こんにちは。

はじめに、この世の中で、生まれてから一度も失敗したことないという人は、間違いなく存在しないと思います。失敗した時には落胆するかと思いますが、「失敗は成功のもと」という言葉があるように、失敗した原因を反省し、それを糧に気持ちや行動を改善して目指すべきところに向かって着実に進むことが重要です。例えば、資格の取得や試験の合格に向けて勉強を頑張ったけど思うようにならんだった、その時には「合格できんかった要因は何だろう」「今の勉強方法を改善しよう」と考え、再び前に進もうとすると思います。

今日では、インターネットが大いに発展し、様々な情報を提供してくれる人々のお陰もあり、検索さえすれば知りたい情報を簡単に得られるようになりました。先程から例に挙げている資格や試験の勉強についても、勉強方法を検索すれば、色々な人のブログ、動画、記事による解説が見られるし、あるいは有益な著書が紹介されることもありますね。わしも自分が持つ知識や能力は限られており、様々な面で学んで着実に成長していきたいと考えているので、場面に応じて自分に必要な情報を検索する機会が多いです。

世の中役に立つ媒体はたくさんあるのですが、もっと人間の根本からの成長(内面の改善、精神面や霊的な成長)をする為に、普段から学びを得ている聖書を強く勧めたいのです。今回の記事では、聖書から学ぶ意義や、聖書から得られる失敗からの学びの例と、そこからわしが感じたこと等を書いていこうと思います。

 

そもそも、何故我々は聖書から学んで、自身の行動や内面を改善する必要があるでしょうか。簡潔に言うと、聖書には世の中や人間の性質を率直に言い表したり、人間の言動の源である内面に関する戒めが多く書かれたりしているからです。人間が失敗をする根本的な原因も理解できるでしょう。聖書を学ぶ意義について詳しく言及する前に申し上げたいこととして、まず、悪魔崇拝者である支配層が新世界秩序(NWO)実現に向けて絶えず動いていることを決して忘れてはなりません。聖書を学ぶ意義は、悪に加担しないことにも深く関わると考えています。ところで、最近の話題として、インターネット上で色々な人が呟いたり記事にしたりしており、ご存知の方も多いとは思いますが、日本維新の会、国民民主党、及び衆院会派「有志の会」が「緊急事態条項」に関する実務者協議の初会合を開き、太陽暦三月中に共同で条文案をまとめる方針を出した件がありました。参考までにこちら(産経ニュース)。「緊急事態条項」とは、簡単に言えばナチスと同じことを繰り返すための独裁条項です。緊急事態条項の発令条件は極めて緩く、首相が恣意的に緊急事態宣言をすることが可能で、緊急事態宣言下では、内閣が閣議決定で政令を出し、それが法律と同等の効果を持つようになってしまいます。通常、法律は立法機関である国会で審議され、衆議院で可決し、参議院に送られ、そこでも可決されてやっと成立すると学んだのですが、このような手続きを失くして行政権の内閣だけで好き勝手に法律を作れてしまうのです。過去、独逸のヒトラー政権は、ワイマール憲法にあった「国家緊急権」を使い、緊急事態宣言を出し、全権委任法を制定したのであり、政府はこの手口を繰り返そうとしています。また、「緊急事態」の期間を恣意的に延長可能であり、半永久的な独裁が出来上がります。今回に関しては、「協議しているのが自民党じゃないから、自民党改憲草案のとはまた別物だ」と捉える人も居るかもしれませんが、与野党グルなのが実態ですし、中身は自民党改憲草案とほぼ一緒に違いありません。「自由民主党 憲法改正実現本部」のサイトの本拠において、こちらにあるように、最近でも岸田文雄首相が演説の中で「時代は憲法の早期改正を求めていると感じている。野党の皆さんの力もお借りしながら、国会の場における議論を一層積極的に行っていく。」と発言しており、彼らが憲法改悪に向けた動きをやめることは無いでしょう。自民党改憲草案も、十年前の平成二十四年に挙げられたものがそのまま堂々と掲載されており、現憲法の三大原理を著しく制限して、戦前以上の息苦しい世の中にしていく思惑はずっと変わらんとも分かります。何より、偽ユダヤ人の支配層にとって、国民の基本的人権や自由等が保障された現憲法の内容は、新世界秩序(NWO)実現に向けて非常に邪魔になのだと考えられます。「興味無い」で片付けられることではなく、国民全員の生活が関わることなので、本当にすぐにでも憲法改悪の危険性について知って反対する必要があります。

支配層の人間どもは、自分たちの目的を達成させる為なら手段も選びません。これは、コロナ偽騒動の下で行われた数々の大犯罪(ニュルンベルク綱領違反の大罪であるコロナワクチン接種、人権無視の「コロナ対策」等)をご存知の方々なら、ある程度気づいておられると思います。新世界秩序推進派にとっては、自分たちの理想とする世界(庶民にとっては絶望郷)の実現となり、彼らが崇拝する悪魔にとっては、支配層の秩序や法令に屈して従う全ての人間を、悪魔自身に決定付けられている地獄行きの道連れを確定することに繋がるのです今でも時々、「支配層の計画は頓挫する」みたいなことを言っている人がちらほら見かけられます。そのように望むこと自体は、感覚として全くおかしくありません。しかし、彼らの富や力は我々の想像するより遥かに上です。言葉にできんような非道を繰り返して富や力を得ており、支配層にとって都合の悪い人物が都度、不審死という名の暗殺という目に遭っていることも聞いたことがあるのではないでしょうか。「多勢に無勢」という言葉があり、我々庶民は個々では無力とは言え世の多数派であり、その多くが賢くて支配層の悪事に不服従で徹底的に抗戦するならば、彼らの施策も思うようにはいかないでしょう。しかし、現実は逆で、大多数は支配層の悪に気づきすらしていませんね。残念ながら、極悪人どもに抵抗するまともな人にとって「多勢に無勢」となっています。ある程度、世の悪に気づいている人でも、何か益となる行動を起こしたりする人は更に少ない。このように考えていくと、過去記事でも何度か繰り返し申し上げてきたように、支配層はやりたい放題で、新世界秩序実現も時間の問題。ほとんどの人間が、無意識であっても神に逆らい、悪魔とその手先の人間に従う故に、神の激怒と災いは免れないでしょう。創造主なる神が全てを見通した上で予告された聖書預言は、過去から実現してきており、今後世の終わりにかけて全て実現していきます。

だからといって、どうにもならんのではなく、人間側が悪とは完全に無縁となる必要があります。

 

さて、どうして聖書から学習する必要があるかという話に戻りますが、聖書によって、真の希望や何が正しくて何が悪魔的であるかの本質がわかり、創造主なる神の高潔な慈愛と正義を知ってそれに従うことで悪に屈しない強さと確信がもたらされるのですここで、主イエス・キリストとキリストから直々に指導を受けた十二使徒による教えの例を見てみましょう。

ここでは、ほんの一部ではありますが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四つの福音書に書かれた主イエス・キリストの御言葉から取り上げ、その教義や戒めの意義を考えたいと思います。

 

  • 「実によって見分けること」(マタイ七章十五節~二十節、ルカ六章四十三節~四十五節参照)

この部分で、警戒対象は「偽預言者」とされていますが、前回記事「今も昔も変わらない偽り者たる悪人の姿」にて、現代の偽キリスト者(パウロ狂信者)や世の極悪支配層やその手先、及びその他あらゆる詐欺師が、使徒ペトロの手紙にある「偽教師達」の特徴に当てはまったのを考察したため、同じく当該の御言葉の「偽預言者」も現代のあらゆる悪人どもに置き換えて考えることができると思います。「実で見分ける」というのは、まさに「行い」で他者を見分けることです。不誠実な政治家が公約を果たさない、やる気の無い人が口先だけということからも、行いは嘘をつかないとよくわかります。普通に考えてみれば、行いによって内面が偽りなく現れるので行いによって人を見分けるべきなは真っ当なことですが、権威主義だったり肩書き信仰だったりして上辺で人を判断して騙されている人が多いです。しかし、「実によって見分けること」を実践すれば、自然と、他者を表面的な部分だけでなく、内面とか行動とかもっと深いところまで見るようになって、惑わされないようになると思っています。これにより、世の極悪人である支配層とその手下である政府、報道機関、各種機関、悪に加担する大企業、パウロ狂信者の巣窟である世の「キリスト教」諸教会の嘘も見破れて、騙されなくなるでしょう。

 

  • 「人を恐れずに神を畏れること(どんな人間でも殺せるのは肉体だけであり、魂まで滅ぼせるのは神のみ)」(マタイ十章二十八節、ルカ十二章四節~五節参照)

人間を恐れないからどんなことをしても良いというのではありませんが、特に神の掟に沿った善行やその他必要な物事をする場合、人間の評価を気にせず、神を畏れてその御目に適うようにするのが求められます人間を恐れるなというのは、旧約時代から一貫して神が人間を鼓舞して仰せになっていたことの一つです。神にとって正しいこととは、一番には、神への信仰を持ち神の律法、掟、戒めを遵守することだと聖書全体から判断できますが、神の律法に照らし合わせて間違いであること(同性愛、占い、日曜礼拝、偶像礼拝、他多数)を率直に指摘し、支配層のあらゆる悪事に加担しない、またはさせないことにも「人を恐れない」重要性が大いにあると考えます。どうしても、生きていくには人と関わる必要があるので、他者からどう思われるかを気にしないようにするのに時には勇気が要るかもしれません。ですが、聖書を学んで、人間は単なる肉体的な存在ではなく霊的なものであることや死生観を併せて理解すれば、尚更、人を恐れるなんて莫迦げているという認識に至ると思います。そして、正しいことを躊躇せずに行動できるようになるのです。

 

  • 「神への愛と隣人愛の重要性」(マタイ二十二章三十七節~三十九節、マルコ十二章二十八節~三十四節、ルカ十章二十五節~二十八節参照)
  • 「自我を放棄すること」(マタイ十章三十七節~三十九節他参照)

特に前者の掟は、主イエス・キリストが地上に来られて初めて仰ったのではなく、既にモーセが仲介した律法の中で言及されているものです(申命記六章五節、レビ記十九章十八節)。キリストにより、神を愛することが最も重要で、次いで隣人愛が重要であると、一世紀当時に改めて教えられました。聖書全体の内容はよく知らんでも、聖書で教えられる「愛(特に「慈愛」)の精神を聞いたことがある人は居られると思いますが、その本質を理解して実践するのは簡単にはいかないと感じます。慈愛をはじめとした主イエス・キリストの教えを実行するのに邪魔なのが、自己愛や自我(肉の思い、身勝手に「あれしたい」「こう思いたい」という思い)です。人間同士の争いは、互いが「自分の方が正しい」と譲らず自らを擁護すること(一種の自己愛)によるのではないでしょうか。詐欺についても、物欲、金銭欲、支配欲といった欲望に基づくでしょう。自己愛が強い故に「自分が正しい」と思えば、他者の有益な戒めや勧告さえ受け入れられなくなります。ちなみに、聖書の箴言では、矯正や戒めや叱責等を嫌うのが如何に愚かであるかを繰り返し示しているのです。多数派が少数の正しい人を迫害してきた悲惨な歴史も、多数派が「正義」よりも「自分が攻撃の対象になりたくない」といった自己保身や臆病さ、つまり一種の自己愛に起因すると考えられます。関連して、「日本人の問題点 四【真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)】」では、現代日本人の行動や品性の問題とこれらが引き起こす社会全体の大きな問題を中心に論証がなされており、良心のある人であれば、主イエス・キリスト(神)の教えに反した邪悪な人間たちによる世の中が如何に悲惨であるか理解できるのではないでしょうか。そこからご自身の行動を振り返り、そして全ての人間が聖書を学んで実践する意義を悟っていただきたく存じます。

 

日本人の問題点 四【真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)】」からわかった問題点の例↓

神の律法、掟、戒めの根幹が「愛」であり、聖書の至る所で愛の重要性がわかる記述があると思います。仮に、世界中の人々が、聖書で教えられる愛、特に「慈愛」を真心から体現できているとしたら、どれ程世の中は平和でしょうか…。しかし、後に改めて紹介しますが、この世全体が悪の中にあるし、人間の本性は悪です。「表面上は感じの良い人が多いと思うけど」と思う人もいらっしゃると思いますが、それは大概、本性が現れていないだけであり、状況が変われば別です。主イエス・キリストを模範とし、慈愛によって完成されないなら、いくら外面を良くしても、思わぬところで本性が現れると思います。現在の世の性質は変わりませんが、聖書預言に書かれた、この世が滅んだ後に再創造される新しい天地、キリストが統治する御国でこそ、本物の愛に基づいた義に満ち、平和で、永続するに相応しい世界が実現します。そこを目指したいなら、生まれつきの「ありのままの状態」の品性では話にならないので、神の律法から何が罪であるかを学び、罪を悔い改め、主イエス・キリストを模範として成長し、最期まで忍耐して歩み続ける必要があります

 

上記で挙げた内容に限らず、聖書全体の主旨を正しく十分に理解できれば、ペトロやヨハネ達十二使徒が遺した教えや激励の言葉も理解できると考えています。

使徒ペトロは、「仮の宿」(ペトロ二 一章十三節~十四節)、「仮住まい」(ペトロの手紙一 一章一節、十七節、二章十一節)のように、この世が存続期間の定められた仮の世であることを繰り返し示しています。人生を「仮住まい」と似たような感じで表現した言葉が、詩編の百十九編五十四節をはじめ存在します。また、同じく使徒ペトロの書簡の中の一節にある以下の言葉を見てみましょう。

 

なぜなら、「すべての生ける被造物は草のようで、人間のすべての美点は草の花のようや。枯れた草とその花は散る。 せやけど、主の御言葉は永遠に残る。」さかい。そして、これがあんた方に告げられた福音の言葉や。」(ペトロの手紙一 一章二十四節〜二十五節)

(ミカエル氏による訳:現実逃避をやめよ【真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)】

 

これは預言者イザヤの預言を引用したものであり、人間含めたすべての被造物と異なり、主なる神(主イエス・キリスト)の御言葉は永遠であり、神が途中で気が変わって秩序をコロコロ変える御方ではなく、どの時代のどんな人間にとっても適用される共通の真理という主旨です。有限である現在の世や被造物のことを知れば、外面だけ異常な程に拘ることなく、世への執着が無くなり、一層聖書から真の希望(主の御言葉、死者の復活、再創造される世界等)を理解できるでしょう。それだけでなく、永遠に残る主なる神の御言葉を正しく実行すれば、人間も永遠に存在するに相応しいような完全な者になれると捉えることもできると考えています。

 

我々は、神から生まれた全ての者は罪を犯さず、その上、神から生まれた方が彼自身を守り、悪い者はその者に触らないと知った。

我々は神に属するのであり、世界全体が悪の中にあることを知った。

しかし、我々は、神の御子が来られ、(御子が)我々に真理である方を知る為の理解力をお与えになったのであり、我々は真理である方の内に、御子イエス・キリストの内にあり、この方が真実の神であり永遠の命だと知った。

ヨハネの手紙一 五章十八節~二十節(拙訳)

 

多数派が悪魔崇拝者の支配層に恣意的に操られて正しい考えの人が迫害されるという歴史が繰り返されているし、世の真相をも認めずに何だかんだ政府、報道機関、学校教育、及び各機関の言うことを盲信している多くの人々の様子から、世の中全体が悪であるとよくわかると思います。

世を支配し、世の中の偽りの喜び(娯楽や快楽)で人々を夢中にさせて本質から目を逸らさせ、自らの秩序に従わせる為に人間の心理も悪用して恐怖で従わせてくる、そんな悪魔に服従することを望みますか。人間に計り知れない慈愛を示し、公正で、何よりも義を重んじる神に服従しない理由は無いはずです。

 

聖書全体から満遍なく挙げていくと物凄い量となるので、当記事では、現在ある「新約聖書」として収録されている福音書や十二使徒の書簡からごく一部を抜粋し、簡単にではありますがまとめてみました。聖書全体(パウロ書簡を除く)を十分に理解して実践するのが最も重要なのは言うまでもありません。聖書に書かれた神の律法、掟、戒め、主イエス・キリストの御言葉と模範とすべき高潔な生き様、十二使徒の教え等をもっと知りたいと思われた方は、是非すぐにでも聖書を手に取ってじっくりと何度も通読してください。電子機器ではなく、覚え書きが可能な紙媒体を推奨いたします。序盤で言及したように、日本では、憲法改悪によって基本的人権や自由等が著しく制限された、戦前の日本や隣国のような、あるいはそれ以上の共産主義的な社会を作ろうと国がずっと躍起になっています。世界全体で、悪魔の手先である支配層が、黙示録の「獣」であるローマ教皇を筆頭に、悪魔の意志を行い、共産主義で徹底的な監視管理がなされる新世界秩序の下にある社会の実現に向けて手段を選ばず進めています。多くの人々を見る限り、世の中に自浄作用があるとは思えず、自由のある時間が無くなるのも時間の問題です。何より、この世は神に逆らう反キリストがほとんどであるため、この終末時代において、聖書預言通りの神の激怒は免れないでしょう。時間が無いことを重々認識してください神を信じ、律法、掟、戒めを守りもしない人がいくら「自分は避難に向けて動いている。」「世の真相論について知っているし、支配層のやり口も知っている。無視すればいいし最悪捕まってもいいや。」等と考えても無意味であり、必ず悪魔に屈するようになり、神に従う真のキリスト者とそれ以外(悪魔に従う者)に完全に分かれていきます。

 

ただ、聖書に書かれたあらゆる高潔な教えを実践しようとしても、いきなりその通りにできるわけではありません。日々の反省と改めの連続であり、自分自身の弱さと向き合いながら、少しずつでも克服して着実に成長していくことが求められます。

ここからは、わしの失敗とその原因を考えて分析し、聖書の言葉からどうすればいいか考えた結果を書きます。当記事をご覧になっている皆さんにとって少しでも参考になれば幸いです。

 

~分を弁えていない、忍耐力に欠けている~

福音書にて、主イエス・キリストによる「父なる神が完全であるように、あんた方も完全な者となれ」(マタイ五章四十八節参照)という旨の教えがあり、この御言葉通りに真心からの信仰によって神の律法、掟、戒めをどんな時にも固く守り、最終的には落ち度の無い品性を目指したいと考えています。しかし、自分は「しょうもない間違いなんてしてられない」「もっと~について、きちんとできなきゃ駄目だろうに」等と心の中で考えていました。理想とは異なり不出来な自分を責めることもありました。これらの主な原因は、自分自身を高く見積もってしまったこと、神への愛や隣人愛よりも自分中心的な考えに陥っていたことでした。「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ十四章十一節参照)のように、まさに自らを買い被り、無駄に自分自身を追い込む→でも思うようにはいかん故に落ち込む…という感じになり、自ら首を絞めていたと認識しています。神の御心よりも自分の勝手な思い(自我)を上に置き、「自分の十字架を担え」(マタイ十章三十八節)は勿論、他の教えにも反する結果となってしまいました。

このような過ちを反省し、「等身大の自分」で居ることの重要性を改めて感じられました。等身大の自分で居られれば、自分自身の改善すべき点とかもより冷静に考えられるし、自分の分を弁えて自分を追い込まずに行動できるからです。自我が残ると、どうしても自分を冷静に振り返られなくなり、結局成長にも繋がらず、碌なことがありません。それもあって、自我を捨てろ、高慢になるなという教えの必要性なのだろうと考えています。

また、聖書では、最期まで忍耐することの必要性が、福音書やヨハネの黙示録等で繰り返し言及されています。自分自身を高く見積もる前に、日々「忍耐すること」を学び、日々着実に成長していくことも学んだところです。わしは、未だ気が短い面があり、この御言葉は大変必要となるものだと思います。それこそ、主イエス・キリストの仰せになった「完全な者」に人間がすぐになれるわけなく、日々の努力の積み重ねをしてこそ目指せると、はっきり悟りました。

 

ちなみに、これらの過ちと反省は、真の聖書福音の管理人ミカエル氏の運営する「神のイスラエル教会」でご指導いただいたお陰でよく考えられたことです。自分で自身を客観的に見ることは、意外と簡単ではありません。先程、高慢さについて書いたように、わしは高慢さから、折角信仰の兄弟と交流できる特定の場があるにも拘らず、自分の余計な思いが邪魔をしてほぼ相談もせず、自分一人で抱えるといった莫迦げたことをしていました。でも、いざ相談した時は、気持ちがすっきりするし、自分を振り返ることもでき、何より的確な助言を得られるのが大きいです。「神のイスラエル教会」では、信仰の兄弟間の物理的な距離といった都合上、基本は文字での会話ではありますが、ミカエル氏は慈愛を持って兄弟一人一人を見極め、率直に意見をくださいます。相談等すれば、他の兄弟からも親身になって意見や助言を頂けますし、互いに意見や考えを出し合うことで「あ~そんな視点や切り口もあるんだね」と発見できたりもします。そこに主イエス・キリストが命じられた新しい掟である「兄弟愛」の意義が重々実感できます。

この場では、世の諸教派のような下心や醜悪な欲等は一切無く、やましさも無く、ただ誠実に聖書の御言葉に向き合い実践していく兄弟たちが集まります。誰も、「自分こそ正しい」と考えたりはしないので、異なる意見があっても丁寧に調べて証拠を出せば、いつでも話し合うことができます。求められるのは現在の各々の能力に合った福音伝道や奉仕活動であり、決して高度なことが求められるわけではありません。重要なのは、日々着実に学んで成長していく気持ちと行いであり、且つ最期まで従順に主イエス・キリストに従い歩む覚悟です。今の能力が大したことないからって、委縮する必要は全くありません。わしも凡人ながら日々の努力を大切にしようと心掛けております。

もし、聖書に興味を持ち、共に学び合いや励まし合いをしたいと思う方は、条件や要項をよくご覧になり、早い内にどうか目指してください。