…。
そんな状況での「一番かわいい娘!」という言葉。
この言葉は、お母さんからの最も大きなプレゼントだと思っている。お父さんが亡くなってから7年間、お母さんとなんやかんや言いながらも一緒に暮らしてきた。「ありがとう」とか言わない人だった。(だから4月11日帰り際に言われた「ありがとう」も本当にびっくりしてメモした。)でも、こんなうれしい言葉を言ってくれた。もしかしたら看護師さんと間違えたのかもしれない笑 私本人に言っちゃって、一番驚いたのはお母さんかも
笑 そのくらい、意外なことなのです。
それと、お母さんからもらったもの。「健康に生み、育ててくれたこと」これは4月21日、直接伝えた。これまた反応はなかったけど。
毎日感謝の気持ちを乗せて、お父さん含めご先祖様方へお茶とお食事をお供えしています。これからも続けていくからね。
お母さん、いままでありがとう。どうぞ安らかに。
そして、これからも見守っていてね。
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