なぜ30万石の大名米沢藩上杉家の姫が、4200石の旗本高家吉良家に嫁いだのか―。江戸初期の話題をテーマに西尾市吉良町で先日行われた講座は、中世の三河吉良氏について深く知る機会になりました。講師の齋藤俊幸さんは室町時代にさかのぼり、将軍家の「御一家」だった吉良家と、幕府の「関東管領」だった上杉家の家格を比較しながら、テーマの解明に迫っていきました。

 

吉良義央木像(『吉良の人物史』から

 

齋藤さんによれば、「美男子だった吉良上野介義央(よしひさ)を、上杉家の姫だった富子が見初めた」というロマンスは俗説だそうで、結論から言う と、上杉家では幕府高家衆として活躍し、先の大老酒井家とも親戚だった吉良家の幕府における高い地位や力を頼りにした一方、吉良家では上杉家の財政的援助を受けたかった―という両家の事情による婚姻だったということです。

 

義央の正室・富子の墓(同)

 

さて、その結論を導くために齋藤さんは、吉良氏と上杉氏の中世の系譜や家格、官職にさかのぼりました。系譜では吉良氏が将軍家の兄の流れであること、上杉氏が公家の出身で足利氏との姻戚関係で発展したことが紹介されました。室町幕府における家格では、足利一門ではない上杉家よりも吉良家の方が上だったという見解を示されました。

 

【御一家】成立の背景に斯波氏


足利尊氏木像(鑁阿寺蔵・『太平記(学研)』から)


吉良家の家格については【御一家】 で概説しましたが、「御一家」成立の背景として、室町時代中期の1425年に5代将軍足利義量が早世したことで将軍後継者問題が発生し、鎌倉公方足利持氏が京都将軍への夢を抱いたことが挙げられています。結果的に将軍の“御連枝”(義教)が継承しましたが、万一の場合、足利氏に代わる貴種「血のスペア」が求められるようになったそうです。

 

また、もう一つの背景として齋藤さんは、関東の足利氏だけでなく、斯波氏も足利氏の家督や京都将軍の座から遠ざけたかったとの思惑を挙げています。吉良氏同様、将軍家の兄の流れでありながら斯波氏が御一家に入っていない理由として、すでに管領家であり、複数の守護を務めるなど強大な権力を持っていたことを指摘されました。裏返すと、権力基盤の弱かった吉良氏なら将軍になっても御しやすいという幕府の思惑が透けて見えるそうです。

 

新田義貞画像(北亭為直筆・同)


斯波氏は当初、足利一門で最高の家格を誇っていたそうです。吉良氏は南北朝時代、南朝方についたために足利一門での影響力を低落させますが、1360年ごろの北朝(幕府方)帰参に当たっては、当時の西条吉良満貞の娘が斯波義将(よしゆき)の正室だった縁から、幕府の重鎮だった斯波氏の助力があったとの見方もあるようです。斯波氏はその後、当主の若死にが相次ぎ、嫡流が絶えて庶流から当主を迎えた上、応仁・文明の乱で派手な家督争いをしたことから家運が傾いたということです。

 

余談になりますが、「足利一門」とは足利氏と同じ「二引両」の家紋を持つ吉良・渋川・石橋・斯波・細川・畠山・上野・一色・山名・新田・大館・仁木・今川・桃井・吉見の各氏を指すそうです。しかし、新田氏の家紋は「一引両(大中黒)」。これについて先生は「新田氏が同族争いを避けるため、二つの線の間を黒く塗った」と説明されました。後醍醐天皇に敵対した足利尊氏が天皇方の新田義貞に敗れて九州に逃れ、諸国の武士が新田勢に寝返った際、「二筋の中の白みを塗隠し、新田々々(にたにた)しげな笠印かな」という落首が詠まれたそうです。

 

足利氏と新田氏の家紋

 

 
【左兵衛】中世吉良氏4~10代の官職


官職についてですが、齋藤さんから配布された資料には、中世の吉良氏と上杉氏の歴代当主の官職が、「尊卑分脈」「続群書類従」「寛政重修諸家譜」の記述に基づく比較表として掲載されていました。吉良氏は初代長氏から3代貞義までに「左衛門尉(さえもんのじょう)・上総介(かずさのすけ)」があり、4代満義に「左兵衛督(さひょうえのかみ)」、5代満貞から10代義元までに「左兵衛佐(さひょうえのすけ)」が見られます。11代義堯、12代義郷、14代義昭 は不明ですが、13代義安 は「上野介」で、6代俊氏、7代義尚の時に上野国内に所領があった事実から、関連がありそうです。

 

吉良氏・上杉氏の官職比較表


参考資料として添付された律令官位相当表によると、正一位・関白から正六位下・薩摩守まで序列化した中で、中世吉良氏の歴代最高位階は4代満義が叙任された左兵衛督の「従四位下」でした。5―10代が受けた左兵衛佐は「従五位上」に相当するそうですが、左兵衛の督も佐も征夷大将軍に近い官職だったという見方もあるらしいです。足利尊氏の天下統一に尽力した満義が督だったのに対し、嫡男・満貞以降が佐に格下げされたのは、前述の通り満貞に南朝方として幕府と距離を置いた時期があったためかもしれません。