徳川3代将軍家光らに仕え、島原の乱や由井正雪の乱、明暦の大火などに善処した「知恵伊豆」こと松平信綱(1596―1662)の祖父に当たるのが、西尾市寺津町にあった寺津城主で中世吉良氏を家老として支えた大河内秀綱(1546―1618)です。東条城にあった吉良義昭(よしあきら)が家康と争った藤波畷の戦い(1561年)や三河一向一揆(1564年)に参加しましたが、奮戦むなしく落城して浪々の身になりました。

 

大河内氏系図(『西尾戦国領主伝』より)

 

寺津城主だった大河内氏の祖先は、宮中を荒らす妖怪「鵺(ぬえ)」を退治した伝説で知られる平安末期の武将源頼政で、頼政の孫の顕綱が三河国額田郡大河内(岡崎市大平町か)に移り住み、大河内を名乗りました。以後、三河国守護だった足利義氏に仕え、義氏の長男を祖とする吉良氏に仕えました。寺津町の寺津八幡社は建久年間(1190―99)に顕綱が創建し、家伝の守刀を寄進したと伝わっています。

 

寺津八幡社にある「大河内氏発跡地」の碑

 

顕綱の子の政顕が寺津と江原(西尾市江原町)の両郷を支配しました。西条吉良氏は14世紀後半には吉良荘以外に遠江国浜松荘(静岡県浜松市)も支配しており、いつからか大河内氏が浜松の代官として派遣されていました。応仁の乱後、東軍の今川氏が西軍の斯波義達の領国遠江に攻め入り、10年以上に及ぶ戦闘の末、1517年には義達と浜松の引馬城にこもった大河内貞綱らが、今川氏に攻められて自害します。


その一方で、寺津城が築かれたとされるのは永正年間(1504―21)で、10代信政の時と伝わります。同時期に浜松で自害した貞綱は系図に出てこない謎の人物です。信政は寺津八幡社を再興しており、1513年の棟札に名前があるそうです。11代信貞も1532年に寺津八幡社を再興し、34年には大河内氏の菩提寺として金剛院を中興しており、このころは大河内氏が勢いを振るっていたようです。

 

大河内氏が創建した寺津八幡社

 

信貞の子が秀綱です。中世吉良氏の没落後、西尾市小島町にあった小島城主伊奈忠次のもとに身を寄せました。秀綱は忠次の代官として家康に仕え、遠江国稗原(静岡県磐田市)を領し、家康の関東移封後は鉢形城(埼玉県寄居町)に陣屋を構えます。秀綱の次男正綱が長沢松平氏の養子に入って松平を名乗ります。秀綱の長男久綱の長男である信綱が正綱の養子に入って長沢松平氏を継ぎました。

 

【浜松荘①】吉良氏が南北朝時代から約150年支配

 

ところで、浜松に勢力を持っていた吉良氏は、どのような動きをしていたのでしょうか。大河内氏との関わりを含めて見てみようと思います。遠江国は14世紀に今川氏が守護を務めていましたが、1405年前後に尾張など4カ国の守護だった斯波義重が守護になり、以後約100年にわたって斯波氏が守護を務めたそうです。義重が吉良満貞の娘と斯波義将の間に生まれた子だったことで、吉良氏が浜松での活動を活発化させていったようです。

 

しかし、1436年に義重の子・義郷が落馬で死去し、幼少の義健が家督を相続すると、41年に駿河守護の今川範忠が遠江に侵攻。47年には斯波氏の家臣同士が争うなど遠江の不安定化が進みました。吉良義尚 は義健に自分の娘を嫁がせ、家臣同士の争いを停止させました。義尚にとっては斯波氏の遠江支配を安定化させなければ、自身の浜松支配も危ぶまれると考えたからだとみられています。
 

ところが、52年に義健は18歳で死去し、15世紀後半の遠江は混乱の時代に突入します。跡を継いだ義敏と守護代との内紛や家督争いなどに見舞われる中、吉良氏は近隣荘園を管理下に置いたり、寺領寄進をしたりして浜松を中心に勢力を拡大していったそうです。70年代に入ると、今川義忠が遠江への進軍を開始。斯波氏家臣で守護代の狩野氏と吉良氏家臣の巨海(こみ)氏が結託して対抗します。

 

14世紀の浜松

 

今川氏は武力で狩野氏を自害させ、巨海氏も成敗しようと浜松まで進軍しましたが、巨海氏がその後どうなったか分かっていません。間もなく義忠が戦死し、今川氏は駿河に撤退。このとき、吉良氏が領した浜松荘の奉行は飯尾(いのお)長連で、今川軍に協力して義忠とともに戦死しているそうです。遠江の吉良氏家臣は巨海氏が斯波方、飯尾氏が今川方につくという分裂状況があったということです。

 

80年代の今川氏は家督抗争の渦中で遠江進軍を中断。斯波氏の家督抗争は義敏の優勢で決着し、その子・義寛が守護になって遠江に安定が戻りました。90年代に内紛を克服して今川氏の家督を継いだ氏親は遠江進軍を再開。天竜川周辺まで勢力を拡大しました。義寛は一族を派遣して今川氏との決戦に踏み切り、1501年、両者が遠州西部で激突しましたが、斯波氏は敗走しました。

 

【浜松荘②】今川氏に抵抗し続けた大河内氏

 

このとき、斯波氏とともに浜松荘奉行の大河内貞綱も敗走しています。それまでの大河内氏は1498年に浜松北部で神明宮を造営するなど、着実に勢力を拡大していたようです。大河内氏は斯波氏と結託しうる存在であり、吉良氏は大河内氏敗走後、今川氏と親しい飯尾氏を新奉行に任命しました。遠州のほぼ全域を制圧した今川氏は1508年、遠江守護を奪還し、100年近い斯波氏の支配が終わります。

 

15世紀の浜松

 

奉行職を解かれた貞綱は10年、飯尾氏のいる浜松荘に討ち入り、引馬城に立てこもるという事件を引き起こします。今川軍が即座に攻め立て、本来なら自害するところでしたが、吉良氏の懇願で許されて今川軍は帰陣したそうです。しかし、貞綱はその後も斯波義寛の子・義達と連携して今川氏に対抗し続け、信濃や三河、尾張の兵を集めて争いますが、13年には敗北して戦闘はいったん終結します。

 

戦闘が終結に向かっていた13年3月まで、今川氏は大河内氏の行動をなんとかするよう吉良氏に何度も要請を入れていました。しかし、吉良氏は長らく動かず、戦闘終結の段階になってようやく大河内氏に対する何らかの制裁に出たようです。にもかかわらず、貞綱は17年に再び、斯波義達と連携して浪人らと引馬城に立てこもりましたが、今川軍は金掘り人夫による水抜き作戦で落城させました。

 

氏親の義父の日記によると、貞綱は切腹、斯波義達は出家の上で尾張に送還されたそうで、大河内氏と斯波氏、今川氏の遠州を巡る激突は終わりました。大河内氏の動きを食い止められなかった吉良氏の責任が問われてか、今川氏が浜松の寺の寺領安堵を行っており、吉良氏が支配した浜松は事実上、今川氏の勢力下に組み込まれたことがうかがえます。

 

吉良氏は伝統的に斯波氏とも今川氏とも深い関係を持っていました。しかし、斯波氏と今川氏が戦う時代を迎えた結果、吉良氏に家臣の分裂などをもたらし、吉良氏当主はどちらにも味方できず、家臣の分裂行動を食い止めることもできませんでした。斯波氏と今川氏のはざまで吉良氏全体が混乱・錯綜した状況にあり、斯波氏を破った今川氏は吉良氏から浜松の支配権を取り上げました。

 

【吉良殿逆心】大河内氏が再び“反今川”首謀

 

残す領地は三河のみになってしまった吉良氏ですが、駿遠の今川氏とは蜜月関係を築いて安定した時代を迎えました。しかし、尾張から織田氏の勢力が伸びてくると、それに乗じる形でまたしても大河内氏ら吉良氏家臣が2度も今川氏に対する反乱を起こします。今川氏は1度目こそ寛容な態度に出ましたが、2度目の反乱は許さず、吉良氏当主を三河から追放する措置に出ました。


織田氏は1547年に三河の安城城(安城市)を落としましたが、48年に小豆坂合戦で今川氏が織田氏を破ります。今川氏は49年、吉良氏の西尾城を攻略しました。このとき、吉良氏は当主義安の外戚である後藤平大夫によって織田氏と組んでいたそうです。その後、今川氏に対する抵抗運動が活発になった55年、吉良氏は再度、西尾城で今川氏に反乱を起こしましたが、鎮圧されました。


55年の反乱に関する新史料「今川義元書状」が見つかり、2009年に有光有學氏が発表されました。【吉良義昭】 で紹介しましたので詳細は省きますが、1555年閏10月23日に義元から荒川義広にあてた手紙と考えられています。文書では吉良氏による2度目の反乱について、「何御不足候哉、不能分別候」と今川氏にとって理解に苦しむ行動であったことがうかがえるそうです。

 

今川氏に対する吉良氏の反乱が大河内氏らの首謀と分かる書状

 

従来、55年の反乱は「被成吉良殿逆心」とのみ伝わってきましたが、この文書によって「大河内、富永与十郎両人張本人之由」と、大河内氏や富永氏といった吉良氏家臣が中心となって、反今川運動を行っていた実態が浮かび上がりました。56年3月に織田信長が幡豆郡まで進軍しているので、反今川の吉良氏家臣は遠州騒動に続いて、またしても尾張と結んでいたのかもしれません。

 

反乱鎮圧後の吉良氏当主義安 について、『家忠日記増補追加』は今川義元が駿河に護送したとし、『清須合戦記』は56年3月の幡豆郡進軍で引き上げる織田勢について尾張に行ったとしています。その後、1563年の三河一向一揆で大河内秀綱は、吉良義昭が一揆に味方することに反対して諫言しましたが、義昭は聞き入れず、「今に至って立ち去るは勇士の恥じるところ」と義昭とともに東条城に入りました。このあたりも、尾張の織田氏と結んだ家康への対抗を避けようとする意図があると見えなくもありません。このように、吉良氏の家老だった大河内氏からは「親尾張・反今川」という強硬な姿勢がうかがえます。今川氏よりも上だった斯波氏の血筋とか、寺津という尾張を望む海に面した場所を拠点にしたこととかが関係するのでしょうか。

 

【寺津城】複郭構造の拠点的城館


先日、約3カ月半ぶりに郷土史家の先生方との散策があり、寺津校区に出かけました。メーンは国道247号沿いの西尾市寺津町にある寺津城跡。瑞松寺の境内には「寺津城趾」の石碑が建てられています。『寺津村誌』では北側に幅3間(1間は1.82㍍)・深さ1丈(3.03㍍)、南側に幅5間・深さ2間の堀が残り、西側の絶壁には高さ1間・幅3間の土塁が残っていて、明治初年まで大木が茂り、昼でも暗かったそうです。

 

瑞松寺の境内にある「寺津城趾」碑

 

城の規模としては石碑の裏に彫られた「東西約四十間、南北約五十間」というのが唯一の手掛かりだったようですが、1858年の寺津村絵図が見つかり、金剛院の北に薮で囲まれた2つの区画が寺津城の跡だと見られています。北の区画が49㍍×38㍍、南の区画が49㍍×10㍍あり、当時の城館の多くが方形館タイプだった中、複郭構造ということで拠点的な城館だったことが分かるそうです。

 


現在は寺の後ろに稲荷神社がありますが、その付近が一段高くなっています。そこが土塁の跡で、その西側は今も崖になっていて城跡をし のばせています。堀は埋められていますが、瑞松寺の北の道が一段低くなっているのが堀の名残だそうです。また、付近には市場、馬場など城に関係する地名が残っており、東にある市場付近は大河内氏の家臣の屋敷地とも考えられています。

 

寺津城の土塁跡

 

寺津城跡から国道を挟んで南東にあるのが、大河内氏の菩提寺である金剛院です。山門や本堂の瓦には「三ツ扇」の家紋がありました。大河内氏の家紋は「臥蝶に十六菊」ですが、替紋が三ツ扇だったそうです。境内には大河内信貞、信貞夫人、秀綱を供養する宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。室町時代末期の様式で、この地方最古のものとして美術的価値が高いそうです。


金剛院にある大河内氏の供養塔(左から秀綱、信貞夫人、信貞)


西尾市内でも難読地名として知られる巨海(こみ)町に入りました。まず立ち寄ったのが国道の西にある願成寺。臨済宗妙心寺派で、中世吉良氏の創建とされています。雪斎によって実相寺同様、東福寺派から妙心寺派になったのでしょうか。南北朝時代初期の1346年に造られた釈迦如来坐像や室町時代前期の1416年に制作された塔名牌などが県文化財に指定されています。

 

【長寿尼寺跡】吉良満氏の母の隠居所

 

続いて、熱田神宮の勧請で平安時代前期の807年に創建されたという八剱神社に立ち寄りました。1508年に領主だった「橘朝臣巨海勘解由尉秀国」が本殿を再建したそうです。先生たちは巨海氏が源氏ではないことを驚かれまし た。60年には領主の「左京亮元政」が再び本殿を再建したということです。「左京亮元政」は57年10月に今川氏から数年間の西尾城番を任せられた三浦元政のことと思われます。

 

巨海氏が本殿を再建した八剱神社

 

さらに北東方向へ向かったところに、長寿尼寺の跡があります。『寺津村誌』では鎌倉時代後期の1324年、吉良満氏が母の志を報じて創建し、当時は大伽藍を構えて長寿寺と呼ばれたとあるそうですが、先生の一人は満氏が1285年に死去しているため、創建年代が正しいとすれば、1343年まで生きていた満氏の子・貞義の創建だろうと見ておられます。満氏の母(北条義時の娘?)の隠居所だということです。


先生によると、満氏は1285年11月に起きた鎌倉幕府の権力闘争(霜月騒動)で反体制派として戦って自害しますが、北条氏の血を引く満氏の母に免じて吉良荘は没収されず、貞義に吉良氏を継がせたそうです。貞義は長い間、幕府への出仕が許されず、幕府への忠義の証しとして満氏の母の菩提寺として創建したのだと考えておられます。現在は満氏の母の墓があるのみです。

 

長寿尼寺跡にある足利(吉良)満氏の母の墓

 

【巨海城】西条吉良氏の重臣だった巨海氏


すぐ北にあるのが寺津小・中学校。この敷地内に巨海城があったと言われています。ここには縄文時代晩期の貝塚「枯木宮貝塚」があり、その西に接する「若宮西遺跡」からは、古墳時代の竪穴住居と中世の掘立柱建物跡などが見つかっています。中世の遺構については出土遺物から、12世紀末から13世紀中ごろのものと判断されており、さらなる発掘による城郭遺構の発見が期待されています。


城主の巨海氏は西条吉良氏の古くからの家臣で、史料を見ると、1392年に足利義満の行った相国寺落慶供養で吉良俊氏に随行、1409年に華蔵寺(西尾市吉良町)に建立された経蔵の費用として田地を喜捨、1474年の今川氏による遠江侵攻で対抗、1506年に北条早雲から感謝の書状を受けた、08年に八剱神社を再建した、17年に浜松で今川氏と争って切腹した、それぞれの巨海氏があるそうです。

 

巨海城があったとされる寺津中学校

 

中でも今川氏に対抗した巨海氏は新左衛門尉道綱といって、このときに切腹した大河内貞綱の弟とされています。道綱の死後、巨海氏が巨海城主だったかどうかは分かっていません。大河内秀綱の母は巨海氏と見られる小見頓斎(こみとんさい)の娘とされています。巨海氏は吉良氏没落後、家康の命で鳥居元忠の家臣になり、以後、鳥居家の家臣として明治まで存続したそうです。

 

【徳永城】「よく残っている」中世の遺構


最後に、巨海城と同じく謎めいた城「徳永城」の跡も歩いてきましたので紹介します。『寺津村誌』では徳永町地内にある立清(りゅうせい)寺の北東にあったとされています。応永年間(1394―1428)に徳永小七郎義雄という人物がこの地を領して城を築いたと伝わります。城跡は東西約40間(72㍍)、南北約60間(108㍍)あり、土塁は長さ5間・高さ1丈余、堀とみられるものは幅7間ということです。

 

徳永城跡の土塁

 

現在は無住である寺の裏手にある墓地の東側にそれと思しき土塁が一部残っています。城郭に詳しい先生によると、「土塁に間違いなく、寺津村誌にある規模で北に向かって伸びていた可能性がある。西尾市内の城郭遺構でもよく残っている方」ということでした。また、寺の東方にある徳永神明社についても「この付近に徳永城があったとしてもおかしくはない」との可能性を指摘されました。

 

【参考資料】谷口雄太「中世吉良氏の研究」、尾畑太三『証義・桶狭間の戦い』、「新・西三河の歴史」(「みどり」NO.79)、「西尾お宝紀行」(三河新報連載)、小林輝久彦「巨海城主考」、『西尾の人物史』、『西尾市史2』