・小説「等伯」では狩野派は「ヒール」というか、新興の長谷川等伯一派を邪魔する既存勢力としての描き方がされている。その中心人物が狩野永徳だ。もちろん、永徳一派(弟子を沢山使い、「工房」で作業)は絵画の方の「実力」もあり、信長、秀吉に指名されて、大規模な障壁画や襖絵を次々と描いていた。

 

・永徳の父・狩野松栄は温厚な人物で、仲介役として、人手不足の永徳派の作業の一部を等伯・久蔵(等伯の息子)たちにも分担させるよう口ききをしたりしている。聚楽第の障壁画作成の際には、狩野派が300人、等伯(当時はまだ「信春」という名前だったが)一派は、20人程度だった。・・・ここから先は、「小説」を読んでもらった方が、面白いと思う・・。読書感想:「等伯」(安部龍太郎著・文春文庫) | 雑文・ザンスのブログ (ameblo.jp)

 

・しかし永徳が活躍した聚楽第、安土城、大阪城はいずれも破壊され、障壁画も残っていない。

 

・安土城:1576年築城。1582年廃城。戦火で焼けた、あるいは夜盗が火を放ったとの説がある。

 

・「聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として1586年2月に着工され、翌年9月に完成した。九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務をみた。1588年には後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応している。また天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行わた。1591年12月に秀吉が豊臣氏氏長者・家督および関白職を甥の豊臣秀次に譲ったあと聚楽第は秀次の邸宅となった。翌、1592年1月には再度、後陽成天皇の行幸を迎えている。短期間に同じ場所に2度も行幸が行われたのは稀有なことである。しかし、1595年7月に秀次は、秀吉によって高野山に追放させられ、切腹した。その後、秀吉は、秀次を謀反人として印象付けるため、翌8月から聚楽第を徹底的に破却した。竣工から破却まで、聚楽第が存在したのは8年弱であった。」「聚楽第の破却に際し、建物の多くは伏見城内へ移築されたとされる。西本願寺の飛雲閣、妙覚寺の大門、妙心寺播桃院玄関、山口県萩市常念寺の山門なども、聚楽第から移築されたという伝承があるが、いずれも伝承の域を出ず、今のところ聚楽第の遺構と認められている建造物は大徳寺の唐門だけである。」(Wikipedia)

 

・秀次が切腹まで追い込まれた理由は、諸説あるが、良くわからない。秀頼が生まれて直系で豊臣家がつないで行ける・・とわかり、急に秀吉にとって甥(秀次は姉の子)の存在が疎ましくなったのではないか?という有力説もある。(あるいは朝鮮出兵でアンチ秀吉の気分がたかまり、秀次がその核になる可能性を早めに摘んだという説もある)。ここの障壁画は破壊された。

 

・大阪城は、琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島にある宝厳寺唐門(国宝)が、「現存する唯一の豊臣大坂城の遺構ではないか」といわれている。国宝を巡る旅。(琵琶湖 竹生島) | 雑文・ザンスのブログ (ameblo.jp)ここも障壁画は破壊された・。現在ある大阪城は江戸時代の建築。

 

そんな厳しい環境下でも、現存している作品は以下のようだ。

東京国立博物館 - コレクション コレクション一覧 名品ギャラリー 絵画 檜図屏風(ひのきずびょうぶ) (tnm.jp) (「国宝展」に出ていた)。

洛中洛外図屏風 上杉本 - 検索 (bing.com)(いわゆる「上杉本」)。

大徳寺 聚光院 | 京都春秋 (kyotoshunju.com) 狩野永徳とその父、松栄による本堂障壁画46面(全て国宝)が5年半ぶりに里帰りし公開中(3/26まで)

三の丸尚蔵館の唐獅子図屏風もあった!唐獅子図屏風 - 検索 (bing.com)