吉良義昭(よしあきら)は、約340年にわたって吉良荘を治めた中世吉良氏の幕を引いた人物ですが、生没年さえ分かっていません。正室や側室、子どもの存在、前半生の動向も不明で、【養寿寺】 にある吉良氏系図には、「右兵衛佐。永禄七年三州西尾城没落、同九年江州浪人佐々木祥貞を頼り、その後芥川城で討ち死に」とあるだけです。今のところ、断片的な手がかりを追うよりほかなく、伝説に近い人物です。

 

『吉良の人物史』(2008年・吉良町)の「吉良義昭」にある記述をひとまず“通説”として紹介すると、義昭は義堯(よしたか)の三男で、【吉良義安】 の弟になります。次男義安が吉良持広の養子として東条城を相続したため、西尾城にいたと考えられています。長男義郷の死後、義安が東条城と西尾城を兼帯し、義昭は東条城代を務めたと考えられています。

 

東条城跡


そして、今川義元が桶狭間で戦死すると、今川勢力の後退した三河で松平一族が台頭。松平元康(のちの徳川家康)が西三河北部を抑え、織田信長と和睦するなど、反今川の行動を起こすと、東条城にあった義昭は今川方として元康に戦いを挑みました。1561年4月には義昭の策略が奏功し、東条城近くの善明堤(ぜんみょうづつみ)で起きた戦いで深溝松平氏の松平好景を討つなど、元康方に大打撃を与えました。

 

しかし、今川方として共闘していた吉良氏一族の荒川義広が元康側に寝返り、元康方の酒井正親を八ツ面城に迎え入れ、今川方の部将牧野貞成が守る西尾城を攻めました。西尾城が落ちると、元康は東条城の攻略を本格化。小牧、津平、糟塚 の三方で包囲したところ、同年9月13日、義昭の部将富永忠元らが東条城を出て藤波畷(ふじなみなわて)で松平勢と戦いましたが、吉良方は大敗。義昭は降伏しました。

 

津平砦跡

 

その後、義昭は岡崎で捕らわれの身になりましたが、翌年には許されて東条の城外である岡山(西尾市吉良町北部)に住んでいたようです。三河一向一揆が起きると、義昭は再び東条城に入り、一揆方の大将として反家康(63年に改名)勢力の中心になりました。64年に入って一揆側が劣勢になり、東条城が家康方の攻撃を受けると、降伏して国外に出奔。中世の名族吉良氏は滅びました。

 

【義元の書状】幼少の義昭が水野家の人質に?


横浜国立大学名誉教授の有光友學さんが2009年9月に発表した『今川義元書状』(江川文庫所蔵)は、今川氏に2度目の反乱をした西条吉良氏について書かれたもので、1555年閏10月23日に義元から荒川義広にあてた手紙と考えられています。「西尾」という地名の初見史料としても注目されました。吉良氏研究の小林輝久彦さんが読み解いた文意は以下の通りです(『天文・弘治年間の三河吉良氏』から)。

 

吉良義安の反逆を伝える今川義元の書状(翻刻)

 

≪自筆の書状に預かりまして感謝しています。西尾のことはおおかたご理解されたでしょうか。義■の企みは言葉で表すまでもないことです。直ちに弟の長三郎を緒河に人質に寄こして緒河と苅屋の軍勢が西尾城に入りました。どんな不満があるというのでしょう。思慮に及ばないことです。下々では大河内・冨永与十郎が謀反の張本人だと言っています。荒河殿をはじめ、幡豆・糟塚・形原の諸城を当方で固めております。いずれも西尾に同心せずに奔走していますから、心安く思ってください。なお、あなたはお身体のご養生が肝心です≫

 

小林さんは「義■」を義安と見ておられ、義安は家臣の大河内や冨永の勧めで再びに義元に反逆し、緒河の水野氏に弟の長三郎を人質に入れて加勢を要請。水野氏は緒河・刈谷の軍勢を西尾城に入れたということです。ただ、吉良氏勢力の中でも荒川・幡豆・糟塚・形原の諸城は今川方の立場を堅持したようです。小林さんは「家格の高い吉良氏にとって、国衆の水野氏に加勢を頼んだのは屈辱的だったろう」としています。

 

西尾城本丸の土塁跡

 

さて、「長三郎」とは誰でしょうか。小林さんは「仮に彼を系図史料にある義安の弟の義昭であるとするならば、尾張・三河和睦ののちに長三郎は吉良荘に帰り、義元により東条城に置かれたという推定も可能であろう。これは義昭がこののち東条城に在り、永禄4(1561)年に勃発した松平元康の反逆を原因とする『三州錯乱』を今川方として松平氏と戦ったことからくる推定である」としています。

 

【善明堤の戦い】1561年説と1556年説

 

善明堤の戦いは1561年4月、義昭が元康方の酒井忠尚が守る上野城(豊田市)を急襲したところから始まります。これを知った元康が中島(岡崎市中島町)城主松平伊忠を救援に向かわせたところ、義昭の本隊が留守をついて中島城を襲いました。伊忠の父で深溝(幸田町)城主松平好景は直ちに中島城に駆け付けて吉良勢を破り、逃げる吉良勢を追撃して善明堤までやってきました。

 

東条城周辺図(『吉良の人物史』より)

 

『三州西尾鶴ヶ城由来記』にあるという記述によると、義昭を追った好景軍は東条城北西の山と山の狭間で追い付きました。池のほとりの細道に来た時、山の上の木陰から義昭方の伏兵60余騎が駆け下り、義昭本隊も反転攻勢に出ました。不覚を取った好景は引き返そうとしましたが、幽谷の松林に潜んでいた300騎ほどの軍勢が退路を断ったため、壊滅的な打撃を受けました。


善明堤の戦いがあった西尾市吉良町の「鎧ヶ淵古戦場」

 

残ったわずかの兵に守られて敵中を逃れようとした好景でしたが、善明村の西ノ原に追い詰められ、義昭方の尾崎修理の矢に撃たれ、山岡薬医に首を挙げられたそうです。好景は44歳でした。戦場になった池は戦死した兵の血で真っ赤に染まり、鎧が谷に満ち満ちて「鎧ヶ淵」と呼ばれるようになったそうです。現在は存在しません。

 

ところで、戦いの年代には異説があり、『松平記』には1556年4月に深溝松平氏と東条松平氏が吉良荘内の善明で戦闘を交え、深溝松平氏の当主である好景らが吉良勢に討ち取られたという記述があるそうです。また、養寿寺にある吉良氏系図の「義安」でも1556年4月としています。また、ある研究者は好景の孫・家忠が書いた『家忠日記』の記述から、好景の死亡が1556年のこととされ、善明堤の戦いが1556年に発生した可能性を示唆してみえるそうです。

 

善明堤の戦いの年代について伝える地域紙

 

この異説を検証した小林さんによると、1556年当時は松平氏が今川方、西条吉良氏が反今川方で、1561年とは正反対の立場だったそうです。好景が吉良氏を攻撃して戦死した場合、56年なら今川氏から、61年なら松平氏から発給されるべき感状や所領安堵状が深溝松平氏に伝わっていないということですが、松井松平氏が今川氏から与えられた古文書の存在を江戸時代を通じて公表しなかった事実から、深溝松平家も今川氏からの古文書を公表していない可能性を示唆してみえます。

 

【謎の印判状】2度の降伏後も吉良荘にいた義昭

 

中世吉良氏は1561年9月に松平元康と争った藤波畷の戦いで敗れ、所領をすべて失いますが、63年に三河一向一揆が勃発すると、義昭が一揆方の盟主に担ぎ出されて再び歴史の表舞台に登場します。しかし、64年に敗れて降伏し、名族吉良氏が歴史から姿を消した―というのが通説です。

 

三河代官鈴木八右衛門家の子孫に当たる西尾 市平口町の鈴木氏所蔵文書の中に「袖判宛行(そではんあてがい)状」があります。古文書の右辺の余白部分を袖と言い、そこに書かれた書判(かきはん)・花押(かおう)を袖判というそうです。袖判状は源頼朝をはじめ、足利尊氏・直義兄弟や吉良氏など清和源氏の中でも特別な者が使用した格式あるものだということです。

 

「鈴木家文書」にある吉良義昭発給とみられる袖判宛行状

 

宛行状は永禄8(1565)年11月27日付で、鈴木八右衛門に吉良の瀬戸で20貫文の田畑年貢を与えるという証文です。『鈴木家文書』(1994年・西尾市教育委員会)で紹介されている宛行状の解説では、「記録等では家康の袖判と伝えられてきた文書だが、この花押はこれまでに確認されている家康のどの花押とも形態が著しく異なる。文書の内容から発給者は家康以外とは考えにくいが、今後の研究を待ちたい」と家康の出した文書という見方を示しています。

 

しかし、『吉良と上杉の歴史問答』(2009年・吉良公史跡保存会)では「花押の形から推測しても、宛行状の発給者は吉良義昭であり、彼は永禄7(1564)年の三河一向一揆後も吉良にいたと思われます」としています。さらに、冒頭でも書きましたが、養寿寺の吉良氏系図で義昭の記述に、永禄9(1566)年に六角佐々木氏を頼って近江に行ったとあることから、義昭は宛行状の出された1565年まで吉良にいたと考察しています。

 

義昭が出した宛行状だとすると、その背景としては、武士が新しい主君に仕える場合、それまでの主君からどのような待遇を受けていたかを証明する必要があるため、吉良荘の支配が義昭から元康に移る過程で、鈴木八右衛門は吉良氏家臣としての待遇を元康に証明する書類として、この時期に義昭の宛行状をもらったのではないかと考えられそうです。