このブログの【室町時代】 で「足利将軍家が後継者問題で困らないよう、将軍の後継候補になる家として、吉良家、渋川家、石橋家の3家を選び、いわゆる『足利御三家』とした。足利御三家の中でも吉良氏の扱いは別格で、将軍家に次ぐ非常に高い家柄として位置付けられた」と書きました。吉良氏をはじめとする足利一門を研究している谷口雄太さん(国際日本文化研究センター研究員)は「三河吉良氏の最大の特徴は超名門家であること」と強調しています。

 

谷口さんがおっしゃるには、中世後期に当たる南北朝期から戦国期までは、足利氏が武家の頂点・将軍として君臨するわけですが、その足利氏の一族「足利一門」が名門であることは、室町武家社会の常識でありました。そうした中で吉良氏は別格の一族「足利御三家」にあって、その筆頭家になっていました。この時期の武家では別格中の別格の家というわけです。吉良氏は戦国期でもなお、幕府や有力大名から超名門家として大事に扱われていました。

 

では、なぜこの3家が選ばれたのか。足利一門には新田氏もいれば、仁木氏や細川氏、畠山氏や桃井氏など多数存在します(「新田氏は足利氏と別の一族で足利氏と同格」という見方が誤りであることは谷口さんが論証済み)。なぜ、吉良・石橋・渋川は別格なのか――谷口さんは①惣領家・将軍家の兄の流れであること②南北朝時代初期まで名字が足利だったこと③惣領家に劣らない実力を持っていたこと――を理由に挙げています。

 

【理由】兄の流れ、足利名字、実力

 

①については、これまでも述べてきました通り、鎌倉時代は足利義氏自身もそうですが、兄弟のうちで北条氏を母に持つ弟が足利氏の嫡流を継承し、兄が庶子家になっていきます。吉良氏の発祥でいうと、義氏の男子3人のうち、一番の兄・義継が武蔵吉良氏の祖、次の兄・長氏が三河吉良氏の祖になり、北条氏を母に持つ一番弟の泰氏が足利家を継承します。また、泰氏の男子3人のうち、一番弟の頼氏が足利家を継ぎ、兄たちから石橋・斯波・渋川が出ます。

 

 

②については、鎌倉時代から南北朝初期の1340年ごろまで、吉良も石橋も渋川もみな、足利を名乗っていました。吉良氏の祖・長氏は「吉良長氏」といわず、当時の記録には「足利長氏」として残っています。これは石橋も渋川も同じですが、多数ある足利一門でも、細川、今川、桃井、畠山などは当時からその名字で呼ばれていました。やはり、「足利」と名乗ることができた吉良、石橋、渋川の3家は別格でした。

 

③については、足利惣領家というと絶対的な存在に思われがちですが、鎌倉時代はそれほどでもなく、当時「足利」を名乗っていた庶子家も、惣領家が衰退すると足利氏を代表する立場として活動したほか、有力寺社や公家との間に独自のパイプを構築するなど、それなりの力を持っていました。足利の嫡流家にも劣らない実力を持っていたことも、御三家として選ばれるゆえんになっていました。

 

【呼称】「御一家」から「御三家」へ

 

「足利御三家」という言葉について、谷口さんはかつて、吉良・石橋・渋川の3家を「足利氏の御一家」と呼んでいました。このブログでも谷口さんの論考「足利氏御一家考」(『関東足利氏と東国社会/中世東国論5』所収)に基づいて「御一家」と紹介しましたし、現時点でウィキペディアを見ても「御一家」として立項されています。しかし、足利一門全体を御一家と呼ぶ史料もあることから、「三家」と書かれた史料に基づいて「御三家」ということにしたそうですので、このブログでも「足利御三家」としてアップデートすることにしました。

 

また、谷口さんは江戸時代の徳川御三家との比較・連続性も意識して「足利御三家」と名付けたそうです。江戸幕府は室町幕府の儀礼制度や身分格式を色濃く継承した、ということが分かっているようで、谷口さんは「将軍家の血に近い三者が、将軍家に次ぐ別格の家格を占め、将軍家を支えるという役割は全く同じなので、徳川御三家は足利御三家を模倣あるいは継承したのではないか」と考えています。徳川御三家については「中国の天地人三才の思想を根底にした」(『国史大辞典』)というのが通説になっているそうですが、「根拠不明で説明になっていない」と厳しく指摘しています。

 

【役割】足利氏の血のスペア

 

さて、足利御三家の役割について、谷口さんは「将軍家が断絶した時は彼らが継ぐ、というような『足利氏の血のスペア』だった」と考えています。「伊勢貞助雑記」や「蔭涼軒日録」といった中世史料には、足利御三家が将軍足利氏のご連枝(兄弟)に準じる存在として明記されているそうです。実際に足利氏を継いだ事例は1件だけあるとして、16世紀半ばの関東地方で、関東管領の北条氏が関東公方の足利氏と対立した時、北条氏が武蔵吉良氏を臨時的な公方として一時的に擁立した可能性を指摘。「実際に足利氏にかわった、かわりえたケースはあった」と考えています。

 

後世の史料ながら「今川記」や「甲陽軍鑑」に記された「室町殿(足利氏)の子孫が絶えなば吉良に継がせよ、吉良も絶えなば今川に継がせよ」については、実態が証明できるということで、16世紀半ばの東海地方で「吉良殿御一家」である駿河今川氏の今川義元が吉良家の家督継承を主張したことや、同時期の関東地方で遠江今川氏が武蔵吉良氏の家督を継いだことを紹介し、「『吉良が絶えなば今川が継ぐ』を地で行ったことがあった」として、吉良氏などの役割が足利氏の血のスペアとして、足利氏断絶に備えることにあり、徳川御三家のような存在が中世にもあったとする自説を補強しています。

 

【家格】足利一門筆頭の吉良氏

 

ところで、足利御三家がどれだけすごいのか――については、室町幕府管領家(斯波・畠山・細川の3家)と家格を比較すると、当時の史料から御三家は管領家と同等以上の扱いで、吉良家はそれ以上の扱いだったことが分かり、吉良氏は足利氏に次ぐ家格を占めており、徳川幕府でいう御三家筆頭(尾張徳川家)というイメージで捉えられるということです。足利一門全体の筆頭と呼んでも過言ではないでしょう。石橋・渋川両氏の家格については確定されず、事実上同格扱いだったそうです。

 

このように、吉良家最大の特徴は何かと考えた時、やはり超名門家であるこということ、室町武家社会で吉良氏は別格中の別格だったということを、西尾市に住む私たちは誇っていかなければならないと思います。

 

【参考資料】谷口雄太「吉良氏とはいかなる一族か」(『西尾城シンポジウム2 戦国時代の西尾城』西尾市教委・2016年)、谷口雄太「新田義貞は、足利尊氏と並ぶ『源家嫡流』だったのか?」(呉座勇一編『南朝研究の最前線』洋泉社・2016年)