中世の吉良荘を領した西条吉良氏が、足利将軍家の継承権を持つ「足利御三家」として位置づけられたのは、永享(1429~41年)ごろだとされています。それまでは、南北朝時代に足利直義派の強力な与党になって足利将軍家と激突し、しばらく南朝方として冷や飯を食わされました。1360年代に吉良氏は北朝帰参が許されますが、その後、吉良氏より早く将軍家に帰参した斯波氏や渋川氏と姻戚関係で結び付き、京都の中央政界で生き残りを図ろうと躍起になります。

 

14世紀末の西条吉良氏当主は俊氏でした。1391~92年に引付頭人(裁判機関の高官)として活動し、92年には足利義満の相国寺供養に伴い、家臣を引き連れて「先陣随兵」の一角として供奉したそうです。その後、94年にも再び引付頭人として活動。1401年には俊氏が上野国にある自身の所領について、その確保を幕府に要請したのが史料に登場する俊氏の最後ということです。こうした貢献で足利将軍家の信頼を回復したのか、次の義尚(よしなお)以降、吉良氏の実名に「義」の字が使われます。

 

【兄弟説】生年は義尚「1414年」、義真「1422年以前」

 

15世紀前半の西条吉良氏当主はその義尚ですが、義尚とその後継者・義真(よしざね)は、各種「吉良系図」にある親子が通説でした。これに対して、北原正夫さんが禅僧の日記「碧山日録」の1468年6月6日の記述に基づいて異論を唱えたそうです。記述は禅僧が義尚の火葬に際して書かれた法語を手に入れたというもので、そこに義尚の死去した月が「10月」とあることから、北原さんは義尚の没年を前年(1467年)と考え、義尚の生涯である「54年」を逆算して「1414年生まれ」と考えたらしいのです。

 

「吉良義尚と吉良義真」から「碧山日録」の記述

 

さらにそこから、義尚の子とされてきた義真についても、義真は同時代史料に「1481年7月21日に60歳余で死去した」とあるため、享年を60歳と仮定しても義真は1422年には生まれていると推定したそうです。そうなると義尚の生年と最大で12年しか違わないため、北原さんは1983年、両者は親子ではなく兄弟関係だと論じたということです。兄弟説は『吉良町史』(吉良町・1999年)や『日本人名大辞典』(講談社・2001年)などに採用され、現在も大きな地位を占めているようです。

 

【反論】義尚は「1414年以前に元服していた」

 

これに対して1990年、異議を唱えたのが北村和宏さん(西尾市吉良町出身・現同市文化財保護委員)で、北原さんが生年とした1414年よりも前に義尚が存在することを指摘しました。「不二遺稿」という史料の中の1409年に記された「三川金星山華蔵寺轉不退法輪蔵記」に「吉良源義尚」と登場するそうです。華蔵寺は吉良氏の菩提寺ですが、そこに転輪蔵を設ける際の外護者(げごしゃ)として元服した義尚の姿が確認できるということです。また、1410年の吉良義尚書状も存在が確認できるようです。


新進気鋭の中世吉良氏研究者で東京大学大学院の谷口雄太さんは、北原さんの兄弟説の一角が崩れたものの、「碧山日録」にある法語の作成年代や義尚の生没年、義尚と義真の関係まで北村さんが考察していないということで、史料の分析を進めました。まず着目したのが、法語に書かれた火葬にする3段階の過程で登場する「常喜」「宝渚」「東禅」の3人。この各人物を特定し、法語が3人の存命中に書かれたと考えると、東禅の死去前年である1453年までに書かれていることになるそうです。

 

「中世吉良氏の研究」から吉良義尚の花押

 

そうすると、義尚も1453年以前に死去していることになり、そこから「54年」を逆算すると、義尚は1400年以前に生まれていることになるということです。続けて、義尚の生没年の上限を探る中で、谷口さんは公卿の日記「薩戒記」「建内記」を紹介。義尚が1441年に出家し、47年には斯波氏の内部抗争に対し、若年の斯波氏当主である千代徳丸(義健)を婿にして内部安定化に尽力したとあるそうです。史料に登場する義尚はこれが最後だそうなので、没年は47年以降になり、おのずと生年は1394年以降になるということです。

 

【親子説】年齢差「13~28歳」で兄弟説瓦解


北原さんの兄弟説は義尚と義真の生年が「近い」というのが根拠でしたが、義真は1481年に60余歳で死去したということなので、生年は1413~22年の間になり、谷口さんが割り出した義尚の生年は1394~1400年の間になるので、年齢差は最小で13歳、最大で28歳。谷口さんは「決して近くはない」として、「兄弟説は成立しがたい」と明らかにしたうえで、北原氏以外に兄弟説を提唱した人がいなかったため、「兄弟説そのものが瓦解する」と結論付けられました。

 

谷口さんはさらに、系図以外に親子関係を決定づける史料で裏付けを図られました。先述のように義尚の娘が斯波義健の正室になっていますが、正室はその後、義健の早世に伴って1483年に京都尼門跡寺院本光院の長老を務めているようです。彼女は85年に死去しますが、名を「本光院秀本」といったそうです。秀本の7年忌に関する記述が「蔭凉軒日録」にあり、秀本が「吉良拈花院殿(吉良義真)」の「娣(妹)」とあるようです。これで義尚と義真が親子であることが確実だと解き明かしています。

 

「吉良義尚と吉良義真」から「蔭凉軒日録」の記述

 

谷口さんは15世紀前半の京都で活動した吉良氏の動きも追ってみえます。それによると、「看聞御記」の1419年6月23日の記述に「一条室町でけんかがあり、三条で吉良が合力した」とあり、「薩戒記」の1426年2月1日の記述に「一条南室町西吉良家燃上」とあるそうです。これらから、室町幕府や京都御所からきわめて近く、中世では地理的にも人口密度的にも上京の中心だった場所に、吉良氏が京屋敷を設けていたことがうかがえるということです。

 

【参考資料】谷口雄太「中世吉良氏の研究」(2009年)、同「吉良義尚と吉良義真」(2012年)