忠臣蔵で有名な吉良上野介義央(よしひさ、1641―1702)の高祖父(祖父の祖父)が吉良義安(1536?―1569)という人です。1550年代に吉良荘が今川氏に支配される過程で、義安は弟の義昭(よしあきら)とともに織田方と2度結び、2度とも今川氏に敗れて降伏し、義安は駿河の薮田村(静岡県藤枝市)に幽閉された人物として知られています。

 

 

定説では、義安は西条吉良氏当主の義堯(よしたか)の次男として誕生。東条城主吉良持広の養子になり、東条城を相続しました。その後、実兄の義郷(よしさと)が討ち死にしたことで、義安は西条に戻り、東条・西条の両方を兼務することになったようです。東条城には義昭を城代として置いたと考えられています。

 

義安らが織田方に属した結果、1549年に吉良氏の居城・西尾城が今川方の攻撃を受け、降伏して許されましたので、義安らは今川方として働きました。55年、義安らは再び反旗を翻して織田方につきました。西尾城で行われた今川氏との戦闘の結果、敗れた義安は薮田に幽閉されました。幽閉時期は60、61年の説もあります。

 


義昭が家康に敗れて吉良氏が領地を失った1564年、薮田で義安の子・義定が生まれます。68年に武田信玄が駿河に侵攻すると、今川氏真は駿府を捨てて掛川城に逃れますが、義安は氏真と行動をともにせず、薮田にとどまって69年11月に亡くなりました。間もなく、義安の妻子は吉良に帰りました。

 

1579年に妻子が三河を支配した家康と対面。家康は15歳の義定に出仕を命じ、義定は家康の家臣に取り立てられました。1600年の関ヶ原の戦いに参加した義定は翌年の論功行賞で、旧吉良荘のうち東条の地で7カ村3200石を領する旗本になり、吉良氏が再興されました。

 

東条城から見た高家吉良氏の所領

 

家康が征夷大将軍になる上で系図に問題が生じた際、義定が持っていた吉良氏の系図を家康に貸し、徳川を新田源氏の子孫と証明して将軍宣下にこぎつけたと伝わります。1608年に義定の長男・義弥(よしみつ)が幕府の高家に登用され、義冬、義央と代々幕府に忠勤を尽くしました。

 

【新説!!】第2次“逆心”の背景に竹千代元服

 

いわゆる三河吉良氏を調べている研究者の間では、戦国時代の吉良氏当主の動きを追う場合、「吉良殿」「東条殿」と書かれた人物が誰なのかという点で意見が分かれるようです。吉良荘が誰によってどう支配されていたかを示す当時の史料が皆無に近く、歴代当主の生存年代も分からないことから、近世史料に頼らざるを得ないわけですが、近世史料の内容に矛盾が多いことが混乱の原因になっているそうです。

 

吉良氏の研究で高名な西尾市出身の小林輝久彦(あきひこ)さんは、これまでの研究が近世史書である「三河物語」「松平記」「今川記」の記述によっているものの、いずれも不正確さや矛盾があると指摘されています。「今川記」にある「義昭が今川方と何度も戦って没落した」という記述は本来、義昭ではなく義安だということですが、義昭と書かざるを得ない“事情”があったそうです。

今川記の記述は吉良義定が1641年に幕府へ提出した系図と酷似するようです。つまり、義定の妻は今川氏真の娘で、その間に生まれた義弥の妻も氏真の子・範以(のりもち)の娘でした。江戸初期の吉良氏と今川氏はともに高家職にあり、両氏にとって互いの父祖である義安と義元が何度も戦ったというのは“不都合な真実”で、これを隠そうとしたのではないかと見ておられます。

 

「松平記」や「今川記」を批判・修正した上で小林さんが整理した義安の動きは、次のようになります。

 

義安は東条吉良持広の娘婿になって東条吉良氏を継ぎました。その後、義安は西条吉良氏の家督も望んで西尾城に入り、「御屋形(おやかた)様」と呼ばれながらも、西条吉良氏の家臣団による反対もあったと考えられ、当主にはなれませんでした。義安の外戚が「後藤平大夫」という出自不明の人物だとすれば、母親は義堯の妻とされる今川氏親の嫡女でなく、今川氏の後ろ盾もありませんでした。

 

義安の母親の身分は高くなかったため、地位を固めようと尾張国主の斯波氏と縁組。斯波氏の娘が正室の地位を占めましたが、今川義元はこれに疑念を抱き、1549年に今川氏の侵攻を受けました。降伏した義安は外戚を処断して許されましたが、西条吉良氏当主にはなれませんでした。その後、東条吉良氏当主として義元に忠勤を励み、54年に西条吉良氏当主になりました。

 

桶狭間古戦場公園にある今川義元の銅像

 

しかし、義安は55年10月ごろ、再び義元に背きます。今川氏との戦闘になりますが、水野氏や織田信長の支援もあって容易に降伏せず、戦線は膠着しました。その後、尾張と三河の国内事情の変化で和睦の必要に迫られた義元は義安を許し、これを担ぎ出して織田方との和睦会見に臨んだものの、和睦儀礼は成立しませんでした。面目を失った義安は尾張国に亡命します。

 

同じく織田信長の銅像

 

しばらく信長の庇護下にありましたが、その後、義元に心を寄せて信長に反逆して失敗。義安は義元を頼りましたが、49年と55年の二度にわたる反逆を重く見た義元は、義安を助命したものの西条吉良氏当主への復帰は許さず、西尾城を接収して城代を置き、義安の身柄は自分の監視の目が届く駿河国内に幽閉しました――というストーリーになるそうです。

 

西尾市吉良町の華蔵寺にある吉良義安の木像


55年10月に義安が“逆心”した背景について小林さんは、同年3月の松平竹千代元服に着目しておられます。【室城】 でも書きましたが、竹千代の父・広忠の元服では吉良持広の「広」が授けられました。祖父・清康も持広の父・持清の「清」が授けられたと考えられています。義元が竹千代に「元」を授けて元信としたことは、松平宗家に名前を授けて主従関係を結んできた吉良氏の地位を奪うことになり、これを脅威に思った義安が反逆に踏み切ったと考えておられます。

 

こうして見ると義安が野心家に思えてなりませんが、その原動力は何だったのでしょうか。なぜ斯波氏や織田氏に近づいたのか、なぜ西条吉良氏当主の座を欲したのか、なぜ義元は3度も“仏の顔(助命)”をしたのか―気になる点は尽きません。江戸幕府の高級官僚だった義弥・義冬・義央はかなり優秀な頭脳を持っていたそうですが、義安から続くDNAだと思うと、想像力がさまざまに刺激されます。